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「嫁が――嫁が、帰って来ない!」
悲痛な叫びが執務室を揺るがした。
ヴィクトールは机に両手をつき、今にも突っ伏しそうな勢いで身を乗り出している。普段の冷静な姿は影も形もなかった。
慣れた手つきで書類の束を整えると、そのままヴィクトールの前に差し出した。
「こちらが本日の決裁書類です」
「仕事などしている場合か!」
ヴィクトールが声を荒らげ、乱暴に腰を下ろした。
秘書のアレクサンダーは机上の書類を指先で示しながら、無言で決裁を促す。
「仕事なんてしていられるか! 嫁が、嫁が結婚式直後に音信不通になったんだぞ!?」
ヴィクトールの訴えは切実だったが、アレクサンダーは落ち着いていた。
五十代半ばを過ぎた執事は、主人の取り乱す姿にも慣れきっている。現侯爵に長く仕え、十五年前からはヴィクトールの執事を務めてきた。
皺のない漆黒の制服に、磨き上げられた革靴。後ろへ撫でつけられた黒髪に、左目には円形の片眼鏡。彫りの深い顔立ちには、わずかな動揺すら浮かばない。
まるで今日の天気でも聞いているかのようだった。
「左様ですか」
その一言に、ヴィクトールはこめかみを痙攣させた。
「アレクは私の話を聞いていなかったのか? レティの姿が見当たらないんだぞ。どこかで困ってるんじゃ……そうだ、捜しに行こう」
立ち上がり上着を掴む主人を、アレクサンダーは冷ややかな視線で見つめた。
「何をおっしゃっているのですか。奥様のことより、まず仕事をしてください」
「こんな状態で仕事なんて無理だ!」
アレクサンダーは動じず、手にしていた書類を机の上へ置いた。軽く指を弾く。
窓が淡く光を帯びた。続いて扉にも魔法陣が浮かび上がり、執務室全体を包み込むように防護魔法が展開される。
目の前の主人が勢いに任せて飛び出していかないよう、先回りして退路を塞いだのだ。
アレクサンダーは侯爵家に仕える使用人の中でも屈指の魔術師だった。五十を過ぎた今もその実力は衰えを知らず、本気で戦えば騎士団長クラスにも引けを取らない。
武闘派として名高いヴィクトールでさえ、真正面から挑めば分が悪い。
当のアレクサンダーはそんな評価など意にも介さず、何事もなかったように書類を整えていた。
「どうせ実験室にこもられているのでしょう。いつものことではありませんか」
「いや、今回は違う」
ヴィクトールは即座に反論した。
「研究所中を探したが見つからなかったんだ。研究員たちも『五日前から姿を見ていない』と言っていた」
それを聞いても、アレクサンダーの表情は崩れない。
「左様ですか」
口ではそう言いながら、書類を一枚めくる。
「はい、こちらに印を押してください」
「事故に遭って、どこかで助けを求めているかもしれない!」
青ざめた顔で訴える主人に、アレクサンダーはようやく顔を上げた。
「失礼ですが、奥様が最後に何を研究していたかご存じですか」
「え?」
「異空間収納技術の応用実験です」
ヴィクトールの顔から血の気が引く。
(異空間収納……)
嫌な予感が脳裏をよぎる。
「おそらく、自身を収納してしまったのでしょう」
「そんな馬鹿な!」
叫んだものの、否定できなかった。
そんな間抜けな理由で姿を消すはずがないと言い切りたい。
だが、その言葉は喉の奥で止まった。
レティシアは天才だった。
常人には思いつきもしない発想で新たな技術を生み出し、不可能だと言われる理論を次々と形にしてきた。
その一方で、自身の安全については驚くほど無頓着だった。
興味を惹かれれば周囲が見えなくなる。夢中になれば寝食すら忘れる。研究のためなら危険も不便も意に介さない。
「では、救出方法が判明するまで仕事をお願いします」
「できるか!」
ヴィクトールの悲鳴が執務室を揺るがした。
「今すぐレティを捜索しろ!」




