第2話 空の家
家に着いたのは夕方だった。
母が選んだ古い庭付きの一軒家。築年数は美月より上だ。引き戸の鍵を開けると、夏の終わりの庭の匂いが小さく流れてきた。梅の木が一本、枝を伸ばしている。母が植えたものだと、父から何度も聞かされた木だった。
「お邪魔します、って言いそうになる」
莉子が玄関で苦笑した。家まで一緒に来てくれていた。
「上がる?」
「いや、今日はやめとく。明日また来るよ」
莉子は本当にそういう距離の取り方が上手かった。美月はうなずき、玄関先で短く別れた。閉めた扉の音が、思っていたより家の中に響いた。
父の書斎の前に立ち、ドアの隙間から漏れる、昨日まで人が暮らしていた部屋の匂いを一度だけ深く吸って、ノブには触れずにリビングに引き返した。
冷蔵庫を開けた。莉子が昼間のうちに入れておいてくれた弁当があった。レンジで温める気力もなかったので、冷えたまま箸で半分だけ食べた。米は固かった。
父は母が死んだ日、何を食べていただろう。母が逝ったとき、美月は五歳だった。あの日の食卓のことは、もうほとんど覚えていない。覚えているのは、父があの夜、ずっと無言で、そして泣かなかったということだけだった。
その夜、自分が「パパ」と呼びかけたことだけは、なぜか覚えていた。その呼び方は、それから少しずつ減って、いつのまにか出てこなくなった。
弁当の蓋を閉じた。冷蔵庫に戻した。
タブレットを開いて、香典返しの業者に明日の打ち合わせを入れた。高校のシステムに忌引きの届を出した。十七年生きてきて、こういう届を自分で出すのは初めてだった。届の理由欄には「父死去」とだけ書いた。一度目は変換が「遅々」を返した。打ち直して「父」にしてからも、しばらく送信ボタンを押せなかった。
学籍ページの欄外に、関連記事の見出しが流れていた。「シェフはもう要らない時代――調理AI〈ロティ・スマート〉、桐生 涼の挑発」。料理界隈で最近、たまに目にする名前だった。チェーン店の厨房に AI を入れて回している若い料理人と、その背後にあるサービスの名前。美月は最後まで読まずにスクロールを進めた。
寝室には行かず、封筒を膝の上に置いて、リビングの椅子に座ったまま、美月はそのまま朝まで眠れなかった。時計を見ないようにした。時計を見ると、その時刻に父がもうこの世にいないということが具体的になってしまう気がした。
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