✽
ヴィクトールは迷っていた。
花壇で見つけた珍しい蝶を追いかけているうちに、いつの間にか人の姿が見えない場所まで来てしまった。
辺りには背の高い木々が立ち並び、枝葉が空を覆っている。木漏れ日がまだらに落ちる森の中は昼間だというのに薄暗く、さっきまで聞こえていた人々の話し声も届かない。
来た道を戻ろうとしても、同じ景色ばかりが続いている。曲がった木、苔むした岩、絡み合う蔦。目印になりそうなものは何ひとつない。
じわじわと不安が広がっていく。
侯爵家の敷地は広い。
だからこそ、庭から離れてはいけないと何度も言われていた。
ヴィクトールは立ち止まり、震える息を吐いた。周囲を見回しても、どちらへ行けば帰れるのかさえわからない。
その時、茂みの奥から低い唸り声が響いた。
「……グルルルル」
ヴィクトールは喉をひゅっと鳴らした。
全身が強張り、足がその場に縫い付けられたように動かなくなる。
心臓がどくどくと脈打ち、耳の奥で鳴り響く鼓動がうるさい。恐る恐る振り返ったヴィクトールは息を呑んだ。
そこにいたのは狼に似た魔物だった。体は馬ほども大きく、黒い毛並みの隙間からは硬そうな鱗が覗いている。額には湾曲した二本の角が生え、血のように赤い瞳がぎらりと光っていた。
獲物を見つけた捕食者のような目を前に、全身から力が抜ける。
逃げなければならないのに、足が動かない。
魔物は唸りながら一歩、また一歩と近づいてくる。地面を踏みしめるたびに草が揺れ、振動が足元から伝わってきた。
牙の隙間から覗く唾液が、細い糸を引く。
「た、たすけて……」
喉がひりつき、声にならない声が漏れた。
魔物が獰猛な牙を剥き出しにして大きく前脚を踏み込んだ。ヴィクトールの顔から血の気が引く。
死ぬ。
その言葉が幼い彼の脳裏に浮かんだとき、金色のまばゆい光が森の奥で弾けた。
木々の隙間から射し込む陽光とは比べ物にならないほど強烈な輝きが一直線に走り、空気を切り裂くような音とともに魔物の胸を貫く。
「ギャアアアアッ!」
獣の絶叫が森に木霊した。
一撃を受けた巨体が大きく揺らぎ、数歩よろめきながら後退する。その隙を突くように、人影が木々の間から飛び出してきた。
「じっとしてて!」
澄みきった声だった。
ヴィクトールの前へ躍り出たのは、一人の少女だった。
月光を紡いだような銀髪が風を受けて揺れ、宝石を思わせる瞳は油断なく魔物を見据えている。自分とそう年の変わらないはずなのに、その横顔には恐怖の色が欠片もない。
少女は当然のように、ヴィクトールを背に庇うように立つ。
その小さな背中は頼りなく見えてもおかしくないのに、不思議なほど大きく、力強く見えた。
「大丈夫。もう平気だから」
肩越しに振り返った少女が柔らかく微笑む。恐怖に震えていた心が少しだけ落ち着いた。
少女はすぐに表情を引き締めると、再び魔物へ向き直った。
掲げられた指先から光が溢れ出し、糸を紡ぐように空中を走り始める。
一本、また一本と増えていく光の線は複雑に絡み合い、空中に巨大で精緻な魔法陣を描き出していった。




