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クレイモン家での婚約の話は驚くほど順調に進んだ。
正式な婚姻は五十日後。王都の教会で式を挙げることになった。
レティシアとしては、もう少し揉めるものだと思っていた。家同士の条件交渉やら持参金やら、貴族の結婚には面倒な話が山ほどあるはずが、現実は違った。
「こんな綺麗なお嬢さんをいただくなんて。ありがとうございます」
「いえいえ、とんでもない。研究ばかりしている子ですが、根は真面目ですので」
両親は気軽にそんな話をしている。
気付けば婚約はまとまり、結婚式の日取りまで決まっていた。
(高級果物の贈答品でも受け渡しているみたい。わたしは土産物かっつーの)
レティシアは遠い目になった。
自分の人生が軽快な雑談の延長で決まっていくのは、なんとも言えない気分だ。
食事を終えると、その日はクレイモン家に泊まることになった。
案内された客間は東棟にある。複数ある客間のひとつだが、とにかく広い。騎士が五十人ほど雑魚寝できそうだ。
(さすが大貴族。金銭感覚が庶民とは違うわ)
風呂を済ませたレティシアは、濡れた髪に温風魔法をかけた。
さらさらと乾いていく髪を指で梳きながら、身支度を終えた寝台へ倒れ込んだ。
体が柔らかな寝具に沈む。
「あー……疲れた」
枕に顔を埋めながら呟き、レティシアは目を閉じた。頭の芯までじんわりと疲労が染み込み、今にも眠ってしまいそうだ。
ふと左手の薬指を見る。銀の指輪が、照明の柔らかな光を受けて輝いている。
「結婚、かぁ……」
ぽつりと漏らしながら、指輪を指先でくるりと回す。
まだ実感はない。
婚約だ結婚だと騒がれても、自分の人生が何か大きく変わったようには思えない。
「ま、いっか!」
眠気に負けたレティシアは、指輪を外してサイドテーブルに置いた。金属が木の天板に触れ、小さな音を立てる。
「どうして指輪を外した」
地を這う声がする。
「……んあ?」
反射的に目を開けると、当然のようにヴィクトールが立っていた。
(普通に不法侵入してる……)
反論したいが、疲れていてそれどころではない。
「結婚すると誓っただろう」
「……眠い」
「寝るのに外しただけか?」
「うん……」
半分以上意識が飛びかけているレティシアは、適当に頷く。
「レティシア」
「……んー?」
「君がすんなり結婚すると言ってくれてよかった」
しかし眠気の方が圧倒的に勝っていた。返事をしないまま、目を閉じる。
「おい、聞いているのか」
「うーん……」
「君を愛してるから、結婚出来てとても嬉しいと言ったんだ」
「……」
「愛していると言われたら、自分も愛していると答えるのが通常だろうが」
「ふへへ」
笑いが漏れた。
ヴィクトールは不満そうに眉間に皺を寄せた。寝台に上がり、レティシアの肩をつかんで前後に揺さぶる。
ぎしりと寝台が音を立てた。
「笑うな。愛していると言え」
「やだよぉ、眠いよぉ……」
レティシアは情けない声を漏らしながら、もぞもぞと毛布を引っ張り上げた。肩までしっかり包まれる。
「レティ」
「分かった、分かったから……寝かせて……」
「レティシア!」
「んー……はいはい」
声はどんどん小さくなり、語尾は半ば寝言だった。ヴィクトールのこめかみに青筋が浮かぶ。
レティシアは気にも留めず、もぞもぞと寝返りを打つ。
「起きろ、寝るな!」
「うるさ……」
眠気に負けた声でぼやく。
毛布の中で身じろぎし、片腕だけを外へ伸ばした。
「イクト、おいで……」
ふらふらと宙を探る指先が頬に触れる。
ヴィクトールの眉がぴくりと動いた。
「……ほら、イクト……」
呼ばれた名前に、彼の眉間の皺がさらに深くなる。
イクトはレティシアが初めて飼った愛犬の名前だ。黒い毛並みの人懐こい犬で、レティシアが腕を広げると嬉しそうに尻尾を振りながら駆け寄った。
だが、ある年。いつものように庭へ出たまま、イクトはふらりと姿を消した。
捜索隊を出しても見つからず、結局行方は分からなくなった。
何年もの間、レティシアは諦めなかった。出先で黒い犬を見かければ足を止め、噂を聞けば確かめに行った。どこかで生きているのではないかと探し続けた。
「私は君の犬じゃない」
ヴィクトールは険しい顔で眉間を寄せた。
文句を言いながらも近寄られ、レティシアは満足そうに笑った。
「イクト……会いたかったよ……」
子供の頃の記憶と重ねているの、覚束ない手で彼の頭を撫でる。
「いいこ、いいこ……」
ぽんぽんと撫でる仕草に、ヴィクトールの顔が引き攣った。
「犬扱いするな」
低い声で訂正するが、レティシアはまるで聞いていない。
眠気に負けた瞳は半分閉じていた。
「私がどれほど苦労して、君に近づく連中を追い払っていると思っているんだ」
愚痴めいた言葉が漏れるが、眠気に包まれつつあったレティシアの耳には届かない。彼女の意識はすでにまどろみの底へと沈みかけていた。
無意識のまま腕に力を込め、抱き寄せるようにヴィクトールの体を胸元へ引き寄せる。
「……勘弁してくれ」
低く漏らされた声には、呆れの色が滲んでいた。
レティシアは身じろぎし、さらに抱き締める腕に力を込める。
ヴィクトールは黙り込んだ。逃れようと思えばできるが、それをすれば彼女が目を覚ましてしまう。
観念して目を閉じた。
窓の外では夜風が木々を揺らし、さらさらと葉擦れの音が夜気に溶けていた。月明かりは薄い雲越しに差し込み、揺れる枝葉の影を淡く床へ映し出している。
穏やかな静寂の中、二人を包む夜はゆっくりと更けていった。




