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研究室には、薬品特有の匂いが漂っていた。
壁際の棚には色とりどりの薬瓶が所狭しと並び、作業台の上には書きかけのメモや試験管、細々とした器具が散らばっている。普段なら片づけにはうるさいレティシアだが、研究に没頭している最中ばかりは例外らしい。
その雑然とした作業台の中央で、レティシアは小さなビーカーを手に、真剣な表情を浮かべていた。
淡い青色の液体を光にかざし、角度を変えながらじっと観察する。ほんのわずかな色の変化も見逃すまいと目を細めるその顔は、傍から見ればひどく険しい。
だが、本人はいたって上機嫌だった。
どうやら、思いどおりの結果が出つつあるらしい。
時折メモへ視線を落としては何かを書き込み、またビーカーを持ち上げ魔力を注ぐ。その繰り返しに夢中で、周囲の物音などまるで耳に入っていない。
そんな彼女の背後で、研究室の扉が開いた。
入ってきたのはヴィクトールだった。
扉を閉め、室内を見渡す。そして案の定、自分の存在など微塵も気づいていない妻の姿を見つけると、呆れたように苦笑した。
呼びかけようとして、やめる。
どうせ普通に声を掛けたところで返事はない。
ヴィクトールは足音を忍ばせるでもなく、彼女の背後まで歩み寄った。
(まだ気づいてないのか?)
そこまで夢中になれるのも大したものだと感心しつつ、ヴィクトールはその細い体を背後から抱き締めた。
「レティ」
腰に手を回し、耳元で甘く名前を呼ぶ。
しかし、反応はない。
レティシアはヴィクトールの腕の中にすっぽり収まりながらも、視線をビーカーに向けたまま微動だにしなかった。
ヴィクトールの眉がぴくりと動く。
「…………おい」
無視だ。いや、正確には無視ですらない。おそらく自分が抱き締めていることにも気づいていない。
試しに腕へ少し力を込め、さらに自分のほうへ抱き寄せてみる。レティシアの背がぴたりと胸に触れたが、彼女はビーカーをじっと見つめたままだ。
ヴィクトールはむっと唇を引き結ぶと、レティシアの手からそっとビーカーを取り上げた。
「あ」
そこでようやく、レティシアが反応した。
(それまで完璧に俺を無視していたくせに、ビーカーが手から消えた途端にこれか?)
なんとも納得がいかない。
ヴィクトールは取り上げたビーカーを作業台の奥、安全な位置へ置いた。
レティシアの視線が、名残惜しそうにその行方を追う。
伸ばしかけた彼女の手を遮るように、ヴィクトールはその体へ腕を回した。彼女が「わぁ!」と驚きの声を上げた。
「びっくりした!」
ひょい、とレティシアの体が宙に浮く。
「いつからいたの?」
ヴィクトールの眉間にうっすらと皺が寄る。
「抱き締めているのに気づかないなんてことあるのか?」
レティシアはヴィクトールに抱き上げられたまま、困ったように眉を下げた。
「ごめん、集中してて」
彼女の視線は早くもヴィクトールから逸れ、作業台へと戻っていく。
「なんの実験をしていたんだ?」
「んー、ちょっとね。捕獲液を作ってたの」
正確には、魔物の捕獲液だ。
魔物の臭いが残る場所に散布しておけば、それに引き寄せられた魔物を自動的に捕らえてくれる。まだ試作段階ではあるものの、うまくいけば危険な魔物を追い回す手間が大幅に減るはずだ。
「何を捕獲するんだ?」
「色々よ、色々」
ヴィクトールに詳しく説明するつもりはない。
知れば、危険だのなんだのと口煩くなる。
レティシアは曖昧に誤魔化しながら、作業台の上に置かれたビーカーへ未練がましい視線を送った。淡い青色の液体は、実験を中断される直前と変わらない。
「もう下ろして」
ヴィクトールの腕の中から身を乗り出し、床を顎で示す。
その仕草には、夫に抱き上げられていることへの照れも戸惑いもない。ただひたすら、早く実験に戻りたいという意思だけがあった。
どうやら彼女にとっては、夫に抱き締められていたことよりも、中断された実験のほうがよほど重大らしい。
ヴィクトールは無言でレティシアを見下ろした。
(面白くない。絶対、下ろさない)
彼女がもう一度ビーカーへ視線を向けると、抱く腕に力がこもった。
ヴィクトールの機嫌が、さらに一段階悪くなった。
「そろそろ食事の時間だ」
「終わったら行く。先に食べてて」
ヴィクトールに先に食べてもらって、自分は実験を終えてから食堂へ向かう。それだけのつもりだったが、ヴィクトールは違った。
こめかみにうっすらと青筋を浮かべながら、にっこりと微笑んだ。
「は?」
「こっわ。超睨んでる」
笑顔なのに、ちっとも笑っていない。
「いい加減にしないと、お仕置きするぞ」
さすがのレティシアも少しだけ居心地が悪くなり、そっと視線を逸らした。とはいえ、そこで素直に
「分かった」と言えない。ちらりと作業台を窺う。
あと少し。本当にあと少しなのだ。
「……だから、もうちょっとだけ。すぐに終わるから」
宥めるように言ってみたものの、ヴィクトールの表情は変わらない。
むしろ、何かを思い出したように目を細めた。
「食事の席で聞こうと思った。王女殿下のところでレッドキャップを捕まえたんだって?」
「うわ、早っ!」
思わず素の声が出た。
ついさっきのことなのに、もう知られている。
いったいどこから、と目を丸くするレティシアに、ヴィクトールは呆れたような顔をした。
「私を誰だと思っているんだ?」
その言葉に、レティシアはぱちりと瞬きをする。
(あ、そうだ。ただの偏執者だと思ってたけど、この人騎士団長だった)
執拗に付きまとっている偏執者としてのヴィクトールがすっかり馴染みすぎて、ときどき忘れそうになるが、彼は騎士団を束ねる立場の人間だ。魔物が絡んだ騒ぎなら、耳に入っていても何ら不思議ではない。
なるほど、とレティシアはひとり納得した。
そして、それで終わった。反省するでもなく、取り繕うでもない。
悪びれる様子はまったくない。
「心配するとは思わなかったのか?」
短い一言だったが、その重みは十分すぎるほど伝わった。
「……なんだ、その不思議そうな顔は」
「心配」
レティシアは意味がわからず、ただ黙った。
言葉の意味なら知っている。
けれど、それが自分に向けられると、途端によくわからなくなった。
「わたしを?」
「心配するだろう。五年半も離れていたんだぞ? レティにとってはたったの五日半かもしれないが、私は五年半も捜し続けていたんだ。君は自分がどれだけ無茶をしているか、全然理解していない」
責める言葉なのに、どこか弱々しい。
レティシアは少しだけ申し訳なくなり、おずおずと彼の背中に腕を回した。
「ごめんなさい。それは、反省してる」
ヴィクトールは彼女の肩口に顔を埋め、小さく吐息を漏らした。
「いっそ鎖で縛って、部屋に拘束してやろうか」
低く唸るような声に、レティシアは身を縮こませた。
ヴィクトールは彼女を肩に担ぎ直し、実験室隣の休憩室に運んだ。
視界は逆さまで、揺れるたびに髪が垂れ下がり、なんとも居心地が悪い。そのまま休憩室へ入ると、ヴィクトールは無造作にレティシアを小ぶりの寝台へ放り投げた。柔らかな寝具が衝撃を吸収したものの、レティシアは顔をしかめる。
「妻を投げるなんて、ひどい」
レティシアは体を後ろに倒し、唇を尖らせる。ヴィクトールは鼻で笑った。
「ひどいのはどっちだ」
ヴィクトールは腕を組んだまま寝台の脇に立ち、黙って彼女を見下ろしていた。その眼差しには責める色よりも、深い傷を負った者の苦しみが宿っている。
「俺がどれだけ胸を痛めたか」
「ごめんなさい」
レティシアはそっと両腕を伸ばしたが、ヴィクトールは動かなかった。諦めたように、その身を彼女へ預けた。
柔らかく細い腕が彼を包み込む。
ヴィクトールは彼女の胸の谷間に顔を埋めた。
「レッドキャップのことで、緊急会議が開かれた。各所に張られている結界に何か問題が起きているんじゃないかって、今はその話でもちきりだ」
レティシアの説明を聞きながら、ヴィクトールは眉を寄せた。
「でも、今回は結界が破られたわけじゃない。内側にいる人間が勧誘されて、手引きしたの。見つけ出せたのは一匹だけだけど、ほかにもゴブリンが潜んでるかもしれない。師匠から、ラビエラ先輩と一緒に調査するよう命じられた。だから明日から、ちょっと忙しくなる」
最後まで聞いた途端、ヴィクトールが露骨に舌打ちした。
「ラビエラ……またあいつか」
嫌そうな声だった。
レティシアは呆れて、顔を上げる。
「敵視しないで。先輩なのよ」
「いや、あいつは君に惚れてる。私には分かる」
断言しながら、ヴィクトールはレティシアを抱く腕にぐっと力を込めた。いったい何を根拠にそんな自信満々に言い切るのか。
「またそれ」
レティシアはため息をついた。
「ねぇ、ヴィル。わたしはこれまでずっと黒縁眼鏡をかけて、マスクで顔を隠していたのよ。いくら仲良くしてたからって、顔も見せない相手に好意を持つ? 持たないでしょ」
「だが」
「それに、たとえ素顔でいたって、ラビエラ先輩はわたしに好意なんて持たない」
きっぱりと断言する。
ヴィクトールは瞬きもせずレティシアの顔を正面から見つめた。
青い瞳が、じっとこちらを見ている。
(……めちゃ睨んでますやん)
ヴィクトールは確かめるように、顔を近づけてきた。一センチ、二センチと、じわじわ距離が縮まってくる。
鼻先が触れそうになったところで、レティシアはたまらず身を引いた。
「近い近い」
そう言って頬を押し返しても、ヴィクトールの視線はまだレティシアの顔に釘づけだった。押された分だけ顔は離れたものの、納得した様子はまるでない。
「根拠は?」
「ないけど、そういうものなの!」
勢いで押し切ると、ヴィクトールの眉間にますます深い皺が刻まれた。
そんな顔をされても困る。自分に惚れる男がいるはずだと、いったいどうやって証明しろというのか。
(そういえば……)
ビトルに、ヴィクトールへ愛していると言ったことはないのかと聞かれたとき、恥ずかしいと言った。正直、口にしなくたって態度で分かる、と思っていた。
ヴィクトールが不安になるたび、自分は笑って不安を押し流した。半ば、彼の嫉妬に呆れていた。だが、自分の気持ちをきちんと言葉にして、安心させたことはあっただろうか。
(たぶん、さらっと一度くらいは――)
これまでのことが脳裏に浮かぶ。
(うん、言ってないな)
思い返すと、居心地が悪くなった。
言葉は大事だ。どれほど想っていても、言わなければ伝わらない。
(これって、伝えるいい機会じゃない? よ、よし! 言うぞ、言っちゃうぞ。言っちゃうんだからね! 緊張なんてしてない、わたしは大丈夫。やれる、やれるはずだ!)
レティシアは意を決して、口を開いた。
「あ、あのね」
ヴィクトールが怪訝そうな顔をする。
さっきはあれほど近づくなと思ったのに、今度は自分から近づいてしまった。
「ヴィル」
名前を呼ぶ声が、情けないほど震えた。
ヴィクトールが目に力を込める。
「なんだ。嫌な話なら聞かない」
「嫌な話、前提だと決めつけないで」
反射的に言い返しかけて、ぐっと堪えた。今はそこじゃない。
「ずっと前から言おうと思っていたんだけど」
「……うん」
声のトーンが下がった。
明らかに警戒している。レティシアは一度、ぎゅっと唇を結んだ。
(ここまできて逃げるわけにはいかない)
覚悟を決め、まっすぐにヴィクトールの目を見る。
喉がひどく乾いていた。たった一言なのに、どうしてこんなに勇気がいるのか。
胸の奥で暴れる心臓を押さえつけるように息を吸い、思い切って口を開いた。
「ヴィルのこと、愛してるからね」
言った途端、顔が燃えるように熱くなった。
(ぎゃあ! 言った、言ってしまった! わぁ、恥ずかしい!)
さっきまであんなに勇ましくヴィクトールを説得していた自分は、いったいどこへ行ったのか。レティシアはたまらず視線を逸らした。
呼吸が浅くなる。ヴィクトールの頭に添えた指先も、緊張でかすかに震えていた。
けれど、いつまで経っても返事がない。
(……ん?)
おそるおそる目だけを上げる。
静かだった。
あまりにも静かで、世界中から音という音が一切消えてしまったようだった。衣擦れの音すら聞こえない。ヴィクトールは何も言わない。
(え。ちょっと待って)
想像していた反応と違う。一秒ごとに、いたたまれなさが増していく。
(もしかして聞こえなかった? まさか、もう一回言わなきゃいけないの?)
さすがに沈黙に耐えきれなくなって、レティシアはヴィクトールの顔を覗き込んだ。
「ヴィ……ヴィル?」
呼びかける声は、告白したときよりも頼りない。
自分から想いを告げたくせに、反応されるのが怖くなった。
ヴィクトールは何も言わなかった。その表情からは感情が何ひとつ読み取れない。
(え。なに、その顔。怖いんだけど。なんでもいいから、言って!)
たまらずレティシアが視線を泳がせた。ヴィクトールの両手が伸び、逃がさないとでもいうように彼女の頬を包み込む。
「え?」
間の抜けた声を上げる暇もなかった。
ヴィクトールの顔が近づき、レティシアは目を見開いた。
「んんっ?」
突然のことに頭が真っ白になる。
何が起きたのか理解するより先に、心臓が壊れそうなほど大きく跳ねた。ものすごい速さで打っている。耳元でまで音が聞こえてうるさい。
(これだけ近いと、ヴィルにも聞こえているんじゃないかしら)
彼の唇が、自らの唇に振れた。舌先で閉じていた口をこじ開けられる。ぬるりとした感覚が、ぞわぞわと背筋を這い上がった。
息ができない。
焦った彼女は空気を求めて口を開いた。すかさずヴィクトールの唇が重なる。
長い、長い口づけだった。
ようやく解放されたころには、レティシアからすっかり力が抜けていた。
彼は笑っていた。これまでレティシアが見たこともないほど、嬉しそうな笑みだ。いつもは落ち着き払っている男が、今にも飛び上がりそうなほど全身で喜びをあらわにしている。
(そんなに嬉しかったの?)
自分が言ったたった一言が、これほどヴィクトールを喜ばせるとは思っていなかった。
ヴィクトールは身を起こすと、レティシアの腰に腕を回し、彼女の体も起こした。二人分の重みが動いて、寝台がぎしりと軋む。
「レティ、私もレティを愛している!」
屋敷中に響き渡るのではないかと思うほどの大声で言う。
歓喜の叫びだった。
「お、おう……」
あまりの勢いに、なんとも間の抜けた声が出た。
対するヴィクトールはまったく気にした様子もなく、腹の底から楽しそうに笑っていた。
(こんなに浮かれているなんて。この人、こんなに喜ぶ人だったんだ……)
長い付き合いのはずなのに、知らない一面を見せられた気分だ。
「レティ」
「な、なに?」
「レティ」
「聞いてるってば。なに?」
ヴィクトールは満面の笑みを浮かべた。
(なぜ二回呼ぶ)
レティシアは首を傾げた。
「もう一度言ってくれ」
レティシアは固まった。
(一回言ったのに!?)
先ほどだって、ありったけの勇気を総動員した。勢いとその他諸々の奇跡が重なった結果、ようやく口にできた。
(すごい。言いたくない)
嫌いだからではない。むしろ逆だから困っている。
一度口にしただけで恥ずかしさに悶えそうなのに、今度は真正面から目を見て言えというのか。
(やだ。無理)
至近距離で、ヴィクトールがレティシアを見つめている。
その目は期待を隠そうともせず、きらきらと輝いていた。
そんな顔で見つめられると、逃げ出したくなるほど恥ずかしい。けれど、ここで誤魔化すわけにはいかない。
観念したレティシアは肩をすくめた。
「恥ずかしがって、ずっと言わないでいてごめん。わたしはヴィルが大好きよ。昔から、ずっとずっと大好きだった。結婚してくれてすごく嬉しいし、これからも一緒に生きて行きたいと思ってる。ヴィル、大好きよ。心から愛してる」
ヴィクトールの目が大きく見開かれた。
次いで、顔いっぱいに喜びが広がる。
「ああ、私もだ! 私もレティを愛している!」
弾けるような声とともに、ヴィクトールはレティシアを抱き締めた。
レティシアが何か言う間もなく、彼は嬉しそうに笑う。
「初めてだな」
レティシアは顔を上げた。
「初めて、レティが私のことを愛していると言葉にしてくれた」
言われて、レティシアは口を閉ざした。
ヴィクトールはもう一度、確かめるようにレティシアを抱き締めた。
「嬉しくて、死んでしまいそうだ」
たった一言。
自分がずっと恥ずかしくて、怖くて、口にできなかった一言が、この人にとってはそれほど大切だったのか。
そう思った途端、今さら猛烈に恥ずかしくなった。
レティシアはなんとも言えない面映ゆさに耐えきれず、ヴィクトールの胸元へ顔を伏せた。
(顔が熱い。きっと耳まで赤くなってるわね)
それでも今度は、逃げようとは思わなかった。




