■働く下っ端■
翌週、レティシアは魔法省の一室を訪れていた。
扉を軽く叩いてから開けると、まず目に飛び込んできたのは、机の上にうずたかく積まれた書類の山だった。その向こうから、紙をめくる音が聞こえてくる。
(相変わらず、とんでもない量ね)
呆れ半分に眺めていると、書類の山に埋もれるようにして仕事をしていた男が、ふと顔を上げた。
「先輩」
「……レティ?」
ラビエラは信じられないものでも見たように、その顔がぱっと明るくなる。
「レティ!」
ラビエラは勢いよく椅子を蹴るようにして立ち上がると、そのまま一直線にこちらへ駆けてきた。躊躇も遠慮もない。久方ぶりの再会を全身で喜んでいるような、実に晴れやかな笑顔である。
その姿を目にしたレティシアに感慨へ浸っている暇はなかった。
迷いのない突進に、彼女は即座に相手の意図を察する。満面の笑みを浮かべたまま、ラビエラが両腕を大きく広げた。一見すれば、感動の再会にふさわしい熱烈な抱擁だが、そう簡単な話ではない。
迫りくる両腕が閉じる寸前、レティシアはひょいと横へ身をかわした。空を抱いたラビエラの脇をすり抜けざま、ついでとばかりに足を引っかける。
「おっ」
前につんのめったラビエラは、その勢いを殺すことなく床を一回転した。ごろりと転がったかと思えば、すぐさま身を起こし、低く腰を落として構える。
さすがの身のこなしだった。
「なぜ避ける」
その姿勢のまま、ラビエラが両手を広げ、にじり寄る。
(自分から突進しておいて)
眉間には深い皺が刻まれ、久方ぶりの後輩に抱擁を拒否された不満を隠そうともしない。
対するレティシアは、何事もなかったかのように背後の扉を閉めた。きちんと扉が閉まったのを確かめてから振り返り、平然と答える。
「命の危機を感じたもので」
「再会した先輩に対する言葉がそれか?」
「先輩の抱擁、加減を知らないじゃないですか。今日はどんな締め技をするつもりだったんですか」
レティシアは冷静に指摘した。
かつて何度、親愛の情という名目で肋骨を軋ませられたことか。少なくともレティシアの記憶にある限り、ラビエラの抱擁は人と再会したときに交わすものではない。
あれは拘束技の一種だ。
「普通に声を掛けてくださいよ」
「五年半ぶりだぞ」
「だからって力いっぱい締め上げていい理由にはなりません」
「締め上げてなどいない。抱擁だ」
「受ける側が生命の危機を覚えた時点で、抱擁ではないんですよ」
きっぱり言い切ると、ラビエラは黙り込んだ。
どうやら納得していないらしい。
構えを解いて立ち上がると、服についた埃を払いながら、恨めしげにレティシアを見た。
「可愛くないな。昔は避けなかった」
「昔は避けられなかったんです」
そこは大きな違いだ。
「あんなに愛でてやったというのに、この態度」
がっくりと肩を落とすラビエラを、レティシアは頭のてっぺんから爪先まで無遠慮に眺めた。
腰よりも長い黒髪に、浅黒い肌。背丈は百九十センチほどもあるだろうか。ただでさえ大きな体はしっかりと鍛え上げられており、服の上からでも肩や腕の筋肉の盛り上がりが分かる。
そんな大男がしょんぼりと肩を落としている姿は、少々ちぐはぐだった。
レティシアはじっとその顔を観察する。
少なくとも、書類の山に押し潰されているわけではないらしい。顔色も悪くない。頬がこけている様子もなければ、目の下に隈ができているわけでもない。それどころか、扉を開けるなり全速力で突進してきたくらいである。
五体満足。声にも張りがあり、さっき転がしたときの受け身も見事だった。
(うん、元気そう)
心の中だけで彼の無事を安堵していると、ラビエラは何食わぬ顔で空いている木の椅子へ向かった。後ろに続いて進み、レティシアも小さなテーブルを挟んで、椅子に腰を下ろす。
「茶でも飲むか?」
「得体の知れない物を盛る気でしょう。いりません」
「少しは信用したらどうだ」
「嫌です、絶対信じません」
「失礼な奴だな」
即答すると、ラビエラは呆れたように片眉を上げた。しかし、本気で気を悪くした様子はない。
彼が指先を軽く振ると、部屋の隅に置かれていたカートの上で、ティーポットや茶葉の缶がひとりでに動き始めた。
かちゃり、と茶葉の缶の蓋が開く。
匙がふわりと宙に浮かび、茶葉をすくってポットへ落とした。続いて湯が細い弧を描いて注がれる。
ラビエラ本人は椅子に深く腰掛けたままだ。
蒸らし終えた紅茶がカップへ注がれ、ふわりと芳醇な香りが立ちのぼった。
「相変わらず無駄に器用ですね」
「無駄とは何だ、失礼な」
不服そうな声を聞き流しながら、レティシアは目の前の男を眺める。
ラビエラ・オル・トルーマン。
こうしていると、気安い先輩以外の何者にも見えないが、れっきとした隣国アルニフトの第八王子だ。彼は王子という身分を笠に着てふんぞり返っているだけの男ではない。
会えば寝技をかけようとし、隙あらば抱き潰そうとし、口を開けば文句を言う非常に手のかかる兄弟子だが、こうして茶を淹れてくれる、非常に面倒見のいい男だ。
「昨日、師匠から連絡があっておおよそのことは聞いた。収納魔法を解除するのに五年半もかかるなんて。どうした、才能が涸れたか?」
「久々に会って、よくまぁ悪口が出ますね。頭カチ割って、脳みそ見てみたいもんですわ」
「なら、口説いた方がいいか?」
テーブルに膝を立て、にやりと笑う。
レティシアは顔を歪めた。
「うわ、気持ち悪っ! やめてくださいよー、鳥肌立っちゃう」
気持ち悪い、気持ち悪いと言いながら両腕をさする。
「そんなに強力な魔法だったの?」
「鍵がどうにも見つからなくて」
「どうやって出たんだ」
「たぶん、なんですけど。そこを作った悪魔が外に出たがるわたしを見かねて、解除してくれたんだと思います」
ちょうどそのタイミングで、ティーカップがふわりと宙を滑り、彼女の前に着地する。
「悪魔の名を聞いたか?」
「ビトル・マイヤス・ガルディア・ノスト・イル・バラモン」
淀みなく返ってきた名を聞き、ラビエラは「ふむ」と腕を組んだ。
記憶を探るように目を伏せた。
「聞き覚えがある。ビトル、ビトル……七十二の魔神軍団において序列五十一番に数えられる悪魔、バラムの子だったか。悪魔の中でも、かなり高位だね。レティ、ずいぶん厄介な奴に目をつけられたな。はははっ、ざまぁ」
「うるさい。ざまぁって言うな。ん? 厄介?」
レティシアがきょとんと首を傾げる。
その顔を見る限り、どうやら本人には事態の深刻さがまるで伝わっていない。
「彼は執着を司る悪魔だ。君を自分の檻から自由にしたということは、それだけ君を気に入った証拠でもある。生きている間も、死んでからも。きっと君に執着し続ける」
妙に落ち着いた声だった。
脅すような口調ではない。だからこそ、言葉の意味だけがじわじわと染み込んでくる。
レティシアの動きが止まった。
どうやら、思っていたよりずっと重たい相手だったらしい。
何かを考えるように視線を宙へ泳がせたあと、レティシアはおずおずとラビエラを見上げた。
「……先輩」
「うん?」
「連れて来ちゃった」
しばし、沈黙が落ちた。
ラビエラは瞬きをした。
「こちらの世界へ?」
もう一度、瞬きをする。
今度はずいぶんゆっくりだった。
「……連れて来ちゃったのか」
「えへ」
レティシアは道端で猫でも拾ってきたような顔をした。
拾ってきたのは猫ではない。
生きている間どころか、死んでからも決して離さない、執着を司る悪魔だ。
「はぁぁぁぁぁぁぁ……」
か細く、長い息がラビエラの口から漏れた。
そのまま力尽きたように、ぽすん、とテーブルに突っ伏す。
頭を抱える気力すら失っていた。
レティシアは困ったように眉を下げた。
「お前はどうして、そういうものを気軽に拾ってくるんだ」
「拾ったわけではなく。なんと申しましょうか。猫に姿を変えさせたので、まぁいいかなって」
「気軽だな」
「えへ!」
「褒めてない」
間髪入れずに返された。
「当面は問題ないだろうが、油断するなよ」
「はい」
レティシアは素直に頷き、カップを持ち上げた。
琥珀色の液面がかすかに揺れ、その向こうに自分の顔がぼんやりと映る。
ひと口含んで息をつく。
それから少しだけ居住まいを正し、話題を切り替えた。
「それはそうと、結界内の調査の件ですが」
「ああ。師匠から魔法省へも通達があった。とりあえず、城内とその周辺から調べよう」
ラビエラが人差し指の先で、テーブルをとん、と叩く。
淡い光が指先から波紋のように広がった。何もなかったテーブルの上に細い光の線が走り、それらが複雑に交差しながら街路や河川、森の輪郭を描いていく。
ほどなくして、ニットガルド王城を中心とした一帯の地図が浮かび上がった。
「まずはここだね」
ラビエラはテーブルの端に置かれていた木彫りの兎をつまみ上げると、地図の中央へ腕を伸ばした。
ことり、と軽い音を立てて、兎が王城の上に鎮座する。
「……兎」
「可愛いだろ?」
レティシアは返事をせず、木彫りの兎に占拠された王城を眺めた。
なぜ兎なのか。なぜそんなものが当然のようにテーブルの上に置いてあるのか。そもそも、王城を示す目印が兎でいいのか。
いくつか疑問は浮かんだが、考えるのをやめた。
今は兎より調査のほうが重要だ。
椅子から身を乗り出し、広げられた地図をのぞき込む。
「王城があるのは、首都ネウロラ。そこから、サバスティア、リクルド、ゴート、マレセントが調査の範囲内だ」
ラビエラは王城に鎮座する兎を指先で軽く叩くと、そこを起点に外側へ指を滑らせた。
レティシアもその軌跡を目で追う。
王城を中心として、四つの地域が取り囲むように位置している。そのさらに外側にも、大小さまざまな街や村が点在していた。
レティシアはさらに周辺へ目を移す。
「範囲を広げるなら、サフィーニア、マレ、グニアス、ロスト。この辺りまででしょうか」
八つの地域を順に指し示す。
指先が地図の上を巡るたび、調べるべき範囲が目に見えて広がっていく。そう簡単に終わる調査ではなさそうだ。
ラビエラは腕を組み、地図を見下ろした。
「そうだな。一度に全部は無理だ。まずは王城を中心に、近いところから潰していこう」
兎の周囲を囲むように、人差し指で小さく円を描く。
「結界に異常があるなら、何かしら痕跡が残っているはずだ。何も見つからなければ、少しずつ範囲を広げる」
「かなりの人数が必要になりそうですね」
「ああ。魔法師団に依頼してみるよ」
それなら人手の問題はどうにかなりそうだ。
パスティナール王国内で、魔法に関わる職に就いている者はおよそ十万人。そのうち九万五千人ほどが一般の魔法使いで、残る五千人は初級魔術師以上の資格を持ち、国に仕えている。
宮廷に勤める者もいれば、地方へ派遣される者もいる。研究や調査、結界の管理など、担う仕事はさまざまだ。
そして、その五千人をひとつの組織としてまとめ上げているのが、魔法師団だった。
アルテラの弟子であるレティシアは、現在、研究を主とする部署に勤めている。
研究室に籠もって術式を組み上げたり、魔法具の解析をしたりするのが主な仕事で、現地での調査や警備を担う魔法師団とは管轄が違う。そのため、同じく国に仕える魔術師ではあっても、魔法師団と直接関わる機会はほとんどなかった。
そこで、レティシアはふと思い出した。
「そういえば昨日、師匠のところから帰る途中で、ネウロラとサバスティアの境、この辺りを見て回ったんですけど。少し気になる場所がありました」
地図の上に指を落とす。
王都ネウロラからサバスティアへ抜ける、その境界付近だ。
「気になる場所?」
「穴です」
「……穴?」
レティシアは地図から顔を上げると、何も掛けられていない真っ白な壁へ片手を向けた。指先に淡い光が灯り、壁一面に昨日記録した映像が映し出される。
森の中だった。
木々の隙間に、ぽっかりと黒い穴が開いている。
周囲には掘り返した土が積み上がっているわけでもなく、草木が大きく荒らされた形跡もない。ただそこだけが、地面を切り取られたかのように暗く落ち込んでいた。
「穴の大きさは縦横二メートル四方。深さは推定二キロです」
「二キロ?」
ラビエラの眉間の皺が深くなる。
レティシアは映像を切り替えた。今度は穴の内部を探査魔法で調べた際の記録が浮かび上がる。
「真っ直ぐ下に続いているわけではありません。途中から斜めに入り、その後は横方向へうねるように続いています。人が掘ったものなのか、魔物が掘ったものなのか判別できなかったので、とりあえず睡眠魔法を撃ち込んで、蓋をしておきました」
ラビエラは壁に映し出された穴を見た。
それからレティシアを見る。
もう一度、穴を見る。
数秒の沈黙の後、首を傾げた。
「……穴の中に人がいたらどうすんの」
レティシアはきょとんと目を瞬いた。
どうやら、そんなことは問題になるとすら思っていなかったらしい。
「大丈夫ですよ。ただ眠くなるだけですから」
平然と言い切るレティシアに、ラビエラは何も言わなかった。
ただ、その視線だけが「そういう問題じゃない」と雄弁に物語っていた。
レティシアは納得していない様子だったが、ラビエラは確信していた。
もし放置すれば、この女は次に穴ごと封印しかねない。
「あ、ちなみに穴の先なんですけど、気になったので調べてみました。穴の先は荒野に繋がっていました。とりあえず、その辺りにいた魔物は退治しておいたんですけど、妙だったのはその魔物たちです。明らかに誰かに誘導された痕跡がありました」
「…………」
言いたいことはいろいろある。
なぜ穴の先まで調べたのか。
なぜ一人で行ったのか。
そして、なぜ荒野にいた魔物をついでのような口調で退治しているのか。
ひとまず全部脇へ押しやり、ラビエラは眉間を押さえた。
「言いたいことは山ほどあるが……その痕跡というのは辿れそうなのか?」
尋ねると、レティシアは待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
「そう聞かれると思って、実際に辿ってみたんです」
「危ないじゃないか! 勝手に辿るなよ!」
ラビエラがとうとう声を荒らげる。当のレティシアはまるで堪えていなかった。
「まあまあ」
「まあまあ、じゃない」
軽く手を振って宥めるレティシアに、ラビエラのこめかみが引きつる。
「それより、妙なことがあったんです」
強引に話を戻され、ラビエラは何か言いかけた口を閉じた。
「穴の中には、魔物が一匹もいなかったんです」
その言葉に、ラビエラの表情が変わった。
レティシアは壁に映した映像へ視線を移す。地中深くへ伸び、遠くの荒野へと繋がる巨大な穴。
「不思議だと思いませんか? こんなに大きな穴ですよ。荒野にいる魔物なら、十分に通れる。しかも、あの穴を伝えば、地上を移動するよりずっと簡単にこちら側へ侵入できるはずです。それなのに、一匹もいなかった。偶然とは考えにくいじゃないですか」
穴の向こうには魔物がいた。
しかも、その魔物には何者かによって誘導された痕跡まで残されていたのに、こちらへ通じる穴の中には何もいない。
ラビエラは先ほどまでの呆れを引っ込め、難しい顔で腕を組んだ。
木彫りの兎が鎮座する地図と、壁に映し出された暗い穴を交互に見比べる。
「……通らなかったんじゃなく、通らせなかったのか」
レティシアも答えず、壁に映る穴を見つめた。
「もしそうなら、この穴はただの獣道でも、魔物が偶然掘った巣穴でもない」
誰かが何らかの目的を持って、ここに作った可能性がある。
「……ということは、人の仕業か」
「でも、人間ならわざわざ危険な穴を使う必要はありません。門をくぐれば済む話でしょう?」
「確かに」
ラビエラは反論しかけた言葉を飲み込んだ。
侵入経路はある。だが魔物の痕跡はない。人間の仕業と考えれば筋は通るものの、正規の門を利用しない理由が見当たらない。
「悪魔どもじゃないいならいいんですけどね」
レティがぽつりと漏らした。
願望というより、半ば独り言に近い呟きだった。
何にせよ、これ以上こいつを関わらせるのは危険だ。
ラビエラは地図から顔を上げ、そんなレティをじっと見る。
「なら、この件はうちの部隊を派遣して調べさせる。レティ、お前はもう関わるな」
「はい」
あまりにもあっさりと返され、ラビエラは眉を上げる。
いつもなら、ここで一つや二つ食い下がってくるところだ。それがない。素直に引き下がられると、それはそれで妙だった。
「……ずいぶん素直だな」
疑わしげな視線を向けると、レティはにやりと口元を歪めた。
ラビエラの背筋を嫌な予感が駆け抜ける。
「おい。待て待て待て」
身を乗り出して、慌てて制止する。
「その顔は絶対に何か企んでる顔だろう。いいか、絶対に近づくな。関わるな。余計なこともするな」
念を押すたびに、レティの口元の笑みが微妙に深くなっていく。
「信用がありませんね」
心外だと言わんばかりの顔をする。
「当然だ」
ラビエラは間髪入れずに言い切った。
レティシアの目の奥には好奇心の火がしっかりと灯っている。
この顔を知っている。止めろと言われて素直に止まる人間の顔ではない。
「冗談抜きにだ」
「はいはい」
ひらひらと手でも振りそうな軽い返事だった。
ラビエラはレティを睨んでいたが、諦めたように大きく息を吐いた。
むしろ今ので、不安が増した気がする。




