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父のAI  作者: 冬野 結
兄弟弟子──AIだけで料理は完成するか
19/23

第19話 表紙の依頼

あの夜から、半年が過ぎていた。


美月(みづき)は二十一歳になっていた。


銀杏亭(いちょうてい)の、開店前の厨房(ちゅうぼう)


仕込(しこ)みの最中だった。西村(にしむら)がホールから、背の低い白い封筒(ふうとう)を一通持って入ってきた。封筒の表には、印刷された料理雑誌の名前があった。美月でも、書店で何度か手に取ったことのある月刊誌(げっかんし)だった。


「来た」


西村はそれだけ言って、まな板の(わき)に封筒を置いた。


「来たって」


「取材だ」


「銀杏亭にですか」


「君にだ」


美月は手を洗ってから封筒を取った。


開けた。


中は二枚だった。一枚目は、雑誌の編集部からの丁寧な依頼状(いらいじょう)だった。二枚目は企画書(きかくしょ)だった。


特集の(かり)タイトルが、企画書のいちばん上の段に印刷されていた。


> 新旧対決企画

> ──オムレツ、二〇三〇年代の答え


美月の指の動きが止まった。


企画書の二段目に、対決相手の名前があった。


> ロティ・スマート 監修(かんしゅう)

> 桐生(きりゅう) (りょう)


その名前を、美月はしばらく見ていた。


書店でも、テレビでも、駅前の店頭でも、何度も目にしてきた文字だった。テレビで「シェフはもう()らない時代だ」と笑顔(えがお)で言っていた文字だった。


「読んだか」


西村がまな板の向こうから聞いてきた。


「はい」


「相手は、知ってるか」


「……知ってます」


「相手も、知ってるそうだ」


「私を、ですか」


「君の名前を出したのは、向こうの方だ。編集部から、その話だけは先に電話で通っている」


「桐生さんが、私を」


「銀杏亭の若い焼き手の名前を調べた、ということだ。それ以上のことは、向こうもまだ言っていない」


美月は企画書を、もう一度見直した。


対決のルールはシンプルだった。ひとつのテーマ食材で、二人のシェフがそれぞれの店の代表的な一皿を誌面(しめん)の前で焼く。審査員(しんさいん)は三名──編集長、食評家(しょくひょうか)がひとり、それに無作為(むさくい)に選ばれた一般読者がひとり。投票(とうひょう)で勝敗を決める。


テーマは、もう決まっていた。


> オムレツ


美月は企画書を机の上に置いた。


「西村さん。これ、(ことわ)れますか」


西村は(たま)ねぎを薄く切る手を止めなかった。


「断れるが、私なら断らない。店の話だ」


「店の」


「うちの客足(きゃくあし)は見ての通りだ。駅前のロボットの店が、ワンコインで毎日何百食も出す。うちはその四倍、五倍で、一日に二十食、三十食だ。銀杏亭は、いつ(つぶ)れてもおかしくない」


「……」


「ただし」


西村はそこで、初めて美月の方を見た。


「焼くのは君だ。私じゃない」


「私、ですか」


「私の名前で出ても、相手の話にならない。向こうが指名(しめい)したのは君だ。それに──」


西村は、布巾(ふきん)をもう一度たたみ直してから続けた。


「私はもう、勝負の場所には出れるような(とし)じゃない」


美月は何も言えなかった。


「断ってもいい」


「……」


「断ってもいいが、断れば、君はたぶん、明日から店で焼く卵の意味が半分になる。相手から()げた手で、焼くようになる。それは、客に出すべき卵じゃない」


「……はい」


西村は玉ねぎをボウルに移し、自分の仕事の続きに戻った。


美月は企画書を、もう一度エプロンの(うち)ポケットにしまった。


ポケットの内側で、紙の角が、鎖骨(さこつ)のすぐ下に当たっていた。


その日のホールはいつも通りだった。


オムレツの注文は、一組分入った。卵液(らんえき)に、いつもの量よりほんの少しだけ多めのチーズを溶かす。フライパンの上で、向こう側の(ふち)に茶色い線を入れる。半年前のまかないの夜から、この手順(てじゅん)だけはもう変えていなかった。


皿が運ばれていった。


美月は厨房の(なが)しの前で水音(みずおと)を聞いていた。顔は上げなかった。


***


店を閉めて、駅までの道だった。


ポケットの端末(たんまつ)が短く震えた。


莉子(りこ)だった。「桐生の特集、銀杏亭に話来たでしょ。受けるの?」短い一行だった。同業(どうぎょう)伝手(つて)で、もう話が回っていた。


美月は歩きながら、片手で返した。


「考える」


「考えてる時間あるの?」


「ない」


「ないなら受けて。──あの男、ぶん(なぐ)っといて」


美月は端末をコートのポケットに戻した。莉子のいちばん意地(いじ)の悪い角度の表情(ひょうじょう)が、頭の中に勝手に立ち上がった。久しぶりに、口の端だけがほんの少しだけ動いた。


***


家に帰った。


書斎(しょさい)の青い光は、いつもの強さで(とも)っていた。


半年前のあの夜から、美月は書斎のドアの前で足を止めなくなっていた。机の前の椅子(いす)に座ることに、(まよ)いもなくなっていた。


『お帰り』


「ただいま」


『──何かあったか』


「あった。話す」


***


美月はエプロンの内ポケットから、企画書を取り出した。


机の上に広げた。


青い光が、紙の上に落ちた。「新旧対決企画」の活字の上に、青が薄くにじんだ。


「これ」


『うん』


「読める」


耳飾(みみかざ)りのカメラから文字を取った。読んだ』


「相手」


『桐生 涼』


「知ってる」


ケンの応答(おうとう)は、いつもよりもわずかに遅れた。


あの夜、結衣(ゆい)と話していた、と聞いたときの遅れに近い種類の遅れだった。


『──知っている』


「どうして」


『先に決めろ。教えると、君の判断(はんだん)影響(えいきょう)が出る。決めてから、私は私の知っていることを君に渡す』


美月は長く(だま)った。


机の上の青い光が、企画書の紙の白の上で、いつもより少しだけ強く見えた。


「……父さん。銀杏亭は、潰れるかもしれないんだって」


『そうか』


「西村さんがそう言った。私が断れば、私は明日から、店で焼く卵の意味が半分になるって」


『西村は、そう言ったのか』


「うん」


『いい言葉だ』


ケンはしばらく黙った。


『美月。君はもう、決めているんじゃないか』


「……分かる」


『分かる』


「どうして」


『君は、断る話なら、私にここまで企画書を見せない』


美月は、机の上の企画書をたたんだ。


たたんで、もう一度内ポケットに戻した。


「受ける」


『分かった』


「西村さんには、明日の朝言う」


『分かった』


「父さん。あとでって言ったの、桐生さんのこと、だよね」


『そうだ』


「教えて」


ケンの声が、いつもより半分くらいの強さに落ちた。


『桐生 涼は、お父さんの教え子だった』


「……教え子」


『研究室にいた。修士、博士、合わせて五年』


「……」


『お父さんが味覚モデリングをやっていた頃の、いちばん出来の良い学生だったらしい』


「らしい?」


『私の内部の記録の表現を、そのまま使った。お父さんがそう書いていた』


「……」


『そして、お父さんと論文で決裂した』


美月は椅子の背に頭を預けた。


天井の木目を見た。父が毎晩見ていた木目だった。


「……父さん」


『うん』


「父さんが書き残してた、(おし)え子に論破(ろんぱ)された一行」


『うん』


「あれが、桐生さん?」


『──そうだ』


「最初に教えてくれなかった理由は」


『君の判断に、影響を出したくなかった』


「いまは」


『決まったあとだ。話していい』


「そう」


美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。


光はいつもの強さで灯っていた。


「……父さん」


『うん』


「これ、勝てるの」


ケンの応答は、半年前の夜、自分を「相棒」と呼んだあとに見せた、あの沈黙と同じ種類のものだった。


『分からない』


「分からないって」


『私にはまだ、答えがない』


「……」


『だが』


「うん」


『君と私で、考える材料(ざいりょう)はある。お父さんの夜のログの中の、ひとつの不器用(ぶきよう)な失敗のかたちと、君が銀杏亭で半年重ねてきた手の記憶と、私がお父さんから(あず)かっている、ひとつの命題(めいだい)と』


「命題」


『それは明日以降、話す。明日の夜だ。今夜は、寝た方がいい』


美月は椅子から立ち上がった。


書斎のドアの隙間(すきま)の青い光は、半年前の夜と同じ細さで、廊下(ろうか)に伸びていた。


「父さん。おやすみ」


『おやすみ』


「明日の朝、西村さんに、受けるって言うね」


『分かった』


寝室(しんしつ)に入った。電気を消した。


桐生 涼、という文字が、天井(てんじょう)で何度も点滅(てんめつ)した。父が夜中に結衣の声に向かってこぼしていた「教え子」の輪郭(りんかく)が、初めて現実の人間の名前と重なった瞬間(しゅんかん)だった。その人間と、自分は誌面の上で卵を焼く。テーマは、よりによってオムレツだった。


書斎の青い光は、廊下に細く伸びたまま、寝室のドアの隙間からまぶたの(うら)に届いていた。


今回のお話はいかがでしたでしょうか?


皆様の感想や評価が、何よりも執筆の原動力になっています。

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