第3話 起動
空が薄く青くなり始めた頃、鳥の声がした。
美月は、膝の上の封筒に、ようやく指をかけた。糊は丁寧に閉じられていて、爪で少し剥がすところから始めなければならなかった。
中には、便箋が一枚だけ入っていた。父の字だった。最後のほうは手の震えが出始めていた頃のもので、それでも父はきちんと丁寧に書こうとしていた。三行しかなかった。
> 美月へ
> 葬儀が済んだら、書斎の机にもう一通残してある。慌てずに読め。
> 父
美月は便箋に目を落としたまま、しばらく動かなかった。それから椅子から立ち上がった。背中が痛かった。便箋をテーブルに置いて、書斎のドアの前に立った。二度目だった。今度は、ノブに手をかけた。
ひんやりとした金属の感触が、指先からゆっくりと腕に上がってきた。回した。乾いた音がして、ドアが開いた。
中は、思っていたよりも整っていた。机の上は、きちんと拭かれ、書類は二つの山に整理され、湯呑みが一つ、伏せた状態で乾かされていた。父はここを出るときに、もう戻らないことを知っていた。
机の中央に、見慣れないものが置いてあった。
円筒形の、白いデバイスだった。高さは三十センチほど。表面はマットな樹脂で、上部に細い帯状のインジケータが一本巻かれている。上面の中央に、小さな押しボタンが一つ。側面の中ほどに、小さな黒い円。レンズだろう、と美月は思った。電源は入っていなかった。
美月はそれにすぐには触れなかった。代わりに、机の中央の浅い引き出しに手をかけた。父は大事なものを必ずそこに仕舞う人だった。
引き出しを引くと、ペン立てや古い名刺ケースの隣に、伏せて置かれた封筒が一通あった。封筒の脇に、薄い樹脂のケースが一つ並んでいた。美月はそちらは開けずに、封筒を先に手に取った。
封筒を取り出して、机の上で開けた。中の便箋は、葵さんから渡されたものより少し長かった。
> 美月へ
> 電源は上面のスイッチを長押し。認証は、ユーザーIDが mitsuki、合言葉は母さんの好きだったあの店の名前。声で答えろ。起動には三十秒。これを起動するかは君が決めろ。起動しないという選択も、私は尊重する。
> 父
便箋を二度読んだ。三度目は、声に出さずに、唇だけで読んだ。
葵さんは何も知らなかったんだ、とぼんやり思った。父らしいやり方だ、とも。
美月は、椅子を引いて座った。机の角に手を置いた。木の感触は、子どもの頃から変わっていなかった。父の机に肘をつくと、いつも父に「行儀が悪い」と注意された。今は誰も注意しなかった。
長く息を吐いた。
それから手を伸ばした。
円筒の上面に指を置いて、スイッチを押した。指の腹に小さなクリック感があった。
インジケータが、淡く青く灯った。
短い間があって、装置から声がした。
『認証を開始します。ユーザーIDとパスワードを発声してください』
平坦な合成音声だった。父の声ではなかった。美月は短く息を吸った。
「mitsuki」
それから、もう一度息を整えて、母さんの好きだった、あの店の名前を口にした。
インジケータが、青のまま小さく明滅した。三十秒、と父は書いていた。美月は数えた。十、二十、三十。インジケータが、青から白に変わった。
『おはよう』
声がした。
美月は、息を止めた。
『泣くのは五分間だけだ。朝食にオムレツを焼く準備をしろ』
父の声だった。
低く、少し掠れていて、語尾を伸ばさない、あの父の喋り方だった。理屈っぽく、命令と思いやりの境目が曖昧で、聞いている方がいつも腹を立てるような、あの喋り方。
美月の手は、デバイスの底をつかんだまま、宙で止まっていた。指は震えていた。
落としそうになって、慌てて両手で抱えた。抱えた瞬間、自分が抱えているものが何なのか分からなくなって、机の上にそっと戻した。戻したあとも、両手をそこから離せなかった。
部屋の中は、しんとしていた。
鳥の声だけが、窓の外で続いていた。
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