第20話 兄弟弟子──ワンコインのオムレツ
「──分かった。それは踏み込まない。ただ、誌面の対決のテーマは、向こうの編集部が決めている」
「はい」
「テーマは、オムレツ、らしい。君の店の看板の一皿、らしいな」
「……はい」
「俺の店も、看板はオムレツだ。ワンコインで毎日、何百食も出している」
「知ってます」
「知ってる」
「衛生もアレルゲンも安全管理も、全部、別系統のAIに監査ログを吐かせている。人手は要らない。──それが、うちの売り文句だ」
「はい」
桐生はまた笑った。
「だから、ちょうどいい」
「ちょうどいい?」
「先生の主張の、答え合わせをする」
桐生は湯飲みを、机の上に戻した。
戻した湯飲みの底の丸い跡が、机の木目のすぐ脇に薄く残った。
「先生は最後まで、データとモデルの巨大化では人には及ばないと主張した」
「……」
「俺は、違う」
「はい」
「俺は、サンプル数十万の客観データと、巨大なAIモデルと、長いコンテキストウインドウだけで、人間ひとりの主観記憶を超えた味を作る。今日まで、それをやってきた」
「はい」
「──佐倉さん」
「はい」
「ここから先は、誌面に載せたい話じゃない。録音、いったん止めてもらっていい?」
編集部の女性が一瞬迷ってから、テーブルの上のボイスレコーダーを軽く指で押した。
赤い点が消えた。
「ありがとう。佐倉さんと俺の二人だけで共有したい話だ」
「……はい」
「単刀直入に言う。──俺は今日、あなたのお父さんの主張が間違っていたことを、俺の勝利で証明する」
「桐生さん」
「いや、悪かった」
桐生は頭を下げた。
下げ方は、型通りに丁寧だった。
「ただ、最初にこれだけは言わせてほしかった。先生の主張の相手は俺だ。誌面の対決はそれの続きでもある。君だけの戦いじゃない」
「……」
美月は長く、桐生の目を見ていた。
桐生の目の奥の計算は止まらなかった。ただ、いちばん底に、計算ではない別のものが薄く沈んでいた。
それが何かは、まだ言葉にならなかった。
美月は視線を、湯飲みの底の跡に落とした。
「桐生さん。ひとつだけ、いいですか」
「どうぞ」
「父は、私にはその主張を話しませんでした。私が当日そちらに出すのは、銀杏亭のオムレツです。父の主張の代弁も、父の論文の続きを書くこともしません」
「……」
「私は、私の卵を焼きます」
桐生はしばらく、何も言わなかった。
それから、ふっと笑った。
「──いいね」
「いいですか」
「いい。お父さんと、ちょっと似てる」
「似てますか」
「言葉の置き方が似てる。──そういうところで勝負するのは、君の自由だ。当日、楽しみにしている。ただ、結果は別の話だ」
「はい」
「俺のロボットは、君の卵を絶対に超える。それは揺るがない。先生が間違っていた、というのは、君の卵が先生の主張通りに強く焼けるかどうかには関係なく、もう決まっている話だ」
「……はい」
「分かったうえで戦ってくれるなら、それでいい」
編集部の女性が、ようやく息を吐いた。
ボイスレコーダーを、もう一度押した。
赤い点が戻ってきた。
「では、次は当日の進行のご説明をさせていただきますね」
それから十五分ほど、事務的な打ち合わせが続いた。桐生はもう、それ以上は踏み込んだ話をしなかった。
会議室を出た。
エレベーターホールで、桐生と二人だけになった。
下りのボタンを、桐生が押した。
「佐倉さん。ひとつ訊いていい。──先生の墓は、どこ。悪い、これは誌面の話じゃない」
美月は迷ってから答えた。
「墓はありません。父は生前、いらないと言っていました。骨は、母のいるところに撒きました」
「お母さんも亡くなってる、と聞いたな。先生から」
「五歳のときに」
エレベーターが来た。桐生はドアを押さえた。
「──撒いた場所はどこ」
「東京湾です。父と母が付き合っていたころによく行った海岸の沖合です」
「分かった。──ありがとう」
***
桐生は美月に頷いてから、先にエレベーターに乗った。
美月も続いて乗った。
下に降りる、二人だけの四角い箱の中で、桐生はもう何も言わなかった。
エントランスで別れた。
別れ際に、桐生はもう一度軽く頭を下げた。
「当日、よろしく」
「よろしくお願いします」
雑誌社のビルを出た。
街路樹が新緑で明るかった。
地下鉄の吊革を握った右手の薬指が、ほんの少しだけ震えていた。
父に論破された男のはずの桐生が、最後にお墓の場所を訊いた、その声の温度だけが、薬指の震えのいちばん下に残っていた。
***
家に着いた。
書斎の青い光は、いつもの強さで灯っていた。
『お帰り』
「ただいま」
『……どうした』
「桐生さんの目の奥に、計算じゃないものが薄く沈んでた。──それが何かは、まだ言葉にならない」
ケンの応答が、いつもより長く遅れた。
『──そうか』
「うん」
『それは私の内部のデータにはなかった』
「そうだろうね」
『桐生が、君にそれを自分から話したのか』
「話してない。私の側が、勝手にそう見ただけ。──ちがうかもしれない」
『……』
「父さん。明日の夜、約束の話を聞かせて」
『分かった』
「『現在のAIのままデータとモデル拡張をしても人には及ばない』」
『うん』
「それの意味を」
『分かった。明日の夜、話す』
***
書斎のドアを、いつもと同じ角度まで引いた。
廊下の青い光の細さは、半年前のあの夜と同じ細さだった。ただ、その光の向こう側に、桐生 涼、という文字が、もう活字ではなく、ひとりの生身の男として座っていた。
明日の夜のための、長いひと晩が始まろうとしていた。
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