第2話 引鉄
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夕方前の出来事として少々気を揉むこともあったが、それ以上のことはなかなか表れないものだ。
日常生活で何度もイベントに巻き込まれるなんてことはそうはないし、連続的に続く日々は何かしらの転換がなければ決まった行動に収束するのが主である。それは久保に限ったことではなく、久保の周囲に無数に存在している赤の他人にしても同じことが言える。ならば、連続的な日常生活を熟す周囲の人々に倣って、久保がこれといった特別な事象を生み出さない限り、変わったことは起こらないと言えた。中には狂人じみた人や赤の他人の集合体で形成された人の流れの秩序を意図して乱す者も偶に出てくるが、それも日常生活の枠組みの1つと数えれば極めて変わりない世界を闊歩している。
今や日常の一部になっている久保の行動の中には、塾講師のアルバイトも含まれている。
学歴には更々興味はないが、それなりの偏差値の大学に入学した久保は何を思ったのかネット上で発見した求人に手を付けたのだ。コンビニ等の他のアルバイトと違って、小中学生、高校生を相手とした対人スキルに指導能力を兼ね備えておかねばならない。
人に物を教えること自体は好きな部類であった理由で軽い気持ちで募集に手を挙げてみたものの、後で責任感を募らせてしまったことにより重く受け止めながら面接を受けたのを憶えている。「やっぱり応募は無しにしてください」と無責任なことも言えず、それっぽいことを面談で受け答えしたように思う。
その結果、久保はダメかなと思っていた矢先に普通に面接は通ってしまい、アルバイトとして採用されることとなった。何故かは今もわかっていない。
採用後にすぐに辞めるとも言えない状況下で、何となしに現在まで続けているのが、このアルバイトであった。
仕事内容は、60分から90分を1コマとする授業を1日に2、3回実施する。相手となる生徒は1コマ毎に1人か2人で、多いときは3人程度なので負担があるところまではいかない。
教材は会社が採用しているものを渡されていて、教え方もその教員用の教材に沿って行えばよい。正社員や実際の学校の先生が行っているような授業研究もあまりなく、手順に沿って教えることができていれば簡単な予習をしておくだけでそれなりに授業を行うことができていた。それに、実際の解き方等を一緒に問題に沿って進めていくような形になれば、教えるハードルはより低くなる。座学で授業を聞いているよりも、実際に手を動かして問題を解いたほうが理解が深まるし身につきやすくなるからだ。
そうして続いているアルバイトだが、幸いだったのは勉強を教える立場として教えている生徒から「わかりやすかったです」と言ってもらえることがあるところだろう。
これで教えるのが下手であれば潔くさっさと辞められたのだが、そういった声を直で聞いてしまったため続けていると言えなくもない。評価してもらい内心では嬉しかったことは口が裂けても言えないが。
なので、今回も今までと同様に頑張りすぎない程度のテンションで淡々と授業を進めている。まずは基礎を教え、その後演習問題に手を付けていく。わからない部分があれば個別で教えていき、問題が解けたらより難易度の高い問題に取り組ませる。
現在、久保が教えている範囲は高校2年生で習う理系科目である。大学受験を経験した身からすれば、まだ記憶に新しい内容を担当させてもらっている。受験を控えている高校3年生には講師の中でも専門としている正社員の方にしてもらって力を入れている。久保のところはゆっくりと基礎的な部分を固めるための要員として配置されているのだ。従って、今教えている生徒も数か月後には担当者が切り替わると予想できる。
ともあれ、教えている生徒は現状では2名。男の子と女の子の1人ずつである。少人数体制の場合は普段であれば男の子には男性職員が、女の子には女性職員が担当するように配慮されているのだが、スケジュール問題を加味されての配置になっている。
手順については久保の中でも形式化されていて、慣れたものだ。教材に書かれてあるとおりに進め、教える。また、教材の補助具としても近年のデジタル化に順応して様々な試みが為されている。講義内容の映像化が完備されていたり、AIを活用した専用のアプリを配布したりすることで、気軽に使えるツールが生徒個人に配布されてある。
それらの機能も踏まえて、本日の生徒前での仕事も無事終了した。
「今日はこれで終わりにしましょう。お疲れ様でした」
少人数規模の会議室程度の教室とは言えない狭い部屋で、久保は終了の言葉を告げる。
本日の出席者である生徒2名が各々伸びをしたり肩の力を抜いていたりしている傍らで、教室に付属されているホワイトボードに書かれている文字の羅列をクリーナーで消していく。これらは授業の際に久保が書き連ねたものである。
字は綺麗な方ではないが、読みやすいように配慮して書いていたものを自分の手で消していく。今回の説明自体はそこそこわかりやすくできたと内心で評価できたので、それらを置いておいても良いぐらいだ。偶に、板書を撮影しようとする生徒も中にはいるが、恥ずかしくない程度の見やすさの文字になっていることを願う。
掃除も簡単に終えて教卓に並べていた教材をまとめていると、生徒の1人である少女が前に立っている。名簿上では柳澤夏葉で登録されている、現在高校2年生である。大体、週に1、2回のペースで塾に通っている。部活動は週1、2回程度の低頻度のところに所属しているらしく、余裕があるらしい。
「先生ー、ここがわからないんだけど」
ミディアムボブを揺らし、切れ長だが明るさを持つ瞳から少々歪んだ苦い表情で訊ねる少女は、ノートを広げると本日触れた内容を指し示す。髪色は学校の指定の抵触するのか黒を維持しているが、手元は微かにネイルをしていて女子らしい華やかさを保っている。
丁度、応用問題に差し掛かっていたらしい。久保は確認し、すぐに内容を丁寧に振り返りながら問題に対する考え方を示していく。
柳澤の学力は偏差値で比較すると高くない。平均を下回る成績に見兼ねた親が部活動の活動頻度に付け込んで塾に通うように命じたらしく、能動的にここに通っているわけではない。逆に、自主的に塾に通いたいと思うものは少ないのではなかろうか。勉強が好きではないという人は多いだろうし、親を通じて義務的に受講しているなんてザラだ。
その中でも柳澤は久保に対して勉強に対する意欲がないことを公言していた。授業の際も苦悶の表情で問題に取り組んでいる。ただ、塾に通っていることにプライドがあるのか居眠り等がないのは良いことだろう。本人は学校ではまともに授業を受けていないという風に嘯くが、ここでは至って真面目な様子が伺える。
真面目ではあるが、成績があまり上がらないことには首を傾げてしまう。塾における小テストではそこそこ点が取れるようになってきていると見受けられるが、学校での成績は始めた当初からあまり変化がないそうだ。その日のことはその日のうちで、あとは忘れてしまうのだろうかと久保は不安になる。
「……できた!」
「うん、そうだね。お疲れ様」
知恵熱で顔が少し赤くなっていたところで、柳澤は顔を上げた。達成感を感じているのかいつも通りの明るさを持った瞳が晴れる。教えれば段々と解けるようになってきているのを感じ取れて、久保も相槌で返した。
久保が想像するに、柳澤は特に応用問題が得意ではない。基本的なところはすぐに理解できているらしいが、それが問題内容を少し変え、捻って出題されると一気に脳がフリーズする傾向にあると見える。ただ、こうして解き方の基本を教えればそれもできるようになるとなれば、決して頭が悪いのではないのだ。
一段落ついたようで、柳澤は荷物を片し始めた。一緒に受講していたもう1人の男子生徒は既に退出していて、残っているのは2人となっている。
それを察してか柳澤の表情が緩んだ。
「先生は最近の大学の方はどうなんですか?」
久保がアルバイトとして教壇に立っていることを知っている柳澤は、久保のことアレコレ訊ねてくることがある。他の先生方にも同じ対応をしているとは思ってはいるが、年齢が近しいことと、2年前に受験を通過してきた立場からフランクに接しても良いと判断されたのだろう。久保も気にするタイプではないし、この会社の正社員でもないので細かく言う気もない。
この会社と言えば、バイトの期間も長いので副社長の立場の方から「就職活動に困ったらウチで雇ってあげるよ」と軽口を戴いている。久保は元々辞めたい気持ちを内に秘めているので、お願いしますと頭を下げる気にはならなかった。
久保は柳澤の質問に少し考える素振りをして、笑った。
「うーん。最近は取る講義も少なくなったし、特にこれと言っては無いかな。研究室配属もこれからになってくるし、それまでは好きなことをやってるって感じかな」
「大学って、単位の取得とかどうなっているんですか?」
「大体、1、2年の時にがっつり講義を入れておけば大体何とかなるよ。3年になると専門性が上がる分選択できる範囲が広がるし、それまでに大体の単位は取得しておくって流れになると思うよ。必修の単位を落とした人とか、1年に決まった単位しか取らない人とかはまだ忙しそうだけどね」
久保の話に、柳澤は「へー」と反応する。
ただ、久保側からしては講義の取り方等の行動が多数派かどうかはわかっていない。1、2年次に詰め込んでいたせいか3年次前半には卒業要件を満たしてしまうし、他の学生の履修状況など見る機会はないのでこれが早いのか遅いのかわからない。講義もそこまで苦労して取得してきたわけではない。
「ただ、大学によって必修講義があるから、結局大変かどうかは柳澤さんが行きたい大学の匙加減に依ると思う。中には高校の基礎の5教科に派生したものを大学でも受けないといけないなんてこともあるし。専門性が上がるのも2年生や3年生からってところが多いし」
久保の言葉で、柳澤の顔が歪む。
「大学でもそんなことしなくちゃいけないんですか? なんか受験とか嫌になってきた。……もっと、遊べるものだと思ってた」
「ははは。そんなことはないよ。単位だって取れなくはないし、最初のうちは取らなきゃいけない単位数に頭を悩ませるかもしれないけど意外といけるものだよ。それさえクリアできれば大学はずっと遊んでいることも可能だからね」
「『単位』って聞くと、なんだか難しいことしてるってなる……」
頭を抱える柳澤に、久保は笑う。久保もあまり調べもせずに適当に大学選択をしてきたタイプの人間ではあり、柳澤の思うイメージを久保も持っていた。第一、高校では単位なんて言葉を聞き慣れていなかった原因もある。
けれど、経験すると自由度が跳ね上がった高校生活の延長みたいな感覚があるし、大学生活での流れは案外すんなりと受け入れられるものだ。何しろ、進学して入学する時には程よく緊張感を持っていたことで、環境への適応はやりやすかった。また、大学にもなると全て自己責任の範疇になる。書類の提出を怠っても、講義をサボっても、単位を落としても、誰も助けてはくれない。選択をした自分自身に結果が返ってくるだけなのだ。
そういった面は自分で実際に受験をして、合格し、入学し体験することで理解するだろう。
それよりも、だ。
「柳澤さんの高校ももうすぐ中間試験のあたりになるんじゃないの? まずはその心配をしないとね」
諭したところで、柳澤は先ほどとは別の系統の形容し難い苦い顔で、「えー」と不満をこぼした。
「どうせ適当に終わらせるだろうし、どうでもいいよ」
「卒業できれば」という仮定がつくであろうが、柳澤は楽観的にそう言う。高校側がそこまで留年するような大事になる措置をすることは殆んど無いと踏まえれば、卒業も時間が解決してくれる話である。推薦入学を目指さない限りは先生からの評価を上げる必要もないので、テストに対する姿勢も低いのだろうか。
「折角、今まで頑張って勉強してきたことがテストで出てくるだろうし、少しだけやる気を出してできるところまでやってみたら良いんじゃない?」
どうやる気を出させれば良いか思い浮かばず、久保はその場しのぎに励ます。内心、そこまで手をかける義理は見当たらないのだが、仕事のことを考えるとテストも頑張ってみてほしいと思う部分もある。
久保も柳澤の言い分は理解できなくはない。大学のような単位取得のために勉強しておく必要があるものと比較して、高校のテストでは所謂赤点レベルの点数しか取れないわけでもなければやり過ごすことはできる。できるだけ留年せずに卒業してほしいという気持ちが強い高校もあると思うので、テスト1つ取っても何も変わらないまま生活していくことになる。テストに対して一喜一憂しても意味はないと柳澤は捉えているようだった。勉強が嫌いで、成績がずっと変わらない柳澤にとって、心底どうでも良いイベントと考えているのだろう。
「結果は楽しみにしているからさ良い点が取れたらいいね」
「……はあい」
久保は苦笑する。
久保はどんな結果でも思うことは特にない。それでも、少しでも良い点数を取れて、柳澤が満足する結果になるのであればより良い。柳澤も今後を見据えて点が取れるに越したことは無い。
◇
柳澤との会話もそこそこにして切り上げて、帰りの挨拶をして久保は職員室へと戻っていく。
本日はもうこれで終了で、何もない久保は帰るだけになる。勤怠の手続きをして、帰宅の準備をし、職員室に置いてあった荷物を詰め込んだリュックを背負う。他の先生方に挨拶をすれば、職員室から退出し、そのまま出口から外へ出ていく。外気に触れると、中の停滞した空気の流れから解放されてすっきりする。
外は既に晩を過ぎ夕飯は少々遅い方に差し掛かるくらいの時間帯となっている。上空の景色を見ながら、しかし足元は確かに歩みを止めない。ここから電車と徒歩で自宅まで向かうことになる。
(……今日はすぐに帰って自炊かな)
大学生の一人暮らしにもなると簡単に外食の選択肢ができてしまうが、その気分ではなく買い物も現状では必要ないためそのまま寄り道せずに帰ることを決める。
社会人たちの帰宅ラッシュに巻き込まれて、非常に混雑した電車に乗って帰る。人との距離の近さに不快感を感じるも、表情には出さずに揺られていく。ただ、電車に乗っている時間は数駅分程なのですぐに解放された。
最寄り駅に到着して、あとは自宅まで徒歩での移動になる。
久保と同じく駅に降りたなかなかの量が溜まっていた人々は、帰路を辿る度に少なくなり、軈て1人になる。
1台の自転車が後ろから来て、そのまま追い抜いていく。
今日あった出来事に反射的に身体が硬直したが、この現象も明日か、数日後には忘れている。
(それにしても、今日のはよく考えてみればびっくりしたな)
現在になって冷静に振り返ることができるようになって、久保は物思いに耽った。事故になっていれば、アルバイトどころではなく警察の調査にでも付き合わされていたのだろうか。そういった経験もないし、その辺の界隈には明るくないため、勝手な妄想になる。
(あのとき、転倒した自転車を助けに行けば良かったのだろうか)
振り返るが、良さそうな回答が思い浮かばない。少し考えてみて、ただ見ているだけなのはやり過ぎだったのか、動こうとした仕草でも出すべきだったかと考えるが、「そんな義理はないな」で却下されていく。久保はルールというレールに沿って行く姿勢はある程度貫いてはいるが、正義なんて言葉では過大になる。正義とは誰かを巻き込んで振りかざすものだ。面倒を見据えた久保は無責任にそんなことをする気はない。
ルールと言えども、久保の思うそれが正しいとも言えない。横断歩道付きの信号機の前では赤信号を無視することは無いが、信号機に当たる道路で道幅が狭く車どおりがあまりない場合には信号機の手前で道路を横切ることがある。突き詰めればそれも良くない行為になるが、久保はそれを良しとしていた。頭の中には自分の考えている何とも都合のいいルールがあるのだ。
ご都合主義の問題に蓋をして、夜の空を見上げる。
また明日も普遍的な日常が流れる。そこで久保自身に問題が直面しなければどうということない。
そんな考えで、本日の食事のことに切り替えた直後――。
「――久保耀壱で間違いないな?」
夜の闇に漂う静寂を切り裂いて、声が鮮明に届いた。
呼び声の主は久保から見て正面、10メートル程先に佇んでいる。放たれたのは静かで落ち着いた声音であったが、いやに鼓膜を揺さぶる音にも聞こえる。
足が止まり、じっと前を見つめる。
草臥れた男だ。スーツを着こなし、右手には手提げのビジネスバッグを携えている。ごく普通のサラリーマンであるのが第一印象だ。ただ、傷んだ髪、やつれた目、スーツやバッグも新しさを感じさせるものはなく、日々の仕事に疲れた風貌だ。髭はきれいに沿ってあり、佇む姿勢こそビジネスマンらしくスラっとしているが、痩せた肉付きがみすぼらしさを強調している。
ここまで失礼に値する印象を持っている久保であるが、自分の名前を呼ばれたことでに警戒度を上げるには十分で、瞬時に状況を把握しようとした結果だ。更に、自身の認知していない人間が目の前で話しかけてきている時点で、『不審者』と定義づけても良いかもしれない。
怪しさしかない男の問い掛けに、久保は反応しない。呼ばれたことで足を止めたのが証明と判断される可能性はあるが、対面して声をかけられれば誰しも足を止めてしまうだろう。
男は久保の返答は待たなかった。暗いため細かい表情は解りにくいが、自分のことを久保本人であると仮定して進めようとしているのはわかる。
「……全く。このまま気付かないまま平穏に生きていれば良いものを」
言葉の節々に、久保に対する憎悪を感じ取った。これは明確な敵意だ。
けれど、身に覚えのない悪感情から久保は動けない。逃げる選択肢が取れない。
相手はもう見るからに不審者だ。それなのに、足は動かず見ているだけしかできない。声も出なかった。男の敵意の剥き出しにしている圧力を受け続けるしかない。こんな経験は一切なかったのだから当然だ。
今日起きた事故寸前の出来事とはまた違った理由で、身体がまったく動かないのだ。
「……さて」
不意に、男はビジネスバッグを地面に置いた。
そして、中を開き右手を伸ばすと、手に取ったのは立方体の黒い何かだった。無機質な闇が反射するキューブは男の手のひらに収まる程度のものだが、どんな目的で利用されるものかは久保からは不明だ。行為自体も不自然だ。凶器には見えない意味不明なものを出されても反応に困る。
いや、わからなくはない。
何故なら、そのキューブの形が男の手元で独りでに変形し始めたのだ。個体に定められた物体は液体のように滑らかに立方体の姿を排除する。底の見えない闇を纏いし流体が、あるタイミングを境に別の形状へと定着し始める。決められたルールのように波打つそれが最終的にどんなものになったかは、数秒で理解できた。
銃だ。
キューブの原型はもうない。男の手元に収まるのは漆黒に艶のある1丁の拳銃だったのだ。
ショックに久保の思考がすっぽりと抜け落ちる。ただ、男が握る金属物体の先端が紛れもなくこちらを向いていて、今からそれがどうなるのかが答えに近しいだろう。
玩具には見えない。本物だ。
息を飲み、完全に動けなくなった久保の耳には、ざらついた男の声が響く。引鉄には既に指が置かれていた。
「理解はできないと思うが、これが世の為だ。悪いが、すぐに終わらせてもらおう。……仕事なのでね」




