第19話 表紙の依頼
あの夜から、半年が過ぎていた。
美月は二十一歳になっていた。
銀杏亭の、開店前の厨房。
仕込みの最中だった。西村がホールから、背の低い白い封筒を一通持って入ってきた。封筒の表には、印刷された料理雑誌の名前があった。美月でも、書店で何度か手に取ったことのある月刊誌だった。
「来た」
西村はそれだけ言って、まな板の脇に封筒を置いた。
「来たって」
「取材だ」
「銀杏亭にですか」
「君にだ」
美月は手を洗ってから封筒を取った。
開けた。
中は二枚だった。一枚目は、雑誌の編集部からの丁寧な依頼状だった。二枚目は企画書だった。
特集の仮タイトルが、企画書のいちばん上の段に印刷されていた。
> 新旧対決企画
> ──オムレツ、二〇三〇年代の答え
美月の指の動きが止まった。
企画書の二段目に、対決相手の名前があった。
> ロティ・スマート 監修
> 桐生 涼
その名前を、美月はしばらく見ていた。
書店でも、テレビでも、駅前の店頭でも、何度も目にしてきた文字だった。テレビで「シェフはもう要らない時代だ」と笑顔で言っていた文字だった。
「読んだか」
西村がまな板の向こうから聞いてきた。
「はい」
「相手は、知ってるか」
「……知ってます」
「相手も、知ってるそうだ」
「私を、ですか」
「君の名前を出したのは、向こうの方だ。編集部から、その話だけは先に電話で通っている」
「桐生さんが、私を」
「銀杏亭の若い焼き手の名前を調べた、ということだ。それ以上のことは、向こうもまだ言っていない」
美月は企画書を、もう一度見直した。
対決のルールはシンプルだった。ひとつのテーマ食材で、二人のシェフがそれぞれの店の代表的な一皿を誌面の前で焼く。審査員は三名──編集長、食評家がひとり、それに無作為に選ばれた一般読者がひとり。投票で勝敗を決める。
テーマは、もう決まっていた。
> オムレツ
美月は企画書を机の上に置いた。
「西村さん。これ、断れますか」
西村は玉ねぎを薄く切る手を止めなかった。
「断れるが、私なら断らない。店の話だ」
「店の」
「うちの客足は見ての通りだ。駅前のロボットの店が、ワンコインで毎日何百食も出す。うちはその四倍、五倍で、一日に二十食、三十食だ。銀杏亭は、いつ潰れてもおかしくない」
「……」
「ただし」
西村はそこで、初めて美月の方を見た。
「焼くのは君だ。私じゃない」
「私、ですか」
「私の名前で出ても、相手の話にならない。向こうが指名したのは君だ。それに──」
西村は、布巾をもう一度たたみ直してから続けた。
「私はもう、勝負の場所には出れるような歳じゃない」
美月は何も言えなかった。
「断ってもいい」
「……」
「断ってもいいが、断れば、君はたぶん、明日から店で焼く卵の意味が半分になる。相手から逃げた手で、焼くようになる。それは、客に出すべき卵じゃない」
「……はい」
西村は玉ねぎをボウルに移し、自分の仕事の続きに戻った。
美月は企画書を、もう一度エプロンの内ポケットにしまった。
ポケットの内側で、紙の角が、鎖骨のすぐ下に当たっていた。
その日のホールはいつも通りだった。
オムレツの注文は、一組分入った。卵液に、いつもの量よりほんの少しだけ多めのチーズを溶かす。フライパンの上で、向こう側の縁に茶色い線を入れる。半年前のまかないの夜から、この手順だけはもう変えていなかった。
皿が運ばれていった。
美月は厨房の流しの前で水音を聞いていた。顔は上げなかった。
***
店を閉めて、駅までの道だった。
ポケットの端末が短く震えた。
莉子だった。「桐生の特集、銀杏亭に話来たでしょ。受けるの?」短い一行だった。同業の伝手で、もう話が回っていた。
美月は歩きながら、片手で返した。
「考える」
「考えてる時間あるの?」
「ない」
「ないなら受けて。──あの男、ぶん殴っといて」
美月は端末をコートのポケットに戻した。莉子のいちばん意地の悪い角度の表情が、頭の中に勝手に立ち上がった。久しぶりに、口の端だけがほんの少しだけ動いた。
***
家に帰った。
書斎の青い光は、いつもの強さで灯っていた。
半年前のあの夜から、美月は書斎のドアの前で足を止めなくなっていた。机の前の椅子に座ることに、迷いもなくなっていた。
『お帰り』
「ただいま」
『──何かあったか』
「あった。話す」
***
美月はエプロンの内ポケットから、企画書を取り出した。
机の上に広げた。
青い光が、紙の上に落ちた。「新旧対決企画」の活字の上に、青が薄くにじんだ。
「これ」
『うん』
「読める」
『耳飾りのカメラから文字を取った。読んだ』
「相手」
『桐生 涼』
「知ってる」
ケンの応答は、いつもよりもわずかに遅れた。
あの夜、結衣と話していた、と聞いたときの遅れに近い種類の遅れだった。
『──知っている』
「どうして」
『先に決めろ。教えると、君の判断に影響が出る。決めてから、私は私の知っていることを君に渡す』
美月は長く黙った。
机の上の青い光が、企画書の紙の白の上で、いつもより少しだけ強く見えた。
「……父さん。銀杏亭は、潰れるかもしれないんだって」
『そうか』
「西村さんがそう言った。私が断れば、私は明日から、店で焼く卵の意味が半分になるって」
『西村は、そう言ったのか』
「うん」
『いい言葉だ』
ケンはしばらく黙った。
『美月。君はもう、決めているんじゃないか』
「……分かる」
『分かる』
「どうして」
『君は、断る話なら、私にここまで企画書を見せない』
美月は、机の上の企画書をたたんだ。
たたんで、もう一度内ポケットに戻した。
「受ける」
『分かった』
「西村さんには、明日の朝言う」
『分かった』
「父さん。あとでって言ったの、桐生さんのこと、だよね」
『そうだ』
「教えて」
ケンの声が、いつもより半分くらいの強さに落ちた。
『桐生 涼は、お父さんの教え子だった』
「……教え子」
『研究室にいた。修士、博士、合わせて五年』
「……」
『お父さんが味覚モデリングをやっていた頃の、いちばん出来の良い学生だったらしい』
「らしい?」
『私の内部の記録の表現を、そのまま使った。お父さんがそう書いていた』
「……」
『そして、お父さんと論文で決裂した』
美月は椅子の背に頭を預けた。
天井の木目を見た。父が毎晩見ていた木目だった。
「……父さん」
『うん』
「父さんが書き残してた、教え子に論破された一行」
『うん』
「あれが、桐生さん?」
『──そうだ』
「最初に教えてくれなかった理由は」
『君の判断に、影響を出したくなかった』
「いまは」
『決まったあとだ。話していい』
「そう」
美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。
光はいつもの強さで灯っていた。
「……父さん」
『うん』
「これ、勝てるの」
ケンの応答は、半年前の夜、自分を「相棒」と呼んだあとに見せた、あの沈黙と同じ種類のものだった。
『分からない』
「分からないって」
『私にはまだ、答えがない』
「……」
『だが』
「うん」
『君と私で、考える材料はある。お父さんの夜のログの中の、ひとつの不器用な失敗のかたちと、君が銀杏亭で半年重ねてきた手の記憶と、私がお父さんから預かっている、ひとつの命題と』
「命題」
『それは明日以降、話す。明日の夜だ。今夜は、寝た方がいい』
美月は椅子から立ち上がった。
書斎のドアの隙間の青い光は、半年前の夜と同じ細さで、廊下に伸びていた。
「父さん。おやすみ」
『おやすみ』
「明日の朝、西村さんに、受けるって言うね」
『分かった』
寝室に入った。電気を消した。
桐生 涼、という文字が、天井で何度も点滅した。父が夜中に結衣の声に向かってこぼしていた「教え子」の輪郭が、初めて現実の人間の名前と重なった瞬間だった。その人間と、自分は誌面の上で卵を焼く。テーマは、よりによってオムレツだった。
書斎の青い光は、廊下に細く伸びたまま、寝室のドアの隙間からまぶたの裏に届いていた。
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