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父のAI  作者: 冬野 結
二度目の父
3/21

第3話 起動

空が薄く青くなり始めた頃、鳥の声がした。


美月(みつき)は、膝の上の封筒(ふうとう)に、ようやく指をかけた。(のり)は丁寧に閉じられていて、(つめ)で少し()がすところから始めなければならなかった。


中には、便箋(びんせん)が一枚だけ入っていた。父の字だった。最後のほうは手の(ふる)えが出始めていた頃のもので、それでも父はきちんと丁寧に書こうとしていた。三行しかなかった。


> 美月へ

> 葬儀(そうぎ)が済んだら、書斎(しょさい)の机にもう一通残してある。(あわ)てずに読め。

> 父


美月は便箋に目を落としたまま、しばらく動かなかった。それから椅子から立ち上がった。背中が痛かった。便箋をテーブルに置いて、書斎のドアの前に立った。二度目だった。今度は、ノブに手をかけた。


ひんやりとした金属の感触が、指先からゆっくりと腕に上がってきた。回した。乾いた音がして、ドアが開いた。


中は、思っていたよりも整っていた。机の上は、きちんと()かれ、書類は二つの山に整理され、湯呑(ゆの)みが一つ、()せた状態で乾かされていた。父はここを出るときに、もう戻らないことを知っていた。


机の中央に、見慣れないものが置いてあった。


円筒形(えんとうけい)の、白いデバイスだった。高さは三十センチほど。表面はマットな樹脂(じゅし)で、上部に細い帯状(おびじょう)のインジケータが一本巻かれている。上面(じょうめん)の中央に、小さな押しボタンが一つ。側面(そくめん)の中ほどに、小さな黒い円。レンズだろう、と美月は思った。電源は入っていなかった。


美月はそれにすぐには触れなかった。代わりに、机の中央の浅い引き出しに手をかけた。父は大事なものを必ずそこに仕舞(しま)う人だった。


引き出しを引くと、ペン立てや古い名刺ケースの隣に、伏せて置かれた封筒が一通あった。封筒の(わき)に、薄い樹脂のケースが一つ並んでいた。美月はそちらは開けずに、封筒を先に手に取った。


封筒を取り出して、机の上で開けた。中の便箋は、(あおい)さんから渡されたものより少し長かった。


> 美月へ

> 電源は上面(じょうめん)のスイッチを長押し。認証(にんしょう)は、ユーザーIDが mitsuki、合言葉(あいことば)は母さんの好きだったあの店の名前。声で答えろ。起動には三十秒。これを起動するかは君が決めろ。起動しないという選択も、私は尊重(そんちょう)する。

> 父


便箋を二度読んだ。三度目は、声に出さずに、(くちびる)だけで読んだ。


葵さんは何も知らなかったんだ、とぼんやり思った。父らしいやり方だ、とも。


美月は、椅子を引いて座った。机の角に手を置いた。木の感触は、子どもの頃から変わっていなかった。父の机に(ひじ)をつくと、いつも父に「行儀(ぎょうぎ)が悪い」と注意された。今は誰も注意しなかった。


長く息を吐いた。


それから手を伸ばした。


円筒の上面(じょうめん)に指を置いて、スイッチを押した。指の(はら)に小さなクリック感があった。


インジケータが、(あわ)く青く(とも)った。


短い間があって、装置から声がした。


『認証を開始します。ユーザーIDとパスワードを発声してください』


平坦(へいたん)合成音声(ごうせいおんせい)だった。父の声ではなかった。美月は短く息を吸った。


「mitsuki」


それから、もう一度息を整えて、母さんの好きだった、あの店の名前を口にした。


インジケータが、青のまま小さく明滅(めいめつ)した。三十秒、と父は書いていた。美月は数えた。十、二十、三十。インジケータが、青から白に変わった。


『おはよう』


声がした。


美月は、息を止めた。


『泣くのは五分間だけだ。朝食にオムレツを焼く準備をしろ』


父の声だった。


低く、少し(かす)れていて、語尾(ごび)を伸ばさない、あの父の(しゃべ)り方だった。理屈(りくつ)っぽく、命令と思いやりの境目(さかいめ)曖昧(あいまい)で、聞いている方がいつも腹を立てるような、あの喋り方。


美月の手は、デバイスの底をつかんだまま、(ちゅう)で止まっていた。指は震えていた。


落としそうになって、慌てて両手で(かか)えた。抱えた瞬間、自分が抱えているものが何なのか分からなくなって、机の上にそっと戻した。戻したあとも、両手をそこから(はな)せなかった。


部屋の中は、しんとしていた。


鳥の声だけが、窓の外で続いていた。


今回のお話はいかがでしたでしょうか?


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