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うっかり五年半失踪したら、夫の愛がさらに重くなっていました  作者: 市丸 七喜
■レティシア・ソレイユ・フォン・デマレという少女■

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2/20

✽

 レティシア・ソレイユ・フォン・デマレは、どこにでもいる目立たない少女だった。

 長く伸ばした銀色の前髪は顔の大半を覆い隠し、背中まで届く髪は後ろでひとまとめに結い上げられている。手入れこそ行き届いているものの、貴族令嬢らしい華やかさとは無縁で、見る者に野暮な印象を与える。

 鼻筋には黒縁の眼鏡を掛け、口元は漆黒のマスクで隠している。露わになっている顔の部分はわずかで、その素顔を知る者はほとんどいない。

 十二歳で魔法省に入省して以来、気がつけば五年もの歳月が流れていた。その大半を研究棟で過ごしてきたため、陽の光を浴びる機会は少なく、肌は雪を思わせるほど白い。

 社交界でも彼女の存在感は薄く、人々の記憶に残ることは稀だ。同年代の女性たちからは『行き遅れ』だの『研究馬鹿』だのと言われていた。


「な、なんなの……この嫌な予感は……ヤバい気がする」


 ぽつりと漏らした声は、自分でも驚くほどかすれていた。

 レティシアは作業机から手を離し、背もたれのない椅子から立ち上がった。

 胸の奥がざわついて、どうにも落ち着かない。理由は定かではないが、よくないことが起こりそうな気がした。

 こういう時の勘に限ってよく当たる。

 前髪の奥から覗く蜂蜜色の瞳を忙しなく動かした。

 隣の席では、ルネージュ・ダル・イシュラムが硝子玉へ魔力を注ぎ込む作業をしていた。レティシアの様子に気づき、手を止めて顔を上げる。


「なに、いきなりどうした」


 レティシアは両腕を抱いた。


「わからない……わからないけど、ここにいちゃいけない気がする」

「ああ、駄目だ。ものすごく嫌な感じがする」

「どうしよう……どうしよう」


 ルネージュは首筋を伸ばすと、頭を左右に倒した。

 レティシアと同年代の彼女は子爵家の令嬢だ。街で魔法を使っていたところを偶然、師団長ヴェルヘルムに発見され、彼の弟子となった。生まれ持った魔力量は他の団員を大きく上回っていたが、それに驕ることなく地道な鍛錬を積んでいる。


「落ち着いて。ここは師団長が結界を張っているから、申請した人じゃなきゃ入れないよ」

「申請した人の頭がおかしい場合は?」

「それは……」


 ルネージュが口ごもった。


「ああ、ダイジョバナイ。全然、ダイジョバナイ」


 レティシアは落ち着きなく辺りを見回した。


「そ、そうだ! 師団長に長期休暇をもらいに行こう! それでどこか、どこかとんでもなく遠くへ逃げよう!」


 突然そう言って、手近の荷物を布カバンへ詰め込む。

 その剣幕に、ルネージュは口を閉ざした。

 向かいの机に座っていたマルティム・アフターは書類の山から顔を上げ、レティシアとルネージュを交互に見た。


「どうしたの。うるさいわよ」

「せ、先輩、わたし、一身上の都合により、これから旅に」


 荷物をまとめ終え、そのまま窓から飛び出そうとしたレティシアは、首根っこを掴まれた。


「どこに行くつもりだ?」


 背後から落ちてきた低い声に、レティシアの動きがぴたりと止まる。


(こ、この声は……まさか)


 息を呑み、恐る恐る振り返る。

 視界に飛び込んできた人物を見た瞬間、全身から血の気が引いた。


「ぎゃー! 出たー!」


 悲鳴が口をつく。

 振り返った先にいたのは、ヴィクトール・イル・クレイモンだった。

 百八十センチを超える長身に、騎士団長として鍛え上げられた屈強な体躯。侯爵家次期当主としての揺るぎない威厳をまとい、ただ立っているだけで周囲を圧倒している。

 端正な眉。まっすぐな鼻筋。澄んだ琥珀色の瞳。端麗な顔立ちの持ち主であることは間違いないが、今のレティシアには、自分を処刑台へ連行する死刑執行人にしか見えなかった。


「婚約者に対して、ずいぶんな態度だな」


 ヴィクトールが片眉を持ち上げる。


「は? 婚約者? 嫌なこと言わないで! わたしは誰とも婚約なんてしてない!」


 ヴィクトールと出会ったのは、彼の両親が所有する避暑用の別荘だった。

 ヴィクトールの両親とレティシアの両親が仕事の話をしている間、退屈したレティシアは一人で庭を散歩していた。

 そのとき、風に混じるように魔物の気配を感じた。

 違和感を覚えたレティシアは、ためらわず森の奥へ足を向けた。そこで目にしたのは、魔物に追い詰められたヴィクトールの姿だった。

 レティシアは迷うことなく飛び出し、魔法を放って魔物を撃退した。

 それで付き合いは終わると思っていた。

 ところが翌日から、ヴィクトールは「僕はレティと結婚する」と言い始めた。

 もちろん全力で拒否した。

 恩返しをされるほどのことではない。忘れてくれてかまわない。むしろ忘れろと思っていた。

 しかしヴィクトールは驚くほど頑固だった。一度決めたことを曲げない性格は、年齢を重ねるにつれてますます磨きがかかっている。

 ヴィクトールが無言で一歩前へ出た。


(ひいいっ、近づいた!)


 レティシアも条件反射のように一歩下がる。その視線が彼女の足元へ落ちた。


「ちょ、近っ……近づかないで!」


 レティシアは半歩飛び退いた。


「あっち行って! こ、ここここここ怖くなんてないけど、あっち行って!」


 震える膝も、引きつった声も、まるで説得力がない。


「震えてるぞ。説得力がないな」

「う、うるさい!」


 さらに一歩後ずさる。

 ヴィクトールは止まらない。


「ひいっ」


 情けない悲鳴が漏れた。


(近い、近い近い近い……!)


 視界いっぱいに整った顔が迫る。本能的に逃げようと身を引くと、ヴィクトールの腕がするりと腰へ回った。そのまま引き寄せられ、背中が硬い胸に触れる。


「――っ」


 互いの体温さえ分かる距離に、レティシアは声も出せずに固まった。

 ヴィクトールが身を屈める。


「大人しくしろ」


 低く落ち着いた声が鼓膜を震わせた。


「人前でひんむかれて、抱かれたいのか?」


 意味を理解できなかった。


(な、な、なに言ってるの、この人!? 信じられない!)


 脳が状況を把握した途端、顔に熱が集まる。


「レティが誰のものなのか、宣言してやろうか。面倒な噂を立てられるだろうが、私は気にしないぞ」


 抗議しようと口を開くが、動揺しすぎて声にならない。

 ちょうどそのとき、廊下の向こうから数人の同僚たちが談笑しながら歩いてきた。


(まずい……!)


 腰を抱かれて、ほとんど密着している。

 レティシアが慌ててヴィクトールの腕を掴んだところで、同僚たちがこちらに気づいた。


「……あら?」

「こんにちは、隊長さん」

「お嬢様方、ご機嫌麗しゅう」


 ヴィクトールは即座に柔らかな微笑みを浮かべた。

 背筋を伸ばした立ち姿も、洗練された所作も非の打ち所がない。穏やかな笑みを浮かべる姿は、まさに理想的な貴公子そのものだ。

 つい先ほどまで脅迫まがいの言葉を平然と口にしていた男と、同一人物とは思えない。


「忙しそうですね。お仕事は順調ですか?」

「はい、おかげさまで!」

「ありがとうございます」


 隊員たちは嬉しそうに頬を染めた。


(騙されてる! みんな完全に騙されてるよ!)


 レティシアはぎりっと奥歯を噛み締めた。


(確かに顔はいい。腹が立つくらい格好いい。地位もあるし実力もあるし、人当たりだって完璧。でも、腹黒なのよ! とんでもなく黒いんだから!)


 抗議の意味を込めて、腰に回された腕を拳で何度も叩く。


(外れない! 離しなさいったら、この人攫い!)


 肘で小突こうとしても、さらりと躱される。


「今日はどうなさったんですか?」


 同僚のひとりが尋ねた。


「アスターズ家との婚約が正式に整いましたので、レティシアを迎えに参りました」


 ヴィクトールがにこやかに答え、そのままレティシアを引き寄せる。


(ちょっと待て。本人より先に職場へ発表するな!)


 同僚たちの視線が一斉に突き刺さった。


「ね、愛しいひと」

「誰が――」


 否定しようとするレティシアの顔を自分の胸に押し当てる。


「まぁ!」

「そうだったんですね!」

「おめでとうございます!」


 待っていましたと言わんばかりに歓声が上がる。


「レティシア、あなた地味だし貧乏なんだから、素直に結婚してもらいなさいな。あなたの人生で、これ以上の殿方なんて現れませんわよ?」

「本当ですわ! むしろ、わたくしが代わっていただきたいくらいよ!」

「よかったわね、レティシア!」

「おめでとう!」


(おめでたくないです!!)


 心の叫びは誰にも届かない。レティシアは手のひらに魔力を集めた。


(くそ、これでも食らえ!)


 ぱちり、と青白い光が弾ける。

 ヴィクトールへ向けて放つが、彼は慣れた様子で身をひねり、あっさりと回避した。


「なっ……!」


 追撃するより早く肩を抱き寄せられる。

 ――ぎゅう。

 どう考えても愛情表現ではない。

 逃亡防止措置だった。


「照れているんです」

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