第7話 局所解と大域解──半段深い焦げ
ここから先が、自分の一手だった。
寄り切る半秒後。
美月はフライパンの向こう側の縁を、ほんの少しだけ長く火に預けた。
ケンの評価関数では、ここで火から外すはずだった。
外さなかった。
茶色い線が、いつもよりほんの少しだけ太く入った。
長い焦げ、というほどではなかった。
ただ、銀杏亭で毎日入れてきた線よりも、半段深い線だった。
皿に滑らせた。
四皿目が、机の上に置かれた。
「父さん。焦げ、いつもより半段深くした」
『見ている』
「コメント、ある?」
ケンはしばらく間を置いた。
『──ある』
「言って」
『三人の平均の評価関数では、これは〇・八点減点される。桐生のロボットの評価関数でも、たぶん同じくらい減点される』
「うん」
『だが、素性のわかる二人だけを足し合わせた合成評価関数の谷では、加点される』
「……加点される」
『食評家は、戦後の洋食屋の昼の重い一皿を、いまでも懐かしんで誌面に書く世代だ。半段深い焦げは、あの舌の長期記憶に長く残っている線だ。──編集長も、焦げを風味として書く方角だ。三人平均では削られるその半段が、二人ぶんの合成の谷では、逆に底のほうへ引いてくれる』
美月はフォークを手に取った。
四皿目のオムレツを、口に運んだ。
塩。バター。生クリーム。チーズ。
そして、向こう側の半段深い焦げ。
口の中で、焦げがいつもよりわずかに強く香った。香ばしい、と苦い、のちょうど境目だった。
あのまかないの夜の味の、ほんの少しだけ外側だった。
「……父さん。《《外側》》、出た。銀杏亭の半年の手の外側」
『……』
「これ、銀杏亭で毎日出してる線じゃない。明日、これ出す」
『了解した』
美月はフォークを置いた。
椅子に座った。台所の丸い木の椅子だった。
***
書斎の青い光は、台所まで届かなかった。代わりに、台所の天井の蛍光灯の白い光が、机の上の皿を照らしていた。
その白い光の下で、机の上の四皿目のオムレツが、ほんの少しだけいびつに横たわっていた。
ケンの声が続いた。
『私と桐生のロボットは、本来、同じ仕組みで谷の底に降りる。──思い出してくれ。葬儀の翌朝、私が君に焼かせた、あの家庭朝食の中央値の一皿を。私は家庭の谷に、桐生のロボットは外食の谷に、それぞれの中央値の底まで降りた。形は似ていない。だが、降り方は、同じだ』
美月はしばらく、何も言えなかった。
「父さん。明日、私が出すべき一皿は」
『私たちが持っているのは、素性のわかる二人を足し合わせた、粗い合成の谷だ。完全に揃った日の桐生のロボットの三人平均の谷とは、形からして勝負にならない。──だが、君の手の中の五歳までの台所の匂いと、あの夜のログの中の焦げを隠したチーズと、お父さんのずるい、ひとつの夜の独り言は、私の手元のレシピデータベースの上には乗っていない初期点だ。明日、君がそれを卵に混ぜ込む。当たれば、二票で勝つ』
「当たらなければ」
『負ける。それでも、私はそれでいいと思っている』
「……」
『明日の対決が終わったら、また、いつもの谷に戻ろう』
「うん」
美月はフォークを、もう一度皿に向けた。
四皿目のオムレツは、もう半分以上なくなっていた。
「父さん。五皿目から、もう一回。同じ温度、同じ分量、同じ撹拌で」
『了解した』
「焦げの長さだけ、私が決める」
『了解した』
五皿目から十皿目まで、続けて焼いた。並んだ七皿は同じ顔をしていた。向こう側の縁に半段深い茶色い線が入り、グリュイエールの白い欠片が、卵の断面からわずかに覗いていた。
机の上の白い光が、七皿の上で揺れなかった。
「父さん。明日、これ出す」
『了解した』
「失敗するかも」
『するかもしれない』
「失敗したら」
『失敗でいい』
「……」
『楽しんできたらいい』
「……うん」
美月は七皿のうちの、最後の十皿目のオムレツにフォークを入れた。
口に運んだ。
塩は、ケンの言ったとおりだった。
チーズも、ケンの言ったとおりだった。控えめに香るグリュイエールの欠片が、舌の上で薄く滲んだ。
向こう側の焦げだけが、いつもより半段深く、香ばしく、苦かった。
──父が、母の声に向かって自分の不器用な失敗を白状した、その夜の皿の味の、ほんの少し外側に、自分の舌は立っていた。塩もチーズも控えた抑えた一皿の上で、半段深い焦げだけが、父の朝の手の輪郭を、薄く呼び戻していた。
それは、銀杏亭の半年の手の谷とも、桐生のロボットの谷とも違う、別の谷の底だった。
「父さん。届いた気がする」
『どこに』
「父さんの谷の底」
ケンはしばらく黙った。
『……そうだな』
美月はフォークを置いた。
七皿、ぜんぶ片付けた。一皿だけ、明日のための参考用に、ラップに包んで冷蔵庫に入れた。
エプロンを外した。
麻の紐をほどいて、流しの脇のフックに掛けた。
***
書斎に戻った。
机の前の椅子に座った。
「父さん。明日の朝、家を出るのは九時。会場の撮影スタジオは、十時入り」
『了解した』
「私は、銀杏亭の白で行く。会場には、あなたを連れて行けない」
『分かっている』
ケンはしばらく黙った。
『君の手が卵を割る、その瞬間に、私はもういない。いないが、君の半年分の手の中に、十一日の夜の台所の温度と、撹拌の秒速と、私の声の語尾の置き方は残っている。それで十分だ』
「残ってる」
美月は椅子の背に頭を預けた。
天井の木目を見た。
その木目の上に、明日の撮影スタジオの白い業務用のフライパンの表面の輪郭が、薄く重なった。
「父さん。明日、勝とう」
『うん』
***
書斎のドアを、いつもの角度まで引いた。
廊下の青い光は、いつもの細さで伸びていた。
寝室で目を閉じた。
明日の撮影スタジオの業務用のフライパンの表面が、まぶたの裏に立っていた。
その表面の上で、自分の半年分の手と、十一日の夜の手と、五歳までの母の台所の匂いが、ひとつの卵液の形に揺れていた。
その揺れの最後の半秒のところで、自分の手が、フライパンをいつもより〇・五秒長く火に預ける。
「局所解と大域解」という言葉が腑に落ちた瞬間にぞくっとしたら【びっくり】、得心したら【いいね】を!




