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「自分を封じてしまうなんて、最悪だわ……」
レティシアは深々とため息をついた。
視界いっぱいに広がるのは、ありとあらゆる荷物が詰め込まれた空間だ。積み重ねられた本、綺麗に並べられた靴。そこかしこにドレスが掛かり、帽子は宙に浮いている。
空間は驚くほど広く、壁も天井も見えない。
(収納庫の中って、こんな風になってるんだ)
自ら考案した封印術式の実験中、予想外の事故が起きた。本来なら魔力を封じるはずの術式が、術者であるレティシア自身に作用してしまったのだ。
その結果、彼女は収納空間の内側に閉じ込められてしまった。
「うーん……これ、どうしたらいいんだろう」
だが、いくら考えても妙案は浮かばない。
封印する方法は知っていても、封じられた側から脱出する方法までは検証していなかった。
(迂闊だわー)
ひとしきり唸った末、レティシアは顔を上げた。
「――ま、いっか! とりあえず寝て、起きたら考えよう」
あっさりと結論を出す。
悩んでも解決しない時は休む。それもまた研究者に必要な資質だと、レティシアは勝手に思っていた。空間の隅に置かれた簡素な寝台へ向かい、上着を放り投げる。
「よっこらしょ」
体を横たえ、上掛けを胸の上まで引き上げる。
(どうせ今すぐ解決策が見つかるわけではないしね)
そう思いながら目を閉じた、その時だった。
「そなた、何者ぞ?」
耳元で刃を突きつけられたような鋭い声に、レティシアは弾かれたように目を開いた。飛び起きざま、反射的に拳を突き出す。
ごっ、と鈍い音がした。
「ぐああっ!」
声の主が鼻を押さえてよろめいた。レティシアは上体を起こし、自分の拳と相手の顔を見比べる。
「よしっ! 当たった!」
殴った手を振りながら、寝台に膝で立つ。
両手で鼻を押さえ悶絶していたのは、黒い角を持つ青年だった。
腰まで届く艶やかな黒髪がさらりと流れている。褐色の肌に、切れ長の目。整った顔立ちは人形のように美しい。身につけている服もやたらと豪華だ。黒を基調とした装束には細やかな刺繍が施され、生地にも高級感がある。
一目見ただけで分かる。
(この男、お金持ちのお坊ちゃまだ。――チッ、眉目秀麗で金持ちって、ふざけてやがんの?)
思わず舌打ちが漏れる。
青年は憤慨しながらレティシアを指さした。
「鼻、鼻が潰れるかと思うたぞ……!」
よく見ると、うっすら赤くなっている。
「はぁーん、それはすみませーん」
「詫びるならば、初めから殴らぬものを! それに、謝罪というものを正しくせよ!!」
レティシアはあからさまに青年を嫌悪した。
「……小さいことをネチネチとうるさいな」
青年が固まった。
「男なら余裕を持って身構えなさいよ。情けない」
「……は? はぁあああああ!? なにゆえ余が叱責されねばならぬのだ!」
その声には警戒よりも悲しみが混じっていた。
「人の家でベラベラとやかましいわ。こっちは寝てるの。何時だと思ってるの。でないと、わたしの部屋から追い出すから……わたしの部屋? あれ? ここ、どこ」
問いかけを受けた青年は、一歩分後ずさって答えた。
「余の館じゃ!」
「ヨノヤカタ? おかしいな……異空間収納技術の応用実験をしていたはずなんですけど」
記憶をたどるように呟く。実験装置を起動したところまでは覚えているが、その後の記憶が曖昧だ。青年は顎に手を当て、少し考え込むような素振りを見せた。
「恐らく、実験の最中に何かが起きて、余の亜空間と接触してしまったのだろうな」
「なるほど」
突拍子もない話だったが、目の前に広がる光景そのものが現実離れしている。少なくとも、ほかに筋の通る説明は思いつかない。
再び沈黙が訪れる。
「あなた、誰」
「名を問うならば、まず己から名乗るが礼儀であろう」
青年は堂々とした態度で問いかけた。
先ほどは後ずさったというのに、今度はずいぶん威勢がいい。
「……レティシア」
青年はその名を聞くと、満足したようにうなずいた。居住まいを正し、いかにも重大なことを告げるように名乗る。
「余の名はビトル・マイヤス・ガルディア・ノスト・イル・バラモン。七十二柱の魔神軍を率いる偉大なる悪魔バラムの御子にして、余その人なり」
長い名乗りを終えても、青年は同じ姿勢を崩さなかった。
どうやら、かなり気に入っているらしい。
誇らしげに語るその姿は、自らに完全に酔っていた。
レティシアは無言のまま拳を握り締める。淡い光が拳を包み込み、聖魔法が発動した。ビトルの顔面へ一直線に突き出す。
「うわぁっ!?」
ビトルは悲鳴を上げながら、とっさに身を右へひねった。拳は鼻先をかすめるように空を切る。轟、と風圧だけが彼の頬を打った。
「待て! 落ち着くのだ! なにゆえ唐突に攻撃する!」
「悪魔を見たら退治しろとうちの師匠が」
「なんと恐ろしき教えよ……!」
間一髪で難を逃れたビトルだったが、レティシアの目は本気だった。次の一撃を放つべく、彼女はすでに拳を引き絞っている。
ビトルの顔から血の気が引いた。今度こそ避けられる保証はどこにもない。
「貴様、悪魔か!?」
「いえ、わたしはただの人間ですけど……正しくは、レティシア・フォン・デマレ……じゃなかった。レティシア・イル・クレイモンと申します。魔法省で研究と開発をしています。趣味は悪魔退治、生き甲斐も悪魔退治。悪魔を倒して十五年。コツコツ頑張ってます」
名乗り終えた途端、目の前の悪魔がぴくりと反応した。
「……クレイモンとな?」
「はい。男爵家から、クレイモン侯爵家に嫁ぎました」
悪魔は黙り込んだ。
まるで遠い記憶を探るような顔だった。
彼はおもむろに口を開いた。
「そなたは、リクスターが縁者か?」
不意に投げかけられた問いに、レティシアは首をかしげた。
「リクスター?」
聞き慣れない名前だった。
(一族の名前は覚えたつもりだけど……どこかにいたっけ)
レティシアは記憶を辿る。クレイモン家の系譜を頭の中で遡り、一人ひとりの名を確認していく。父母の代。祖父母の代。さらに百年、二百年と遡り続けて、ようやく思い当たった。
「あ」
小さく声を漏らす。
「わたしの夫のご先祖様ですね。たしか五百年ほど前にいらっしゃいました」
途端に、悪魔の表情が固まった。
「……五百年だと?」
信じられないものを見るような目で、彼はレティシアを見つめる。
「五百年ですね」
唇だけがぱくぱくと情けなく動く。
「余は精々数日ばかり眠っておったものと思うていたのだが……」
呆然とした呟きには、隠しきれない衝撃が滲んでいた。
自分が眠っている間に流れ去った途方もない時間。その事実が、今になって重くのしかかっていた。
「では、リクスターは何処におる? 息災であろうな?」
問いには、確かな期待が込められていた。レティシアは言葉に詰まった。
魔族と人間の寿命は天と地ほども違う。彼にとっては数日の別れでも、人間にとって五百年はあまりにも長い。
少しためらった末、レティシアは率直に告げた。
「お亡くなりになっていますよ」
五百年も前の人間が生きているはずがない。それは誰にでも分かる当然の事実だ。
だが、その当然は悪魔の胸を深く抉った。
「そうか……逝ってしもうたか……」
ビトルは目を伏せた。
ぽつりと零れた声は驚くほど弱々しい。先ほどまで尊大に名乗りを上げていた悪魔が、今はまるで道に迷った子供のような顔をしていた。
黙り込んでいたビトルだったが、何かに思い至ったように顔を上げる。
「なるほど、得心がいった。リクスターは余が退屈せぬよう、そなたを余のもとへ遣わしたのだな」
「……はい?」
話が見えず、レティシアは間の抜けた声を上げた。
「さすがはリクスターよ。実に気が利く」
「いや、何の話ですか」
「妻よ」
「待て待て待て」
即座にレティシアは制止した。
「落ち着け。何故急に妻になる」
逆にビトルが怪訝そうな顔をする。
「ここは余の領域だ」
彼が両腕を広げると、白い空間が呼応するように微かに揺らめいた。
「そしてそなたは今、余の領域の内におる。ならばそなたは余の妃であろう」
「どんな理屈だ」
「違うのか?」
「違います。結婚していますからね! 妻にはなりませんよ!」
きっぱりと言い切ったにもかかわらず、ビトルはますます理解できないという顔をした。
「我ら魔族は何度でも、幾人とでも契りを結ぶ。何ら問題あるまい」
あまりにも当然のように告げられ、レティシアは遠い目になる。
(うーん、話が通じない……)
そもそも価値観の前提が違うのだ。人間の常識をそのまま当てはめようとしていた自分が間違っていたのかもしれない。
「人間界では一夫一妻が基本なんです」
できるだけ噛み砕いて説明する。
「わたしはリクスター様の子孫と結婚しています。ですので、残念ながらあなた様とは結婚できません。もし来世でお会いすることがあれば、その時にまた考えましょう」
我ながら精いっぱい穏便な断り方だった。
しかし、ビトルは黙り込んだまま何かを考えている。
「……伴侶なる者が既に亡くなっておるならば、どうなるのだ?」
「ああ、その場合は独身に戻りますから、別の方と結婚することはできますけど……」
答えると、ビトルの金色の瞳が微かに輝いた。
「なるほど。では、その伴侶を消し去ればよいな。さすれば、そなたは余のものとなろう」
意味を理解した途端、背筋に冷たいものが走った。
「そなたが余を愛するならば、余はそなたの命尽きるまで、一人のみを妃として遇してやってもよいぞ」
まるで大きな譲歩をしたとでも言いたげな口調だった。
「よくねぇわ!」
レティシアは怒鳴り声を上げた。
(駄目だ……まともに相手をしていたら、こっちの精神が持たない)
悪意があるわけではない。それは分かる。だから余計に厄介だった。
価値観が根本から違いすぎて、会話をするたびに常識が削られていく気がする。
(もう疲れた……)
深々とため息を吐くと、レティシアは寝台の周囲へ結界を張った。淡い光が広がり、透明な壁となって空間を覆う。
これで少なくとも物理的な接触は防げる。
安心したレティシアは毛布を引き寄せ、そのまま寝台へ倒れ込んだ。
ふかふかの感触が疲れた体を包み込む。
(寝よう……現実逃避には寝るのが一番だ)
だが今の彼女には、それが最善の選択に思えた。ぎゅっと毛布を抱き込み、目を閉じる。
意識が沈み始めた、その直後。――ぱきん。何かが砕けるような、小さな音がした。レティシアは反射的に目を開く。音は、今まさに自分が張った結界の方から聞こえてきた。
(まさか)
そこには、まるで硝子細工でも眺めるかのような気軽さで結界に触れているビトルの姿があった。
彼が指先に少し力を込めるたび、結界に蜘蛛の巣のような亀裂が走っていく。
「……」
レティシアは無言で毛布を頭まで引き上げた。
(うん、見なかったことにしよう)
現実を受け入れるには、まだ心の準備が足りなかった。
「開けよ……」
結界の向こうから、くぐもった声が聞こえる。
「開けよ……開けよ……開ーけーよーぉ……」
「うるさいなぁっ、もう! 黙ってそこで寝ろっ!」
レティシアが枕を投げつける勢いで怒鳴ると、声の調子が変わった。
「どうか開けてたもれ……お願い申し上げる」
切実な声が結界の向こうからする。だが、毛布にくるまったレティシアはぴしゃりと言い放った。
「嫌です」
「そこを何とか」
「何ともなりません」
食い下がる相手に、レティシアはうんざりした。考えた末、どうせ無理だろうという気持ちで適当な条件を口にした。
「なら、動物になってください。そしたら考えます」
半分は追い払うつもりだった。
ところが、結界の向こうから返ってきた声はやけに自信満々だった。
「これならばどうだ!」
ぽん、と煙が上がる。レティシアがちらりと視線を向けると、そこには巨大なヒグマが立っていた。黒々とした毛並み。丸太のような腕。鋭い牙。
どう見ても脅威である。
「わたしのことを食い殺す気ですか? 却下。帰れ」
「ああ、待て!」
慌てた声とともに再び煙が上がる。今度はしなやかな筋肉をまとったクロヒョウだった。
「ダメ」
「な、なにゆえだ!?」
クロヒョウはしゅんと耳を伏せたが、すぐにまた煙に包まれる。
ワニ、カバ、スイギュウと次々と姿を変える。
「論外です」
「どうして全て駄目なのだ!」
もはや悲鳴だった。レティシアは深々とため息をついた。
「あなた、自分で言っていておかしいと思いませんか? わたしは今、一人で部屋にいるんですよ。そこに大型肉食獣や巨体の動物を連れて来られて喜ぶとでも?」
「うっ……」
反論できず、ビトルは唇をきつく結んだ。
「諦めて帰ってください」
「ああ、待て! もう一度だけ機会を賜れぬか!」
必死な声に続いて、ごそごそと何かをしている気配がした。
最後の悪あがきだろう。レティシアは興味なさげに毛布を頭まで引き上げ目を閉じた。
「レティよ、レティよ! これならば如何だ?」
レティシアは仕方なく毛布の隙間から顔をのぞかせた。
(え?)
そこにいたのは、小さな黒猫だった。夜のように艶やかな毛並み。つぶらな金色の瞳。ぴんと立った耳と、ふわりと揺れるしっぽ。月明かりを浴びたその姿は、先ほどまでヒグマやカバになっていた人物と同一存在とは思えないほど愛らしかった。
「にゃあ」
控えめな鳴き声までついている。
(こ、これは卑怯な。あまりにもずるいでしょ……!)
レティシアは内心の動揺を必死に押し殺しながら、厳格な審査官のように腕を組んだ。
目の前では小さな黒猫が、期待に満ちた瞳でこちらを見上げている。
可愛さの暴力である。
しかし、審査に私情を挟んではならない。レティシアは真面目な顔を崩さぬまま数秒間考えるふりをした。黒猫は固唾を呑んで結果を待っている。
長い沈黙の末、レティシアは親指を立て、うなずいた。
「よし、採用」
「やった!」
歓喜の声とともに、黒猫の尻尾がぶんぶんと音を立てそうな勢いで振られる。
「入ってよし」
その言葉を聞くや否や、ビトルは弾かれたように結界へ飛び込んだ。
「にゃっ!?」
空中でぴたりと動きを止める。
見えない力に捕まえられた黒猫は、そのままふわふわと宙を移動し、レティシアの腕の中へすっぽり収まった。
「にゃ……?」
きょとんと首をかしげた直後、カチリ――首元に冷たい感触が走った。
「こ、これは……!」
黒い毛並みに映える上品な金の首輪。中央には小さな赤いルビーがはめ込まれ、繊細な装飾が施されている。一見すると高価な装飾品だが、ビトルの顔から血の気が引いた。
「魔封じの首輪ではないか!」
レティシアはにっこりと微笑んだ。
とても綺麗な笑顔だった。
「なにか文句でも?」
「い、いえ……何もござらぬ」
ビトルは反射的に背筋を正した。
「よろしい」
レティシアは満足そうにうなずくと、両腕でビトルを抱き上げた。
ふわりと柔らかな毛並みが腕に触れる。小さな体から伝わってくる温もり。ぴくぴくと落ち着きなく動く耳。
(ああ……)
レティシアの胸が高鳴った。
(柔らかな毛並み。温かな体温。ぴくぴく動く耳……満点の可愛らしさだわ!)
そっと指先を伸ばし、耳の付け根を撫でる。
するとビトルの体がびくりと震えた。
「んっ……」
思いのほか大きな反応が返ってくる。
レティシアの目が輝いた。
もう一度撫でる。
ビトルは抵抗する気力もなく、レティシアの腕の中に身を預けたまま遠い目をした。
確かに目的は果たした。
だが、その代償は決して安くなかった。首には魔法封じの首輪は魔力の放出を制限し、安易に逃げ出すこともできない。本来なら恐れられる存在であるはずの自分が、今は耳を撫でられて大人しくしている猫である。
情けないにもほどがある。悪魔としての威厳が地に落ちている。それでも耳を撫でる手が止まると、名残惜しく感じ催促てしまうあたり、なおさら情けなかった。
「……にゃ」
小さく鳴いた声に、自分が傷つく。
ビトルは目を閉じた。
悪魔としての尊厳。それを差し出して手に入れた安息は、想像していたより悪くなかった。




