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レティシア・ソレイユ・フォン・デマレは、どこにでもいる目立たない少女だった。
長く伸ばした銀色の前髪は顔の大半を覆い隠し、背中まで届く髪は後ろでひとまとめに結い上げられている。手入れこそ行き届いているものの、貴族令嬢らしい華やかさとは無縁で、見る者に野暮な印象を与える。
鼻筋には黒縁の眼鏡を掛け、口元は漆黒のマスクで隠している。露わになっている顔の部分はわずかで、その素顔を知る者はほとんどいない。
十二歳で魔法省に入省して以来、気がつけば五年もの歳月が流れていた。その大半を研究棟で過ごしてきたため、陽の光を浴びる機会は少なく、肌は雪を思わせるほど白い。
社交界でも彼女の存在感は薄く、人々の記憶に残ることは稀だ。同年代の女性たちからは『行き遅れ』だの『研究馬鹿』だのと言われていた。
「な、なんなの……この嫌な予感は……ヤバい気がする」
ぽつりと漏らした声は、自分でも驚くほどかすれていた。
レティシアは作業机から手を離し、背もたれのない椅子から立ち上がった。
胸の奥がざわついて、どうにも落ち着かない。理由は定かではないが、よくないことが起こりそうな気がした。
こういう時の勘に限ってよく当たる。
前髪の奥から覗く蜂蜜色の瞳を忙しなく動かした。
隣の席では、ルネージュ・ダル・イシュラムが硝子玉へ魔力を注ぎ込む作業をしていた。レティシアの様子に気づき、手を止めて顔を上げる。
「なに、いきなりどうした」
レティシアは両腕を抱いた。
「わからない……わからないけど、ここにいちゃいけない気がする」
「ああ、駄目だ。ものすごく嫌な感じがする」
「どうしよう……どうしよう」
ルネージュは首筋を伸ばすと、頭を左右に倒した。
レティシアと同年代の彼女は子爵家の令嬢だ。街で魔法を使っていたところを偶然、師団長ヴェルヘルムに発見され、彼の弟子となった。生まれ持った魔力量は他の団員を大きく上回っていたが、それに驕ることなく地道な鍛錬を積んでいる。
「落ち着いて。ここは師団長が結界を張っているから、申請した人じゃなきゃ入れないよ」
「申請した人の頭がおかしい場合は?」
「それは……」
ルネージュが口ごもった。
「ああ、ダイジョバナイ。全然、ダイジョバナイ」
レティシアは落ち着きなく辺りを見回した。
「そ、そうだ! 師団長に長期休暇をもらいに行こう! それでどこか、どこかとんでもなく遠くへ逃げよう!」
突然そう言って、手近の荷物を布カバンへ詰め込む。
その剣幕に、ルネージュは口を閉ざした。
向かいの机に座っていたマルティム・アフターは書類の山から顔を上げ、レティシアとルネージュを交互に見た。
「どうしたの。うるさいわよ」
「せ、先輩、わたし、一身上の都合により、これから旅に」
荷物をまとめ終え、そのまま窓から飛び出そうとしたレティシアは、首根っこを掴まれた。
「どこに行くつもりだ?」
背後から落ちてきた低い声に、レティシアの動きがぴたりと止まる。
(こ、この声は……まさか)
息を呑み、恐る恐る振り返る。
視界に飛び込んできた人物を見た瞬間、全身から血の気が引いた。
「ぎゃー! 出たー!」
悲鳴が口をつく。
振り返った先にいたのは、ヴィクトール・イル・クレイモンだった。
百八十センチを超える長身に、騎士団長として鍛え上げられた屈強な体躯。侯爵家次期当主としての揺るぎない威厳をまとい、ただ立っているだけで周囲を圧倒している。
端正な眉。まっすぐな鼻筋。澄んだ琥珀色の瞳。端麗な顔立ちの持ち主であることは間違いないが、今のレティシアには、自分を処刑台へ連行する死刑執行人にしか見えなかった。
「婚約者に対して、ずいぶんな態度だな」
ヴィクトールが片眉を持ち上げる。
「は? 婚約者? 嫌なこと言わないで! わたしは誰とも婚約なんてしてない!」
ヴィクトールと出会ったのは、彼の両親が所有する避暑用の別荘だった。
ヴィクトールの両親とレティシアの両親が仕事の話をしている間、退屈したレティシアは一人で庭を散歩していた。
そのとき、風に混じるように魔物の気配を感じた。
違和感を覚えたレティシアは、ためらわず森の奥へ足を向けた。そこで目にしたのは、魔物に追い詰められたヴィクトールの姿だった。
レティシアは迷うことなく飛び出し、魔法を放って魔物を撃退した。
それで付き合いは終わると思っていた。
ところが翌日から、ヴィクトールは「僕はレティと結婚する」と言い始めた。
もちろん全力で拒否した。
恩返しをされるほどのことではない。忘れてくれてかまわない。むしろ忘れろと思っていた。
しかしヴィクトールは驚くほど頑固だった。一度決めたことを曲げない性格は、年齢を重ねるにつれてますます磨きがかかっている。
ヴィクトールが無言で一歩前へ出た。
(ひいいっ、近づいた!)
レティシアも条件反射のように一歩下がる。その視線が彼女の足元へ落ちた。
「ちょ、近っ……近づかないで!」
レティシアは半歩飛び退いた。
「あっち行って! こ、ここここここ怖くなんてないけど、あっち行って!」
震える膝も、引きつった声も、まるで説得力がない。
「震えてるぞ。説得力がないな」
「う、うるさい!」
さらに一歩後ずさる。
ヴィクトールは止まらない。
「ひいっ」
情けない悲鳴が漏れた。
(近い、近い近い近い……!)
視界いっぱいに整った顔が迫る。本能的に逃げようと身を引くと、ヴィクトールの腕がするりと腰へ回った。そのまま引き寄せられ、背中が硬い胸に触れる。
「――っ」
互いの体温さえ分かる距離に、レティシアは声も出せずに固まった。
ヴィクトールが身を屈める。
「大人しくしろ」
低く落ち着いた声が鼓膜を震わせた。
「人前でひんむかれて、抱かれたいのか?」
意味を理解できなかった。
(な、な、なに言ってるの、この人!? 信じられない!)
脳が状況を把握した途端、顔に熱が集まる。
「レティが誰のものなのか、宣言してやろうか。面倒な噂を立てられるだろうが、私は気にしないぞ」
抗議しようと口を開くが、動揺しすぎて声にならない。
ちょうどそのとき、廊下の向こうから数人の同僚たちが談笑しながら歩いてきた。
(まずい……!)
腰を抱かれて、ほとんど密着している。
レティシアが慌ててヴィクトールの腕を掴んだところで、同僚たちがこちらに気づいた。
「……あら?」
「こんにちは、隊長さん」
「お嬢様方、ご機嫌麗しゅう」
ヴィクトールは即座に柔らかな微笑みを浮かべた。
背筋を伸ばした立ち姿も、洗練された所作も非の打ち所がない。穏やかな笑みを浮かべる姿は、まさに理想的な貴公子そのものだ。
つい先ほどまで脅迫まがいの言葉を平然と口にしていた男と、同一人物とは思えない。
「忙しそうですね。お仕事は順調ですか?」
「はい、おかげさまで!」
「ありがとうございます」
隊員たちは嬉しそうに頬を染めた。
(騙されてる! みんな完全に騙されてるよ!)
レティシアはぎりっと奥歯を噛み締めた。
(確かに顔はいい。腹が立つくらい格好いい。地位もあるし実力もあるし、人当たりだって完璧。でも、腹黒なのよ! とんでもなく黒いんだから!)
抗議の意味を込めて、腰に回された腕を拳で何度も叩く。
(外れない! 離しなさいったら、この人攫い!)
肘で小突こうとしても、さらりと躱される。
「今日はどうなさったんですか?」
同僚のひとりが尋ねた。
「アスターズ家との婚約が正式に整いましたので、レティシアを迎えに参りました」
ヴィクトールがにこやかに答え、そのままレティシアを引き寄せる。
(ちょっと待て。本人より先に職場へ発表するな!)
同僚たちの視線が一斉に突き刺さった。
「ね、愛しいひと」
「誰が――」
否定しようとするレティシアの顔を自分の胸に押し当てる。
「まぁ!」
「そうだったんですね!」
「おめでとうございます!」
待っていましたと言わんばかりに歓声が上がる。
「レティシア、あなた地味だし貧乏なんだから、素直に結婚してもらいなさいな。あなたの人生で、これ以上の殿方なんて現れませんわよ?」
「本当ですわ! むしろ、わたくしが代わっていただきたいくらいよ!」
「よかったわね、レティシア!」
「おめでとう!」
(おめでたくないです!!)
心の叫びは誰にも届かない。レティシアは手のひらに魔力を集めた。
(くそ、これでも食らえ!)
ぱちり、と青白い光が弾ける。
ヴィクトールへ向けて放つが、彼は慣れた様子で身をひねり、あっさりと回避した。
「なっ……!」
追撃するより早く肩を抱き寄せられる。
――ぎゅう。
どう考えても愛情表現ではない。
逃亡防止措置だった。
「照れているんです」




