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結婚式は、それから五日後にウェンチェスター大聖堂で執り行われた。
参列者は新郎新婦と両親、兄弟、親しい友人や知人が数人だけの小さな式だ。華やかさこそないが、そのぶん温かな祝福に満ちていた。
厳かな鐘の音のなか、二人は祭壇の前に立った。
指輪を交換し、永遠の誓いを交わし、最後にそっと口づけを重ねる。
祝福の拍手が湧き起こるなか、レティシアは引きつった笑みを浮かべながら隣のルネージュへ顔を向けた。
「いや、できる限りのことはするって言ったけど……まさか結婚式をするとは」
「いいじゃない。とても素敵な式だったわよ」
ルネージュはくすくすと肩を震わせる。
しかしレティシアは不満げに頬を膨らませると、ドレスの裾を少し持ち上げた。
「よくないって。ほら、見てよ」
差し出された両足には、銀色の細工が施された輪が嵌められていた。ルネージュは目を丸くした。
「あら、それってアルンスト時代の魔力抑制器具じゃない。すごいわね、どこで手に入れたのかしら。私、実物を見るのは初めてよ」
興味津々で覗き込むルネージュに対し、レティシアはますます不機嫌になった。
「感心してる場合じゃないよ。これ、重くはないけど歩きづらくて仕方ないんだから」
そう言って足首を軽く動かしてみせる。
器具がかすかに音を立てた。
「こんなの、普通は結婚式のアクセサリーに使うものじゃないでしょ」
レティシアは自分の手首に取り付けられた魔力抑制具を恨めしそうに見つめた。装飾品を思わせる繊細な意匠が施されているとはいえ、その正体はれっきとした拘束具だ。花嫁衣装との相性以前の問題である。
「でも、意外と似合ってるわよ?」
隣でルネージュがのんきに微笑む。
そもそも結婚式だというのに、なぜ花嫁が魔力抑制具を身につけなければならないのか。納得できる説明は特に受けていない。
ぷいと顔を逸らしたレティシアは、ぼそりと呟いた。
「たかが一回助けたくらいで、わざわざ結婚までするんだから。恩義に忠実っていうか、なんていうか……」
その言葉を聞いたルネージュの目が大きく見開かれた。
「ちょ、ちょっと待って。嘘でしょ? ここまでされて、まだ気づいてないの?」
驚きに身を乗り出す。
「何に?」
「恩義だけで結婚なんてしないでしょ。愛しているからに決まってるじゃない」
心底呆れたような声が漏れる。
「愛?」
信じられないものを見るような顔で聞き返す。ルネージュは頷いた。
「愛」
しかしレティシアは納得できず、しばらく考え込んだあと、おもむろにドレスのスカートを持ち上げ、自分の足元を見下ろした。
しっかりと装着された魔力抑制具。
(愛? ……愛とはいったい……愛する人に拘束具なんてつけなくない?)
至極まっとうな疑問だった。
「人の性癖は色々だからね」
「性癖? そうか、性癖か……なるほどね」
レティシアは神妙な顔で頷いた。
「変態なら仕方ないか」
「誰が変態だ」
背後から飛んできた低い声に、二人は同時に肩を震わせた。扉の前には、真っ白な衣装をまとったヴィクトールが無表情で立っていた。
レティシアは青ざめ、ルネージュは視線を逸らした。
気まずい沈黙が流れる。
「恩義のために魔力抑制器具なんて使うわけないだろ」
「……なら、なんで」
震える声で問いかけると、ヴィクトールは迷いなく答えた。
「結婚したのは、愛しているからだ」
「……へ?」
間の抜けた声が漏れる。
「ずっと愛してきた。これからも愛し続ける」
まるで当たり前の事実を告げるような口調だった。レティシアは一歩、後退した。
「子どものころから、嫁になってくれって言っていただろ」
(そういえば、言ってたな。あまりにも昔から聞かされていたせいで、本気にしたことなどなかった)
レティシアは唇をかすかに震わせた。
「ヴィルはずっと、恩義に縛られているんだと思ってた」
掠れた声が零れる。
幼い頃から隣にいるのが当たり前だった。
爵位は違えど親同士の仲が良くて、気づけばいつも一緒にいた。ヴィクトールが自分を気にかけるのも、助けてくれるのも、過去の恩義が理由なのだと思い込んでいた。
だから、それ以上の感情があるなど考えたこともなかった。
「一番近くにいたら、愛してくれるかと思っていた」
声には微かな苦笑が滲んでいた。
長い年月をかけて抱え続けた期待と、報われなかった諦め。そのどちらも飲み込んだような声音だった。
自分が気づかなかっただけで、彼はずっと同じ場所から手を伸ばし続けていた。
「幼馴染で、親同士も理解し合ってる。うちの親なんか、君を実の娘だと思ってるくらいだ」
ヴィクトールの家に遊びに行けば、家族は当然のようにレティシアを迎え入れた。食卓に座る場所も決まっていて、まるで家族の一員のように扱われてきた。
それが当たり前すぎて、彼らがどうしてそう振る舞うのか、深く考えたこともなかった。
「……ごめん」
胸の奥がひどく痛んで、自然と謝罪がこぼれた。
ヴィクトールの頬がぴくりと動く。
「それはなんの謝罪だ?」
逃がさないと言うような目で見つめられる。
「結婚したくないってこと?」
問いかける声は刃のように鋭かった。
「違う。他人様の真剣な思いを邪険にして、ずっと軽く考えてたんだなって……」
「おう、反省しろ」
「はい……」
素直に頷くと、ヴィクトールはようやく表情を和らげた。
「ずっとレティシアが好きだった。笑ってる顔も、私にだけ見せる泣き顔も全部好きだった」
あまりにも自然に告げられた言葉に、レティシアの呼吸が止まる。
転んで膝を擦りむいた時も、友達と喧嘩した時も。悔しくて眠れなかった夜も、レティシアは決まってヴィクトールを頼った。
誰にも見せたくない弱さを、彼の前でだけさらけ出していた。
「全部が愛しかった」
ほんの少しだけ声が震えた。レティシアは何も言えなくなった。
「どうやったらレティシア以外を好きになれるのか、もうわからないんだ」
長い年月をかけて沈殿した言葉には、逃れようのない重みがあった。
「……ヴィルの気持ちに、薄々気づいていたの。もしかして、と思いながら、気づかないふりをしてた。ヴィルがどうしてあんなによくしてくれるのか、考えないようにしてた」
「どうして」
「言ったでしょう? うちは男爵家で、わたしは何も持っていない。あるのは魔力だけ。大魔導士になって地位が高まれば話は変わってくるんだろうけど」
身分の差を思い知らされるたび、期待するのは愚かだと言い聞かせてきた。
だから見ないふりをした。
自分たちはただの幼馴染で、特別な感情はないのだと何も知らない顔を続けた。
期待しなければ失望することもないと、壁を作っていた。
けれど、本当はずっと好きだった。
嫁になってほしいと言われるたび、冗談にして笑った。まともに受け取ってしまえば、自分がどこまで期待してしまうのかわからなかった。
その沈黙が気になり、おそるおそる顔を上げる。
「身分を気にしていたのは、レティくらいだ」
ヴィクトールは何の迷いもない目で、レティシアをまっすぐに見た。
レティシアが長いあいだ抱えてきたものを、必要のないものだと言い切ってしまう。
「……ちょっと。あんまりこっちを見ないで」
「なぜ」
「落ち着かない」
ヴィクトールは視線を逸らさなかった。
「可愛い」
レティシアはとうとう耐えられなくなって、俯いた。
(頬が熱い)
こんなふうに見つめられることにも、好意を隠さず向けられることにも、まだ慣れていない。
「魔力なんていらない。そんなもの、どうだっていい。私はただ、レティシアが好きなだけだ」
もう疑わなくてもいいのだと自分にも言い聞かせたいが、長い年月をかけて積み重なった不安は、幸福になったからといって、きれいに消えてくれるものではない。
「……でもわたし、嫉妬深いのよ」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「私には負けるだろう?」
レティシアは思わず吹いた。
「自慢することじゃない」
「事実だ」
「なお悪い」
ヴィクトールは悪びれもしない。呆れて睨むが、ヴィクトールは少しも堪えた様子がない。
「浮気なんて、絶対に許さないんだから」
「わかっている」
どうしてこの人は、こんなにも迷いなく答えられるのだろう。
レティシアは握った手を膝の上で強く重ねる。こんなことを尋ねれば、面倒な女だと思われるのではないか。
けれど結局、聞かずにはいられなかった。
「……わたしだけを好きでいてくれる?」
ヴィクトールの手が伸び、指先に触れた。遠慮がちにレティシアの手を包む。
言葉より先に伝わってきた温かさに、強張っていた指から少しずつ力が抜けていった。
「もちろんだ。だからレティも、私だけを愛していてくれ」
ヴィクトールには何も恐れるものなどないと思っていた。自分とは違って、欲しいものはいつでも手にできる人なのだと疑わなかった。
けれど、そうではなかったらしい。
彼は相手の気持ちを欲しがっている。ずっと愛してきたと言いながら、それでもなお、これからも愛されることを望んでいる。
そのことが、胸に沁みた。
長いあいだ抱えてきた不安が、それだけですべて消えたわけではないが、もう一人で怯えているような気はしなかった。
レティシアはそっと指を動かした。
触れるだけだった指先をヴィクトールの指に絡め、今度は自分からその手を握るとすぐに、ヴィクトールも握り返した。
彼の手は、とても温かかった。




