✽
目を覚ますと、どこにもヴィクトールの姿はなかった。
昨夜、意識が途切れる寸前に彼の声を聞いた気がする。
夢うつつの中で見た幻だったのだろうか。
「なんか言われた気がするんだけどな」
寝台の上で胡座をかき、腕を組む。
(なにか、こう……大事なことを……)
記憶の糸をたぐり寄せる。
考え込んでいるうちに、不意に昨夜のやり取りが脳裏によみがえった。
『私は君の犬じゃない』
「あ」
間の抜けた声が漏れた。
頭を掻きながら昨夜の自分を振り返る。
(結構まずいこと言ったかも)
もちろん、本気で彼を犬扱いしたつもりはない。圧し掛かられた感触が、イクトを思い出させただけだ。誤解されたのなら弁解くらいはしたほうがいいのかもしれないが、そう考えたのもほんの数秒だった。
「ま、いっか!」
あっさりと思考を放り投げると、彼女は大きく伸びをした。ヴィクトールなら、そのうちひょっこり戻ってくるはずだ。
まだ怒っていたら、そのとき謝ればいい。
根拠のない確信を胸に、彼女は寝台から飛び下りた。
冷えた床を踏みしめながら大きく伸びをし、部屋の隅に置かれた制服へと向かう。
魔法省の制服は厳格な規定で統一されている。黒を基調とした長袖の上着に長ズボン。生地の縁には金糸による精巧な刺繍が施されており、胸元には所属を示す紋章が輝いていた。
動きやすさを重視しながらも威厳を損なわない意匠は、いかにも魔法省らしい。
慣れた手つきで袖を通し、襟元を整える。最後にマントを肩へ留めると、鏡の前でくるりと一回転した。
「よし。完璧」
満足げに頷き、胸を張ったその時、コンコン、と部屋の扉を叩く音がした。
「どうぞ」
声をかけると扉が開き、侍女が一礼した。
「レティシア様、朝食のご用意が整いました」
「ありがとうございます」
レティシアは微笑みながら礼を返した。
「ヴィルは?」
「ただ今旦那様とお話し中でございます」
「そう」
レティシアは首をかしげた。
(朝から二人きりで話をするなんて、珍しい)
早朝の陽光は眩しいほどに明るく、磨き上げられた床に白い輝きを落としていた。窓の外にはどこまでも澄み渡る青空が広がり、庭を彩る木々の緑が朝日を受けて眩くきらめいている。
穏やかで平和な朝だ。
こぼれそうになるあくびを堪えたとき、ふいに違和感を感じたレティシアは足を止めた。
首だけを動かし、窓の外を見る。
(――何?)
言葉では説明できない何かが、意識の端をちりちりと刺激している。
その気配を探るように感覚を伸ばした。
「レティシア様?」
突然足を止めたレティシアを不思議に思ったのか、侍女が振り返った。
「なんだろう……何かいる」
レティシアは耳を澄ませた。
「何か、ですか?」
侍女が窓を開けると、朝の冷たい風が廊下へ流れ込んだ。
レティシアは窓辺へ歩み寄った。
「見える範囲には、特には何もございませんが」
レティシアは深く息を吸い込み、気配を探るように空を見上げた。
「遥視」
呟きとともに魔力が瞳へと集まる。
琥珀色だった瞳が淡く輝き、その色を変えていく。黄金を溶かした色合いは次第に深みを帯び、鮮やかな深紅へと染まった。
視界が切り替わる。
遥か彼方の空が、手を伸ばせば届くほど鮮明に映し出された。街を囲む山脈の、その向こう側。複数の巨大な生命反応が高速で接近している。
レティシアは大きく目を開いた。
「嘘でしょ……あれ、水竜じゃん」
その言葉が口をついて出る。
水竜は普段、広大な湖のほとりを住処としている。水を離れて生きることはできず、人里に姿を見せることもほとんどない。
彼らが住処を移動するとしたら、その湖が何らかの理由で涸れ始めたか、あるいは住み慣れた場所を離れなければならなくなったかのどちらかだ。
人を襲うことはないが、あれだけの数が王都に降り立てば、建物の被害は免れない。
レティシアは窓辺へと駆け登った。
「レティシア様っ!?」
侍女の慌てた声が飛ぶ。
「水竜が出た! 結界の外で押し留める。念のため、使用人たちを全員建物の中へ入るよう命じて」
「ええっ!? 水竜が!?」
「ヴィルにも、竜が出たって伝えて!」
侍女の返事を待つことなく、レティシアは窓枠に足をかける。
山脈までは距離がある。一刻の猶予もなかった。水竜ほどの存在が結界を破り、街の近くまで接近すれば、何が起きるかわからない。
レティシアは全身に魔力を巡らせると、窓枠を強く蹴って宙に躍り出た。
「行ってくる!」
山々の向こうの空では、無数の巨影が羽ばたいている。その一つ一つが巨大な水竜だ。
レティシアは唇を引き結んだ。
(すごい数……!)
遠目に見ても、その数は異常だった。群れをなして移動しているというだけでも珍しいのに、これほどの大群となれば話は別だ。
(これだけいたら、絶対に狩ろうとする人が出てくるでしょ)
水竜は貴重な素材の宝庫だ。鱗も牙も骨も高値で取引される。もし王都の近くに降り立てば、欲に目がくらんだ者たちが放っておくはずがない。
レティシアはさらに速度を上げた。
景色が流れ、風が頬を叩く。彼女の視線は、水竜たちの群れを真っ直ぐに捉えて離さない。
(さて、どうするかな。炎の魔法で軽く脅して進路を変えさせるか。それともまとめて捕まえて、王都から遠く離れた土地へ転移させるか)
どちらにしても、まずは被害が出る前に止めなければならない。
レティシアは迫り来る水竜の群れへ向かって、一直線に飛んだ。
(ざっと見積もっても、百体はいそう)
レティシアが目測を立てたとき、時計塔の鐘が重々しく鳴り渡った。
ゴォン、ゴォン、と街中に鳴り渡るその音は、魔物の出現を知らせる警鐘だった。おそらくヴィクトールが鳴らしてくれたのだろう。
通りにいた人々は顔色を変え、手近な建物へと駆け込む。次々と扉が閉ざされ、たちまち通りから人影が消えた。
(ということは、もうすぐ国中の魔法使いたちが集結する。集まられる前に、決着をつけなきゃ)
レティシアは大きく息を吸い込み、両腕を広げた。
「火精よ、我が声に応えよ」
凛と澄んだ詠唱が響く。
その声に呼応するように紅蓮の炎が虚空から湧き上がり、水竜たちを取り囲むように渦を巻いた。燃え盛る火の壁は獲物を逃がすまいとする檻のごとく広がった。
「ギュイイイイイイッ」
水竜たちが鋭い悲鳴を上げた。
炎の檻は容赦なく収縮し、一体、また一体と水竜を閉じ込めていった。逃れようと暴れる竜もいたが、紅蓮の牢獄を破ることはできなかった。
最初の一体を捕らえてから、わずか十分。
レティシアは百を超える水竜すべての捕獲を成し遂げていた。
街の上空に脅威はもはや一つも残っていない。
彼女は捕らえた水竜たちを引き連れ、王都からはるか離れた湿地帯へと飛翔した。
眼下に広がるのは、広大な湿原だ。中央には巨大な湖が水面を揺らしている。解放された水竜たちは待ちかねたように空を舞い、一斉に湖へと飛び込んだ。
轟音とともに巨大な水しぶきが上がる。
透明な飛沫が陽光を受けてきらめく中、水竜たちは広大な湖を我が物顔で泳ぎ回り始めた。窮屈な檻から放たれたことが嬉しいのか、時折、楽しげな鳴き声を上げている。
「うん。やっぱりこっちの方が居心地が良さそう」
もともと彼らに害意があったわけではない。ただ住処を追われ、行き場を失っていただけだ。
その様子を見守った後、レティシアは身を翻し、王都へ向かって飛び立った。
王都へ戻る頃には、すでに騒ぎは落ち着き始めていた。
先ほどまで空を埋め尽くしていた水竜の群れは、幻だったかのように姿を消していた。
避難していた人々が恐る恐る建物の陰から顔を覗かせ、青空を見上げる。そこに脅威の影はなく、街には安堵のざわめきが広がっていた。
レティシアは街の広場へ降り立った。
広場にはヴィクトール率いる騎士団と、集結していた魔導士たちの姿があった。だが、彼らは戻ったレティシアに何も言わなかった。誰一人として動かない。
全員が呆然と口を開けたまま、レティシアを見つめているだけだ。
「……?」
レティシアは小首をかしげた。
視線だけで左右を見回すが、誰も彼もが石像のように固まっている。
(え? なに? なんか怖いんですけど……)
居心地の悪さを感じながら、レティシアはヴィクトールへと歩み寄った。
「ヴィル」
呼びかけると、ヴィクトールがぴくりと肩を震わせる。
「なに? どした? あ、もしかしてどこかに被害があった?」
心配して尋ねるレティシアに、ヴィクトールは口を開かなかった。
「うん?」
怪訝そうに首をかしげながら、レティシアは隣に立つヴィクトールのマントの端をちょいと掴んだ。
彼の隣に立っていたルネージュが、頬がぴくりと引きつらせる。
「……レ、レティ?」
名前を呼ばれ、レティシアは彼の隣にいたルネージュへ視線を向けた。数人の魔導士に囲まれた彼女に、ぱっと表情を明るくする。
「あ、ルネージュ! ルネージュも来てたの? ごめんね。水竜、別の地帯に移動させちゃった」
申し訳なさそうに謝るが、ルネージュは頷かなかった。
ただ信じられないものを見るように、その顔をまじまじと見つめている。
「いや、待って。そんなことはどうでもいいのよ」
ルネージュは震える指先でレティシアを指差した。
「あなた……本当にレティシアなの?」
「うん」
レティシアはあっさりと頷く。
なぜそんな質問をされるのか、まったく理解できない。
きょとんとしたまま何度か瞬きを繰り返し、逆に首をかしげた。
「え? なに? どうしたの?」
騎士たちも魔導士たちも息を呑み、まるで目の前の光景を脳が受け入れきれないかのようにレティシアを見つめていた。
誰もが言葉を失っている。
そして考えが答えを導き出すと、「「「ええええええええええっ!?」」」という絶叫を広場に轟かせた。
「嘘だろ!? 冗談だよな?」
「素顔はこんな美少女だったのか!?」
「本当に本人なのか!?」
「いやいやいや、どう見ても別人だろう!」
「でも、喋り方も反応もレティシア様そのままだぞ!?」
「うわー、そういうことかー。騎士団長のあの執着……」
騎士も魔導士も入り乱れ、口々に叫ぶ。
広場は騒然となった。
頭を抱える者、現実逃避するように空を見上げる者。信じられないと頬をつねる者までいる。
そんな大混乱の中心で、レティシアだけが困惑した表情を浮かべていた。
「だから、何なの?」
本気でわからないという顔でヴィクトールを見上げる。
だがヴィクトールは困り顔で、片手で目元を覆った。
「……レティ、顔」
「え? 顔?」
レティシアはぱちりと瞬きをする。
言われた意味がわからないまま、自分の頬にそっと手をやった。
「あ」




