第6話 局所解と大域解──最後の試作
最後の夜だった。
美月は台所の流しの前で手を洗った。
エプロンの紐を後ろで結び直した。銀杏亭の白いコックコート用のではなく、家の台所用の紺色の麻のエプロンだった。半年前から、家の試作の夜にだけ使ってきた一枚だった。
書斎の机の上のケンと、美月の耳飾りは、家の中のLAN越しに繋がっていた。
美月は書斎で円筒の脇のケースを開け、耳飾りを耳に掛けて台所に戻った。右の耳の奥で、骨を通る振動が、ふだんの位置に灯った。
「父さん。今夜、最後の試作。明日、本番。いまから、卵、十個出すね」
『了解した。十一日分の試作から、最終候補を三つに絞った。──今夜はその三つを順に焼いて、君の舌で、最後に一つを選んでくれ』
「うん」
『耳飾りのカメラが撮ってきた十一日分の皿の見た目と、君の口頭の感想と、温度・分量・撹拌の数値を、合わせて絞り込んである。どれも、舌の中の数十枚の皿のどれかを初期点に置き直して、二人ぶんの合成評価関数の谷へ降りた、近くの三つの底だ』
「聞かせて」
『一案。摂氏百七十五度、バター九グラム、塩〇・八グラム、生クリーム大さじ二分の一、チーズ十八グラム、撹拌秒速三回転。──十歳の誕生日の厚焼きの近傍だ』
『二案。摂氏百八十五度、バター十グラム、塩一・〇グラム、生クリーム大さじ一、チーズ二十グラム、撹拌秒速四回転。──三回忌の翌朝の、焦げの長い皿の近傍だ』
『三案。摂氏百八十度、バター十グラム、塩〇・六グラム、生クリーム大さじ三分の一、チーズ十六グラム、撹拌秒速三・五回転。──熱を出した冬の朝の、薄い一皿の近傍だ』
「三つ、順に焼く」
『了解した』
冷蔵庫から、卵を十個出した。
最初の三皿は、それぞれ一人前ずつの試し皿だった。
一皿目、一案。秒速三回転で奥から手前に撹拌し、火を弱め、フライパンを傾けた。向こう側の縁に、淡い茶色い線が入った。
二皿目、二案。秒速四回転。火を強めに保ったまま、寄り切る半秒先まで縁を火に預けた。茶色い線は、一皿目よりも太く、長く入った。
三皿目、三案。秒速三・五回転。塩は最も控えめだった。茶色い線は、二案より細く、内側寄りに入った。
三皿を並べた。
並べた三皿を見下ろして、美月は小さく気づいた。──ケンの数値どおりに焼いたはずの三皿とも、焦げの位置が、銀杏亭で毎日入れている角度のほうへ、ほんの少しずつ寄っていた。手の中に、半年分の癖が残っていた。
美月はフォークを順に入れた。
一皿目。「厚みはあるけど、焦げが弱い。香ばしさが舌の奥まで届かなくて、後味が早く抜ける」
二皿目。「塩のあたりが落ち着いてる。焦げの香ばしさが、舌の奥まで届く。卵の甘みが、焦げに引き上げられて立ち上がる」
三皿目。「塩が薄くて、卵だけがまっすぐ立ち上がる。きれいだけど、二人ぶんの谷からはいちばん遠い気がする」
『どれを選ぶ』
「二案。あれが、いちばん遠くまで届く」
ケンはしばらく間を置いた。
『私の絞り込みも、二案だった。──十一日分の数値の上で、二案の谷がもっとも深い』
「重なった」
『重なった』
『四皿目から、二案を基準に、最後の確認をする』
美月は四つ目の卵を、ボウルに割った。
割りながら、ケンに声をかけた。
「父さん」
『うん』
「四皿目から、温度と分量と火加減は、二案でいい。だけど、最後の一手は、私が決める」
『分かった』
ケンは、二案の数値をもう一度ひとつずつ告げた。摂氏百八十五度。バター十グラム。塩一・〇グラム。生クリーム大さじ一。グリュイエール二十グラム。卵三個。撹拌の秒速、四回転。──美月はそのひとつひとつに、短く頷いて返した。
『フライパンを傾けるのは、卵の向こう側の縁が、銀杏亭でいつも入る位置に寄ってからの半秒後。──ここから先は、君の判断だ』
美月は頷いた。
頷いてから、ケンの出した数値の上に、自分の手を重ねた。
塩は、ケンの言ったとおりにした。父が朝に焼いていたオムレツは、いつも、ほんの少しだけ塩が強かった。あの強さを思い出しかけて、美月はその記憶を一度、舌の奥に押し戻した。今日の審査員は、年配の食評家と編集長だった。父の朝の塩は、たぶん、そのふたりの舌には尖って届く。今日は、ケンの方を信じる。
チーズも、ケンの言ったとおり、二十グラムをグリュイエールの塊から量って削った。半年前のまかないの夜、銀杏亭の厨房で自分の手が勝手に止まった、その量とは違う量だった。今日は、家庭の母の味の方角に、控えめに寄せる。手の癖は、舌の奥でじっとしていてもらった。
フライパンを火にかけた。
ケンの声が、頭の中で温度を見ていた。
バターを落とした。十グラムよりも、ほんの少しだけ多めだった。
卵液を流し込んだ。
奥から手前に撹拌した。秒速は、ケンの四回転に揃えた。揃えたのは自分の手だった。意識して揃えた、というよりは、もう揃ってしまっていた。
火を弱めた。
フライパンを傾けた。
向こう側の縁を、銀杏亭でいつも入る位置に寄せた。
ここまでは、ケンの言う最適化の上だった。
ひりつく応酬に手に汗握ったら【びっくり】を。どちらの言い分も刺さったら、★を。




