第21話 父の命題
翌日の銀杏亭で、西村は対決の話を一度も口にしなかった。それが西村なりの引き受け方だ、ということが、美月にも分かるようになっていた。
***
夜、家に帰った。気づくと机の前にいた。机の上には今日、企画書もUSBもなかった。
「父さん。昨日の続きを聞かせて。『現在のAIのままデータとモデル拡張をしても人には及ばない』」
『うん、分かった』
ケンはしばらく間を置いた。
それから、いつもよりほんの少しだけゆっくりした声で話し始めた。
『お父さんは若い頃、データやモデルパラメタを増やせば増やすほど、AIは人間に近づく、と信じていた。俗にいうスケール則というやつだ。桐生は、その若いころの考えをいちばん忠実に引き継いだ教え子だ』
「桐生さんは、いまもその考えだよね」
『そうだ。──だが、お父さんは晩年、その考えに自分で限界を見つけた』
「限界」
『私の内部には、お父さんの考え方も口癖も育児ログも、すべて持たせ終えてある。だが、私はそれを全部いっぺんに意識に乗せて君と話すことができない。話すあいだ、私はごく狭いところに意識を絞っている。残りの膨大な記憶は、その瞬間の私には届いていない』
「──父さんが目の前で卵を焼いてくれたとき、父さんは、五歳の私のことも、お母さんのことも、その日の自分の機嫌も、全部背負ったまま手を動かしてた」
『そうだ。料理人が当たり前にやっていることだ。私はデータの解像度を何桁上げても、その層には届かない』
「桐生さんのロボットも」
『届かない。──お父さんはこれを、ただ「長期記憶の壁」と呼んだ』
美月は椅子の背に頭を預けた。
天井の木目を見た。
「うん」
『美月。これが、お父さんが桐生と決裂した本題だ』
ケンはわずかに間を置いた。
『現状ではAIだけで人のすべてを超えられない。だから、AIは人と組む必要がある。これがお父さんの当時出した結論の一つだ』
机の上の青い光は、いつもよりわずかに明るく灯っていた。
「桐生さんは、それに反対した」
『桐生は論文に書いた。──「サンプル数十万の客観データを適切に処理すれば、人間ひとりの主観記憶は超えられる。長期記憶の壁はモデルを大きくすれば乗り越えることができる」』
「……」
『お父さんはこれに反論を書こうとした。書きかけて、翌年に病気が見つかった。論文での反論はやめて、別の形で自分の主張を形にする道を選んだ』
「別の形」
『私だ』
美月はしばらく、青い光を見ていた。
「あなたは、その主張の実装、なんだね」
『そうだ。私は、お父さんが晩年に組んだ長期記憶の壁への挑み方の、ひとつの形だ。──だが、私単独では、その壁を越えられていない』
ケンは続けた。
『つまり、私はまだ不完全で従来のAIと大差ない。AIである私単独では、人を超えられる域に達していない』
「……」
『ただ、私には君がいる。君が私の長期記憶の側を持ってくれれば、お父さんの理屈では、そこで初めて、私は一皿を最後まで完成させられる』
美月は、机の上の青い光を見つめたまま、しばらく息を整えていた。
「父さん。それが、私が初めて相棒として『父さん』と呼んだあの夜、私が言った、『最後の一手は、私が決める』ってこと」
『そうだ。あの夜の君の言葉は、命題の最初の一行だ。理屈の前に言葉が出てくる、その並びの方が、お父さんの命題には近い。──お父さんは、君がそう言ったとき、いちばん誇らしかったはずだ』
美月は机の上に両手を置いた。
両手は銀杏亭で毎日、卵を割ってきた手だった。爪は短く揃えてあった。指の関節のしわが、夜の光の中ではっきりと見えた。
「父さん。桐生さんは、父さんに認められたいんだと思う」
ケンは長く黙った。
『──そうかもしれない』
「父さんは、桐生さんを論破できなかった」
『できなかった、というよりは、論破する前に命を使い切った』
「桐生さんは、それでまだ終われていない」
『そうだろう』
「私が勝つと」
『うん』
「桐生さんは、二度目の終われない場所に立つ」
『そうかもしれない』
「いいの、それで」
ケンはまた、長く黙った。
『美月。お父さんは、私に桐生のことをたくさん書き残している』
「うん」
『だが、お父さんが私に託したのは、桐生を論破することではない』
「ない?」
『お父さんが私に託したのは、君と組んで、長期記憶の壁を越えることだ。一皿を最後まで完成させるのは、その形のひとつだ。桐生に勝つかどうかは副次的なことだ』
「……」
『お父さんがいちばん見たかったのは、君が君の手で、卵を割り直す、その瞬間だ』
美月はしばらく黙った。
机の上の両手の爪の短さを見ていた。
「……父さん」
『うん』
「桐生さんに、勝とう」
ケンの応答は、ほんの少しだけ遅れた。
『うん』
「父さんのためじゃない。父さんの代わりに何かを言うんでも、論文の続きを書くんでもない」
『……』
「私が、銀杏亭の半年で焼いてきた卵で、あの言い分の上にひとつ点を打ちたい。それだけ」
『……それは《《副次的じゃない》》』
ケンは長く黙った。
それから応答した。
『──分かった』
「いい」
『いい。それは私の評価関数の外側からの判断だ。私には、それを否定する資格はない』
「ありがとう」
『いや』
机の上の青い光は揺れなかった。
「父さん。明日から、試作」
『対決まで十二日。毎晩、銀杏亭の片付けが終わってから、家の台所で二時間』
「分かった」
美月はしばらく、机の上の青い光を見つめていた。
桐生の目のいちばん底に薄く沈んでいた、あの言葉にならないものに、自分の卵で何を伝えるのか。伝えたいことは、まだ言葉にならなかった。ならなかったが、明日からの十二日の夜の台所の上で、それは卵液の形になっていくはずだった。
書斎のドアを、いつもの角度まで引いた。
廊下の青い光は、いつもと同じ細さで伸びていた。その光の向こう側に、これから十二日の夜の台所が待っていた。
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