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「誰がだっ!」
噛みつくように叫ぶ。
しかし周囲の女性たちは「まぁまぁ。仲がいいのね」と微笑ましそうに見守るだけだ。
(誰も助けてくれない。なぜだ。どうして全員この男の味方なの。孤立無援じゃない!)
絶望するレティシアをよそに、ヴィクトールはその手を取った。
指先へ軽く口づける。周囲から悲鳴にも似た声が上がった。
「行こう、愛しい人」
耳元へ落とされた声は、ぞっとするほど甘い。
「どこに?」
「屋敷に」
「は? なんでわたしが!」
「婚約者だからに決まっているだろう。おかしなことを言うやつだな」
「やだよ、行かないよ! まだ実験がっ」
ヴィクトールは聞こえなかったかのように歩き出した。
「ちょ、話を聞いて!?」
ずるずると引っ張られる。
「誰か! 誰か、助けてください!」
必死に助けを求めるが、返ってくるのは温かな祝福ばかりだった。
(なんて理不尽な……!)
二人は実験室を出て、長い石造りの廊下へ出た。
夕暮れの光が窓から差し込み、磨き上げられた床へ淡い影を落としている。広々とした廊下には人影ひとつない。
「帰らないよ! わたしは一流の魔術師になって、歴史に名を残し――」
言い切るより早く、轟音が響き渡った。
見るとヴィクトールの拳が、すぐ脇の石壁へめり込んでいた。
頑丈な壁が大きく陥没し、蜘蛛の巣状の亀裂が広がっている。ぱらぱらと石片が床へ落ちた。
「ひいいいいっ!」
ヴィクトールの表情は変わらない。
だが、その瞳だけはまったく笑っていなかった。
「行くよな?」
怒鳴られるよりも、淡々とした一言の方が恐ろしい。
レティシアの背筋を冷たいものが駆け抜ける。全身の毛穴が一斉に開き、心臓が鷲づかみにされた気がする。
「い、行きます! 行きます、今すぐ参ります!」
レティシアは猛烈な勢いで首を縦に振った。
二人は馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まるなり、ヴィクトールは当然のようにレティシアの手を握る。
(逃がさないようにかしら。用心深いわね)
「結婚式のドレスに婚約指輪。ああ、結婚指輪も必要だな。二人で暮らす屋敷も目星はついている。私の部屋の続きにレティシアの部屋があって、日当たりも抜群だ。これから忙しくなるぞ」
「……」
「レティ?」
名前を呼ばれ、レティシアは顔を上げた。
「わ、わたしは魔術師としてはまだ駆け出しだし、その、これから試験もあるし……だから、結婚なんてしてる暇は――」
言い終えるより早く、ヴィクトールの手が伸びた。
顎を軽くつかまれ、むに、と頬を潰される。
「ぶっ」
「結婚、するよな?」
レティシアは視線を逸らした。掴んだ顎を左右に振られる。
「おい、無視するな」
レティシアは両手でヴィクトールの胸を押すと、彼の肩に手を置いた。
「真面目な話! わたしたち、結婚どころかお付き合いもしていない」
「五つで出会って、もう二十一だ」
「知り合って長いことと、お付き合いしてることは別です」
「あの後、すぐに求婚した」
「断った」
「拒否する」
間髪入れずに言い切った。
「え、なに? 暴君なの?」
レティシアは黒縁眼鏡とマスクを外し、前髪をかき上げる。隠されていた整った卵型の輪郭と端麗な顔立ちが露わになった。
「ヴィルはお家を継ぐんでしょう? なおさら婚姻を気軽に決めちゃ駄目でしょ。侯爵家の次期当主が、わたしみたいな没落した男爵家の末娘を妻にしても得なんてない」
ヴィクトールはきょとんとした。
「前にも言っただろう。うちは代々、政略結婚はしない。心配するな、恋愛結婚だ」
(代々、貴族らしからぬことをしやがって……)
レティシアは拳を握って、声を荒げた。
「そうだとしても! ヴィルなら、わたしじゃなくても選び放題でしょう? 伯爵家のマリアンヌ様とか、侯爵家のイボンヌ様とか! なんなら第五王女殿下とか、第八王女殿下とか! 美人でお胸も大きくて、家柄も良くて教養もある美しい人たちがいっぱいいるじゃない! その中から選んでよ。乳のでっかい良家の娘さんを手に入れて、谷間に顔を埋めて幸せ噛みしめてなさいよ! わたしならそうする!」
ヴィクトールは黙ってレティシアを見つめた。
「妻にするのは、レティしか思い浮かばない」
「っ!?」
思わず息を呑む。
「だから、他の誰かを選ぶという選択肢が存在しない」
「……えっと、一応聞くけど、わたしに選択肢って」
「ない」
即答だった。
「おい、一片の迷いもなく言い切ったな? 少しは考えろ」
「悩む必要などない」
「あるよ! 大いにあるよ!」
レティシアはがくりと項垂れた。
理屈で説得できる相手ではない。魔術理論の討論ならまだ勝ち目もあるが、この男は本人なりの理屈を一本通したまま、こちらの逃げ道だけを次々と塞いでくる。
「でも、わたしは結婚したくないのよ」
誰かの妻になるつもりはない。
侯爵夫人として社交界を渡り歩き、家を守る。誰かに求められるまま役割を演じ続ける。
そんな未来を考えるだけで息苦しい。
自由でいたい。
好きなだけ魔法の研究に没頭して、興味を惹かれた術式を試し、思うままに実験を重ねたい。
結婚そのものが嫌なのではない。誰かの都合に縛られ、自分の生き方を失うことに嫌悪感があるのだ。
だからこそレティシアは、美しく整った容姿をあえて地味な服装や化粧で隠し、婚姻の申し入れから遠ざかってきた。
「なら、私でいいじゃないか」
「はい?」
「私は君を侯爵夫人らしく振る舞わせるつもりはない。研究も続ければいい。社交も最低限で構わない。今まで通り、好きにしろ」
あまりにも当然のように言われ、レティシアは言葉を失った。
(……それを言われると困る)
ヴィクトールなら、本当にそうするだろう。
魔法省へ通い続けようが、研究室へ籠もろうが構わない。実験に夢中になって夕食を忘れれば呆れはするが、やめろとは言わない。
「困る」
「なにが」
「条件が揃い過ぎてる」
「レティが持っていないものを私が持っている。私にないものはレティが持っている。それでいいじゃないか。私が嫌いか?」
レティシアは顔を上げた。
いつもなら弱音とは無縁の男だった。強引で自信家で、自分が正しいと思えば誰に何を言われようと突き進む。
そんなヴィクトールが今は、答えを待っている。ほんの微かに不安を滲ませたその表情に、レティシアの胸が痛んだ。
(もう……また、そういう顔して。ずるいんだから)
そんな顔をされたら、突き放せなくなる。
「……嫌いじゃない」
レティシアは窓枠に肘をつき、手の甲へ顎を乗せた。
五歳で出会った、あの頃から好意はあった。
けれど、ヴィクトールは国内有数の侯爵家の嫡男で、自分は没落した男爵家の末娘だ。
最初から住む世界が違う。
レティシアは馬車の窓の外へ目を向けた。
石畳に夕日が反射し、行き交う人々を淡く照らしている。広場では笛吹きの男が楽しげな旋律を奏で、音色に誘われた子供たちが笑いながら後ろをついて歩いていた。
少し先では、買い物帰りらしい女性が両腕いっぱいに荷物を抱え、家路を急いでいる。
そんなありふれた景色を見つめながら、レティシアは小さく息を吐いた。
「わたしと結婚したら、絶対に後悔するよ」
念を押すように言ったレティシアに、ヴィクトールは迷うことなく答えた。
「しないよ。後悔するとしたら、君と結婚しないことだ」
そこまで言い切られてしまえば、これ以上なにを言っても無駄なのだろう。
レティシアはヴィクトールの顔を見つめていたが、諦めて言った。
「……分かった。いいよ、結婚する」
「……」
返事がない。
あれだけ結婚したいと言っていたのだ。てっきり大喜びするものだと思っていたレティシアは、予想外の沈黙に怪訝そうな顔をした。
「え、返事は? なんで黙ってんの? やっぱり冗談だった? こいつからかっただけなのに本気にしてやがるぜって感じ? いつからそんなヤバい男に……うわぁ、信じられない」
勢いに任せて言う。
ヴィクトールは喜ぶことさえ忘れてしまったような顔で、ただレティシアを見つめている。
その表情を前にして、レティシアの口から続きの言葉が消えた。
「途中で逃げないよな?」
ヴィクトールの目には、ありありと疑いが浮かんでいた。
長年の実績がものを言っているらしい。
「覚えていろ。結婚前に逃げたらレティの実家に迎えに行って、玄関先に居座る。出てこなければ、首を括って死んでやる」
「重い重い重い! 発想が重すぎて怖い!」
レティシアは頭を抱えた。
(なんで自分が逃亡した未来を想像しただけで、実家の玄関先に居座って首を括るという結論になるの!? しかもこの男の場合、冗談で済ませそうにない)
身内の困り果てた顔がありありと浮かび、レティシアは額を押さえた。
そんな彼女を見て、ヴィクトールはようやく満足そうに笑った。
「私にそんな真似をさせたくなかったら、逃げるなよ」
「うるさいな、逃げないったら逃げないよ!」
結婚を承諾しただけなのに、なぜ最後に脅迫までされなくてはならないのか。
レティシアには、さっぱりわからなかった。




