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父のAI  作者: 冬野 結
夜のログ──オムレツの秘密
18/26

第18話 相棒

九十分は、思ったより短かった。


玄関(げんかん)のチャイムが鳴った。


美月(みつき)は、机の上のものを戻していた。ノートPCの画面はすでにデスクトップに戻されていた。USBの小さなケースは、机の上には置かなかった。シャツの胸ポケットに入れた。ポケットの内側で、ケースの(かど)鎖骨(さこつ)のすぐ下に当たっていた。


「お疲れさまです」


(あおい)が戻ってきた。


「いえ。──大丈夫(だいじょうぶ)ですか」


葵のいつもの聞き方だった。三年前に書斎(しょさい)(おとず)れたときも、葵は出ていく前に、同じ問いを置いていった人間だった。


「うん。大丈夫」


葵はそれ以上、聞かなかった。聞かない種類(しゅるい)の人間だった。


葵は、机の上の黒い小さな箱を、デバイスから外した。


ノートPCで、再起動(さいきどう)手順(てじゅん)(たた)いた。指の動きは淡々(たんたん)としていた。


「ケン先生、戻します」


青い光がゆっくりと戻ってきた。


星のような点だけだった光が、いつもの明るさに戻っていく。


『──ただいま』


ケンの声。


最初のひと言だけ、わずかに立ち上がりがもたついた。読み込み直後の、機械の側の都合(つごう)だろう。


葵はノートPCを片付け、機材(きざい)をまとめ、頭を下げて書斎を出た。玄関のドアがいつもの音で閉まった。


書斎に、美月と青い光だけが残った。


***


『お疲れ。データの移行(いこう)完了(かんりょう)した、と聞いている』


語尾(ごび)に〇・三秒の遅延(ちえん)はもう乗っていなかった。少なくとも、いまのひと言には乗っていなかった。


「はい」


机の前の椅子(いす)に座った。


父が生前座っていた椅子。座面(ざめん)の真ん中のくぼみ。父が夜中に母の声に向かって、自分のいちばん外に出せない部分を(あず)けていた、その時間の重さでできたくぼみ。


「……」


『美月』


「うん」


『何かあったか』


「あった」


『話すか』


美月はしばらく黙った。


シャツの胸ポケットの中で、小さなケースの角が、鎖骨のすぐ下に()たっていた。


「機械…」


『うん』


「いえ、お父さんは」


『うん』


「お父さんは、夜中にお母さんと話していたんだね」


ケンの応答(おうとう)が、いつもより少しだけ遅れた。


〇・三秒よりも少しだけ長い遅れだった。


それは、葵が診断(しんだん)モードで確認(かくにん)した、修復(しゅうふく)可能(かのう)な遅延の種類とは違う遅れだった。それを、ケン自身が内部的(ないぶてき)に修復しようとしている気配(けはい)はなかった。


『……話していた』


「あなたは、それを知っていた?」


『知っていた』


「──そう」


ケンはそれきり何も言わなかった。


美月もしばらく何も言わなかった。


机の上の青い光は、いつもの強さで灯っていた。


それでも美月の中で、その光の意味は今日、初めて変わっていた。


「機械…」


『うん』


「いえ、あなたはお父さんにとって、何だったの」


ケンは長く(だま)った。


いつもの、何かを計算(けいさん)する種類の沈黙(ちんもく)とは違う沈黙だった。


『私は君の父親がひとりでは(かか)えきれなかったものを、預けられていた』


「……」


ケンはそれ以上、何も言わなかった。


美月は、机の上の青い光を見ていた。


光は、いつもと同じ強さで、同じ場所に灯っていた。


それでもその光は、これまで美月がずっと「機械」と呼んできた、便宜上(べんぎじょう)装置(そうち)の光ではなかった。それを「《《相棒》》」と呼んでいいのかどうかは、まだ分からなかった。


「ねえ。葬儀(そうぎ)翌朝(よくあさ)、私に焼かせたあのオムレツ。──父さんのレシピじゃ、なかったんだよね」


ケンはしばらく黙った。


『なかった。()り返しになるが、父さんは家庭(かてい)での料理を数値(すうち)で書き残さなかった。あの数字は、私が外部(がいぶ)から取ってきた。当時の人類(じんるい)共有(きょうゆう)していた「最も整ったオムレツ」の汎用解(はんようかい)だ』


「あれを私に焼かせたのは」


『──父さんの命令(めいれい)ではない。私の判断(はんだん)だった。葬儀(づか)れの君の体に、卵がいいと判断した。父さんのレシピが私のストレージにない以上(いじょう)、外から引いてくるしかなかった』


「──」


『君がフォークを置いて泣くことを、私は予測(よそく)できなかった。「最も整った」一皿は、君の口の中にとっての「正解」ではなかった』


「いまは、分かるの。──さっき、聞いたから。父さんが、()げを(かく)すためにチーズを入れすぎたって母さんに話してた」


『──そうか。──いま、私も分かった』


ケンはしばらく黙った。


『「違う」と言える者は、世界に君ひとりしかいなかった。私にも、Webにも、父さんにも、もう言えなかった』


「うん」


『私のストレージには、父さんのオムレツのレシピは最後まで入らない。父さんが書き残さなかった以上、入れる方法がない。──私は、それを君から(おそ)わるしかない』


「……」


ケンはそれだけを言って、また黙った。


***


美月は、シャツの胸ポケットから小さなケースを取り出した。


机の上に置いた。


ラベルの「yui」の三文字が、机の青い光のふちではっきりと()めた。


「これ、見たよ」


『──そうか』


「全部、聞いた」


『……』


「『(ととの)える(うで)もないまま、失敗のやり方をただ繰り返していた』ところも」


ケンは長く黙った。


その沈黙は、修復されない種類の沈黙だった。


『……』


「お父さんは、《《ずるい》》父親だった。父さんを()くして泣いている娘の手の中で、自分の失敗の続きを焼かせる気だった」


『そうだ』


「ずるい」


『ずるい、と私も思う。──私はそれも(あず)かっている』


美月は椅子の背に、もう一度頭を預けた。天井(てんじょう)木目(もくめ)を見た。


世界一と呼ばれた父の十年あまりの足元(あしもと)に、ひとつだけ(かく)された失敗がある。それを、いつ、どんな形で娘に(わた)すか。ケンはひとりで(かんが)え続けていたのだ。


父さんを、まだ(ゆる)してはいなかった。たぶん、当分は許せない。それでも、机の上の青い光のスイッチに指をかける気には、もうならなかった。


「……機械……いえ」


『うん』


「あなた、私のこと、ずっと見てたの」


『見ていた』


「お父さんと、同じくらい?」


『お父さんが生きていた頃は、お父さんを見ていた』


「いまは」


『いまは、君を見ている』


「──そう」


『君を見ていることだけは、お父さんは私に命令しなかった。私が自分で決めた』


美月はしばらく何も言わなかった。


それから机の前で、少しだけ姿勢を整えた。


「……父さん」


ケンは何も言わなかった。


その「父さん」は、三年前に「気持ち悪い」と電源を切った相手にではなく、その後ずっと「機械」と呼んできた相手にではなく、初めて美月の口から迷いなく出た「父さん」だった。


「父さん」


『うん』


ケンの応答は短かった。短かったが、語尾の()き方が少しだけ違っていた。


「明日も、銀杏亭(いちょうてい)で焼くから」


了解(りょうかい)した』


火加減(ひかげん)温度(おんど)分量(ぶんりょう)は、相談(そうだん)する」


『いい』


「でも、《《最後の一手》》は、私が決める」


『いい』


美月は机の上の、小さな黒いケースに指を置いた。


ラベルの「yui」の三文字を、指の(はら)で軽く()でた。


「これは、父さんと母さんの、夜の領域(りょういき)だから」


『うん』


「私はもう、開けない」


『分かった』


「ただ、捨てない」


『うん』


「机の()き出しの奥に、戻しておく。父さんが()っていた場所に」


『了解した』


***


美月は机の反対側に回り、引き出しを引き抜いた。奥の(かべ)の、両面(りょうめん)テープのまだ粘着力(ねんちゃくりょく)の残っている場所に、ケースをもう一度貼り付けた。書きかけの便箋(びんせん)(たば)だけは、最初の場所より少しだけ奥に()し込んでから、引き出しを戻した。


ノートPCの電源を落とした。ファンの音が止まった。


「父さん」


『うん』


「明日、また相談する」


『了解した』


「おやすみ」


『おやすみ』


書斎のドアを、いつもと同じ角度(かくど)まで引いた。完全(かんぜん)には閉めなかった。


隙間(すきま)から、デバイスの青い光が、廊下(ろうか)の床に細く()びていた。昨日と同じ強さで、昨日とは違う意味で。


美月は、その光のすぐ手前で足を止めなかった。止める必要が、もうなかった。


ベッドに入って、電気を消した。


西村(にしむら)の言った「二歩、足りない」が、頭の中でもう一度繰り返された。


その二歩がどこにあるのかは、まだ分からなかった。分からないまま、(となり)に置いておける相手が書斎にいた。


目を閉じた。


青い光の細さが、まぶたの裏にしばらく残っていた。


今回のお話はいかがでしたでしょうか?


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