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レティシアの師であり、王立魔法学園の責任者、さらに王城の警護統括という重責を担うアルテラ・ルビル・ダンテリオンの執務室は学園で最も高い塔の最上階にあった。
塔は外から見れば古めかしい煉瓦造りの建物だ。しかし一歩足を踏み入れれば、その印象は容易く覆される。
内部には高度な空間魔法が施されており、見た目の規模を遥かに超える広大な空間が広がっていた。 幾重にも連なる廊下や階段は複雑に入り組み、まるで生き物のように姿を変える。しかも、その構造は時間の経過とともに変化するため、魔力を持たない者が入れば二度と出口へ辿り着けないとも言われていた。
慣れた足取りで回廊を進む。
目的の場所へ辿り着いたレティシアは、重厚な木製の扉の前で立ち止まった。
深呼吸をして、控えめに扉をノックする。
「師匠、レティシアです。入ります」
返事を待たずにノブへ手を掛け、扉を押し開く。
鋭い破裂音と共に、眩い光の矢が一直線に飛来した。レティシアは驚く様子もなく、首を傾けた。光の矢は鼻先を掠めることなく通り過ぎ、そのまま後方の壁へ吸い込まれるように消滅する。
もし反応が一瞬でも遅れていれば、顔面に直撃していたはずだ。
「相変わらずですね」
呆れ半分でそう言うと、室内の奥から高い笑い声が返ってきた。
「侵入者の二人に一人は引っ掛かるんだよね、これ。それをさらりと避けるなんて。さっすが、僕の可愛いお弟子ちゃん」
執務机の向こうで椅子に腰掛けたまま、アルテラが満足そうに口元を緩める。
広々とした部屋は、魔導灯の光で煌々と照らされていた。本棚には魔導書や古文書が隙間なく並び、机の上には処理途中と思われる書類の山が築かれている。
そんな雑然とした光景とは対照的に、アルテラ本人は悠然としたものだった。
「弟子まで侵入者扱いするのはやめてください」
レティシアが冷ややかな視線を向けると、アルテラは肩を揺らして愉快そうに笑った。
アルテラの身長は百三十センチと、魔法省の中でもひときわ小柄だ。レティシアより三十五センチも低く、顔も一回り小さい。輪郭は綺麗な卵型で、長いまつ毛に縁取られた大きな深緑の瞳をしている。
小柄な体躯と相まって、見た目だけなら年若い少年そのものだ。
レティシアは十二年も彼の弟子として働いているが、彼の実年齢はいまだに不明だ。
(というか、年々若返ってるんだよね、このジジイ)
レティシアは小さくため息をつきながら部屋の中へと足を踏み入れた。
「収納魔法の居心地はどうだった?」
部屋へ足を踏み入れた途端、アルテラは開口一番そんなことを尋ねてきた。
労いの言葉もなければ、久しぶりの再会を喜ぶ様子もない。
あまりにも呑気な質問に、レティシアは足を止めた。
「閉じ込められていると知っていたなら、助けてくださいよ」
恨みがましく言うと、アルテラは悪びれもせず肩をすくめた。
「一日や二日いないくらいで、大げさだなぁ」
「五年半です」
訂正すると、アルテラはぺろりと舌を出した。
可愛らしく小首まで傾げてみせたが、残念ながら十二年も弟子をやっているレティシアには通用しない。
「絶対に知っていたろ」
「僕、知らなかった」
「嘘つけ」
思わず地が出た。
師に対する敬意もへったくれもない声が漏れる。
「やだー、レティちゃん怖い。笑って、笑ってー」
椅子に腰掛けたまま体を左右に揺らし、宥めるように片手をひらひらさせる。
「美人は笑わないと、ブスと美人の境にいる人間から恨みを持たれちゃうぞ!」
「なんですか、その限定的な人間」
レティシアの眉間に深い皺が寄る。
アルテラは愉快そうに笑った。椅子の背にゆったりと身を預け、改めてレティシアを眺める。
「でもまあ、悪くない生活だったみたいじゃないかい。魔力が随分上がってる」
「え、本当ですか?」
思わず自分の両手に目を落とす。何度か握ったり、開いたりしてみたものの、見た目に変化はない。
「自分じゃ、よくわからないんですけど」
「そういうものだよ。自分の魔力なんて、毎日付き合っていれば案外気づかないものさ」
アルテラは頬杖をつき、目を細めた。
「蓋がいくつも開いた痕跡がある。もう、僕の足元に迫ってるよ。さっさと試験を受けて、大魔導師になっちゃいなよ」
レティシアは無言でアルテラを見つめた。
その顔をじっと眺める。にこやかな笑みを浮かべ、いかにももっともらしい口調で言う。そして何より、自信満々な態度。
――胡散臭い。
「ん? なに、その顔」
「いや……嘘くさいなって」
「ひどいなぁ。僕は魔法のことでは嘘をつかないって、知ってるでしょ」
アルテラは、さも心外だと言わんばかりに唇を尖らせた。
(確かに、それはそうなんだけど)
普段は平気な顔で人をからかい、都合が悪くなればしれっと惚ける男だが、こと魔法に関してだけは嘘をつかない。
この世界では、王宮に仕える魔法使いの実力は七つの位階に分けられている。
もっとも下に位置する魔法使いから始まり、初級魔術師、中級魔術師、上級魔術師、魔導師、大魔導師。そして、その頂点に立つのが賢者だ。
レティシアの位階は第三位にあたる中級魔術師で、魔法使いとしては胸を張れる位置にいる。
だが、目の前の男は格が違う。
アルテラは第七位の賢者だ。
数多いる魔法使いの頂点に立つ存在であり、東諸国を見渡しても、賢者の称号を持つ者はわずか五人しかいない。
(普段の言動だけを見ていると、つい忘れそうになるんだよね)
この男の魔法に関する知識と実力だけは、疑いようがない。
少なくとも、魔法についてアルテラが「そうだ」と断言したのなら、レティシアにはそれを疑うだけの根拠がなかった。
「国からお金が、ガッポガッポ入るよ」
アルテラは実に楽しそうに言った。
「金はいいですよね。あればあるだけいい。……でも、あんまり興味ないんですよね。どうせ、うちの親が『領民がー』『施設がー』って言って、根こそぎ奪いにきますから。自分の懐に入った金だって実感が、致命的なまでに湧かないんですよね」
これまでの経験からして、まず間違いない。
大金が入ったと知れば、父も母も目の色を変えてやってくる。そして領地のあれこれを並べ立て、気づいた頃には綺麗さっぱりなくなっている。
別に彼らのために使うのが、嫌というわけではない。領民の暮らしが良くなるなら、それはそれでいい。ただ、金を無心されるたびに、彼らの服装が華美になっていくのが気になるのだ。
「絶対横領してるよね。どうする、殺っちゃう?」
アルテラが片頬を上げ、にやりと笑った。
「師匠が言うと冗談にならないから、やめてください」
レティシアは空中に指を走らせる。
人差し指で円を描くように回転させると、収納空間との接続が開き、その中から封印された石板を取り出した。
ずしりとした重量のある石板を机の上へ置く。
「さっき、リジー様のところでゴブリンを捕まえました」
石板には複雑な術式が刻まれ、その内側に捕縛された魔物の気配が封じ込められていた。
「ゴブリン?」
アルテラの眉がぴくりと動く。それまで椅子の背にもたれていた体を起こし、机の上の石板を覗き込む。
「正確には、レッドキャップです」
アルテラは石板の上に手を置くと、そのまま目を閉じた。
部屋の空気が張り詰める。
魔力探査だ。
石板を中心に淡い魔力の波が広がった。
同時に、空気中の水分が凍りつき、窓や本棚の縁に薄い氷の膜が張っていく。
(さむっ……)
室温が急速に下がり、吐く息が白く染まった。ぞくぞくと肌が粟立ち、指先まで冷えてくる。
(相変わらず、加減というものを知らない人だな)
こうしていると、普段はふざけてばかりのアルテラが、ちゃんと高位の魔術師なのだと思い知らされる。閉じた瞼に、何が映ってるのか。自分もいつか、彼の見ている世界が見られるのだろうか。
石板を覆っていた魔力の気配が薄れていく。
アルテラは目を開くと、張り詰めていた空気がほどけた。彼はいつもの調子であっさりと言った。
「そこそこ力はあるけど、中級だね。内通者は?」
「リジー様付きの侍女です。捕まえて、尋問室にいます。会われますか?」
「んー、まだいいや」
指先で、石板の表面を軽く叩く。
「レティシア」
不意に、呼び名が変わった。
先ほどまでの軽い調子が消え、師が弟子の知識を試すときの声になる。
レティシアもそれを察し、顎を引いた。
「はい」
アルテラは椅子の背にもたれたまま問いかける。
「レッドキャップの特徴は?」
「長く薄気味の悪い髪に、赤い眼。鋭い鉤爪。醜悪な見た目に、赤錆色の帽子と鉄製の長靴が特徴です。強烈な殺意を持っていて、人間を見つけると斧を振りかざして襲ってきます」
考える間もなく答える。何度も教え込まれた魔物の特徴だ。間違えるはずがない。
「だよね」
アルテラは満足そうにうなずいた。
「奴らの頭の中は空っぽなわけ。人間を見たら襲う。それが普通。なのに、なんで人間と契約してんの?」
軽い口調とは裏腹に、その眼差しは鋭い。
レティシアは腕を組み、先ほど捕らえたレッドキャップを思い返した。
本来なら、人間と意思を交わすような魔物ではない。ましてや、互いに条件を提示し、契約を結ぶなど考えにくい。
「強い欲だけで動く魔物が、本来ではあり得ない行動を取っている。考えられることは二つです」
レティシアは指を一本立てた。
「一つは、何らかの理由で急激に知能が上がった」
続いて、二本目。
「もう一つは、誰かに操られている」
「うん」
アルテラは机に肘をつき、頬杖をついた。
その指先が、とんとん、と一定の間隔で机を叩く。
「可能性が高いのは、後者かな」
あのレッドキャップの背後には誰かがいる。
そしてそいつは、本来なら人間を見境なく襲う魔物を操り、契約という形で人間と結びつけていた。
(偶然とは考えにくい)
レティシアはアルテラの視線を受けながら、短く答えた。
「目的は結界内に侵入することでしょうか?」
「たぶんね。レッドキャップが第六王女の侍女と契約を交わしたのは、おそらく偶然だ。神経系の魔法を使って、餌に食いついたのを利用したんだろう。これはどう考えても、別の内通者がいる」
軽口混じりだった空気が、一気に冷え込んだ。
ゴブリン一匹の侵入など本来は些細な問題だ。
捕らえて始末すればいい。
だが、王城に仕える者が密かに手引きしているとなれば話は別だ。
もし本当に内部に協力者がいるなら、問題は結界そのものではない。結界の内側が、すでに蝕まれていることになる。
「結界は簡単に破られるような代物ではありませんよね」
「だがあれを張ったのは大昔のまだ駆け出しの頃だし、万能じゃないからね。仕方ないさ」
やれやれと肩をすくめる。
「黒幕はともかく、明日にでもラビエラと結界の綻びを探してくれる?」
「はい」
「探知魔法を使って、結界内に他の魔物が潜んでいないかも調べておいて」
「わかりました」
レティシアがうなずくと、アルテラは何かを考えるように手を組んだ。
「レティちゃん」
「はい」
「そろそろ決断しなさい。もう十分、遊んだでしょ」
口調はいつもと変わらず柔らかい。
けれど、それが冗談でも軽口でもないことはレティシアにはすぐに分かった。体の脇で拳を握る。
頭にあったのは自分のことではなく、ヴィクトールのことだった。
「……師匠、わたしはまだ」
「いつまでも中級魔術師ではいられないよ」
言いかけた言葉を遮るように、アルテラが続ける。
「賢者を継ぐのは、君しかいないんだ。迷っている時間はないよ」
いつかは向き合わなければならない。
そんなことは、誰に言われずとも、ずっと前からわかっている。
わかっているからこそ、聞こえないふりをしていたかった。
「……すみません」
ようやくそれだけを返す。
アルテラはそれ以上、何も言わなかった。
レティシアは軽く頭を下げると一歩後退し、そのまま踵を返して部屋を出ていった。
扉が閉まる音が完全に消えるまで見送ってから、アルテラは椅子の背にもたれた。
「あの子にも、困ったものだねぇ」
呆れたような言葉とは裏腹に、その声には苦笑が滲んでいた。




