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うっかり五年半失踪したら、夫の愛がさらに重くなっていました  作者: 市丸 七喜
■静かなる脅威 結界の内側■

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16/20

✽

「まったくもう。人を乱暴者みたいに言うなんて、失礼しちゃう」


 レティシアは頬を膨らませながら王城へ向かった。

 案内された先は、リジアナ王女専用のティールームだ。

 天井からは豪奢なシャンデリアが輝き、室内には色とりどりの花々が惜しげもなく飾られている。壁際には五人の侍女が整然と並び、その傍らには同じ人数の護衛騎士が控えていた。

 さすがは一国の王女である。その警備の厳重さに、レティシアは素直に感心した。

 部屋の奥では、リジアナ王女が優雅にティーカップを手にしていた。くすんだ金髪が陽光を受けて輝き、その姿はまるで一枚の絵画のようだ。

 侍女に導かれた席の前で、レティシアは優雅に膝を折る。


「リジアナ王女殿下にご挨拶申し上げます」


 挨拶をすると、リジアナは弾かれたように立ち上がった。そのまま勢いよく抱きついてきた体を、レティシアは両腕でしっかりと受け止めた。


「レティ!」


 弾かれたように抱きついてきたリジアナを、レティシアはしっかりと受け止めた。

 リジアナの腰に腕を回し、波打つ金色の髪をそっと撫でる。


「お久しぶりでございます。お元気にされていましたか?」

「堅苦しい挨拶は結構よ。やめてちょうだい」


 王女はようやく体を離したものの、今度は確かめるようにレティシアの顔を覗き込む。


「結婚式以来ね」

「五年半……もうすぐ六年になりますでしょうか」

「そんなに長い間、どこでなにをしていたの?」


 彼女の声には、隠しようのない寂しさがあった。

 まるで迷子の子供のような声音に、レティシアは思わず目を細めた。


「申し訳ございません」

「謝ってほしいわけではないわ。突然いなくなって、それきりだったでしょう。手紙のひとつくらい寄越してくれてもよかったじゃない」


 拗ねたような物言いだった。

 そこには、幼いころから変わらない彼女の親しみやすさが滲んでいる。

 けれど、そんな気安さとは裏腹に、リジアナはただ立っているだけで人の目を惹いた。

 何気なく手を動かすだけでも優雅で、その一挙手一投足には、王族として育った者だけが持つ気品が滲んでいた。

 二人は並んで椅子に腰を下ろした。

 侍女が新しい紅茶をティーカップに注ぐ。


「それが、実験でちょっと失敗してしまいまして」


 レティシアは苦笑しながら、自分が収納魔法の中に閉じ込められていたことを語った。そして、その空間では五年半もの歳月が流れていたにもかかわらず、自分の感覚ではわずか五日半ほどしか経っていなかったことも説明する。

 話を聞き終えたリジアナは、ぱちぱちと目を瞬かせた。


「まあ、そんな不思議なことが……」


 感心したようにうなずいていたが、やがていたずらっぽい笑みを浮かべる。


「楽しそうね。わたくしもそこに入れないものかしら」


 レティシアは即座に首を横に振った。


「やめてください。王女殿下が突然五年半も行方不明になったら、国中が大騒ぎになりますよ」


 レティシアがそう言うと、リジアナは冷めた笑みを浮かべた。


「そんなことにはならないわ。みんな、わたくしのことなどどうでもいいのよ」


 淡い金色の髪がさらりと揺れ、その横で侍女たちも一様に困ったような表情を浮かべる。

 まるで子供のようにしょげ返った王女の姿は、レティシアにとって懐かしいものだった。


(可愛い。王女様ってば、変わらないなぁ)


 リジアナがまだ幼い頃から、レティシアは魔法の家庭教師として傍に仕えてきた。年齢も近く、授業以外でも共に過ごす時間は長かった。

 だからこそ分かる。

 彼女は昔から周囲を振り回すこともあるが、決して傲慢なだけの娘ではない。

 それなのに最近の噂はどういうことだろう。何か、意図的なものを感じる。


「リジー様はいかがお過ごしでしたか?」

「どうって……騎士団長から、わたくしの悪い話をたくさん聞いたのでしょう?」

「いいえ。夫からは、わたしがいなくなってからリジー様が寂しそうにされていたと、それだけしか聞いておりません」


 リジアナは唇を結び、うつむいた。

 何かを言おうとするが、言葉にならない。膝の上で組んだ指が、落ち着かなげに何度か組み直される。

 どう話を切り出したらいいのか、迷っていた。

 ティーカップを口元へ運び、紅茶をひと口飲む。リジアナが自分から話し出すまで、黙って待つことにした。そのまま何気なく顔を上げる。視線を右へ、左へと動かしたところで、レティシアの目線が止まった。


(なんだろう……この靄は)


 室内から庭へと目を向ける途中、視界の端に微かな歪みが引っかかった。

 手入れの行き届いた庭園には、色鮮やかな花々が咲き誇っている。柔らかな陽光が降り注ぎ、風が吹くたび、花や木々の葉がかすかに揺れた。

 一見すれば、どこにもおかしなところはない。

 けれど、その穏やかな景色の中に、妙に耳へ残る音があった。

 噴水のさらさらと流れるはずの音の奥に、微かなざらつきのようなものが混じっている。

 水が石を叩く音とは違う。一定の水音の中に、ときおり別の何かが紛れ込んでいた。


「レティ?」


 リジアナの呼びかけに、レティシアは答えなかった。

 代わりに人差し指を唇へ当てる。しっ、と声に出すことさえしないその仕草に、周囲が息を呑んだ。誰もが口を閉ざす。

 話し声が途絶え、それまで穏やかだった庭園が、にわかに静寂に包まれた。

 レティシアはじっと耳を澄ませ、音を立てないよう立ち上がる。

 靴を脱ぎ、一歩、また一歩と噴水へ近づいた。誰も声を発さない。背後からいくつもの視線が注がれているのを感じながら、レティシアは白い手袋を外し、足元へ落とした。

 噴水の澄んだ水面には、青空が揺れていた。

 近づいてきたことを悟らせないよう、レティシアは注意深く身をかがめる。

 ほんの一瞬、水面が不自然に揺れた。

 レティシアは躊躇なく右手を水の中へ突っ込んだ。

 ばしゃん、と勢いよく水しぶきが上がる。

 冷たい水が腕を濡らすのと同時に、指先が何かに触れた。逃がすまいと、そのまま手を閉じる。掌の中で、何かが激しく小さく動いた。


「捕まえた」


 低く呟き、手を引き上げる。


「きゃあっ!」


 侍女の短い悲鳴がした。

 レティシアの右手に握られていたのは、レッドキャップと呼ばれる悪名高いゴブリンだった。

 小柄な老人のように歪んだ体。血走った真紅の瞳。痩せた指先には鋭い鉤爪が伸びている。

 重そうな鉄のブーツを履き、目を引く帽子を被っている。真っ赤な帽子は濡れた血を吸い続けているかのようにどす黒く、不気味な光沢を放っていた。

 捕らえられたレッドキャップは、金切り声を上げてもがき始めた。


「ギギギッ! ギィィ!」


 鋭い爪で引っかこうとし、足をばたつかせる。

 だがレティシアは眉ひとつ動かさなかった。

 まるで暴れる小動物でも持ち上げているかのような落ち着きぶりだ。


「血染めの帽子よ、赤き罪を地に返せ。鉄の靴よ、その歩みを止めよ。古き名のもとに命ずる。レッドキャップよ、石の檻に眠れ」


 言葉が紡がれるたびに空気が震えた。

 魔力が形を持つ。

 淡い光が空中を走り、一枚の石板を生み出した。

 灰色の石面には複雑な紋様が浮かび上がり、古代文字にも似た光の線が脈打つ。

 レッドキャップはその光景を見て悲鳴を上げた。


「ギィィィィッ!」


 小さな体が石板へ吸い寄せられる。

 必死にもがき、爪を振るい、足掻く。だが、抵抗は無意味だった。まるで底なし沼に沈むように、その体は徐々に石板へ飲み込まれていく。

 最後に真紅の帽子が消えると、石板の中央には赤い帽子の紋章だけが刻まれていた。

 レティシアは手を払い、石板を持ってテーブルに戻った。二十センチ四方の石板は、厚さが三センチほどあった。侍女の一人が青ざめた顔で石板を覗き込む。


「レティシア様、い、今のは……」

「ゴブリンですよ」


 レティシアは当然のことのように答えた。


「あれが、ゴブリンですか。は、初めて見ました……」


 侍女は胸元を押さえながら震える声で呟く。


「なぜ、こんなところにゴブリンが……」


 レティシアは石板の紋章を見下ろした。

 呆然としているリジアナへ視線を向けた。


「リジー様。最近、あまり調子がよくなかったのではありませんか?」


 リジアナは肩を震わせた。


「わ、わたくし……」


 反論はなかった。レティシアは叱責を続ける代わりに椅子に腰かけ、彼女の手をそっと握る。

 白く細い指先は冷えていた。


「原因は、先ほどのゴブリンです」

「……え?」


 リジアナが顔を上げる。

 驚きに青い瞳が見開かれていた。


「あれは悪質なんです。人の心の弱い部分に寄り添い、負の感情を煽る。怒りや嫉妬、不安や劣等感を大きくして楽しむ性質があります」


 リジアナは呆然とした表情で石板を見る。


「じゃあ……わたくしも……?」

「ええ。影響を受けていたようです」


 リジアナは何も言わなかった。長い長い息を吐く。

 張り詰めていた糸が切れたように肩が落ちた。


「怒りたくない相手に腹が立って、些細なことが許せなくなって。おかしいとわかっていたのに、どうしても抑えられなかった」


 その声には王女としての威厳も虚勢もなかった。

 ただ、自分でも理解できない感情に振り回されていたことへの戸惑いと、後悔だけが滲んでいる。


「少しでも異変を感じたら、わたしたちにお話ください」


 レティシアが念を押すと、リジアナは息を吐いた。

 まだどこか疲れたような表情を浮かべていたが、彼女の青い瞳からは、先ほどまでの濁りが薄れつつあった。


「分かったわ」


 小さく頷く姿に、レティシアはひとまず安堵した。

 レッドキャップは封印した。これ以上、あの妖精が誰かの感情を煽ることはない。残された影響も、徐々に薄れていくはずだ。


(でも、まだ終わってない)


 レティシアは立ち上がり、庭園を囲む白い石壁のほうへ歩き始めた。侍女たちは不思議そうに顔を見合わせた。レティシアの足取りに迷いはなく、動きは一直線だった。

 侍女たちの前を横切り、その列の端に立つ一人の女性へ近づいていく。レティシアは一番左端にいた侍女の首を正面から掴むと、そのまま足を払った。


「きゃっ!?」


 悲鳴が上がるのと同時に、侍女の体はあっけなく地面へ倒れ込んだ。

 乾いた音とともに石畳に肩が打ち付けられる。


「なっ、なにを──!」


 周囲の侍女たちが息を呑んだ。

 突然の出来事に、悲鳴を上げる者さえいる。

 レティシアはそんな周囲の反応には構わず、床へ押さえつけた侍女を見下ろした。琥珀色の瞳に、感情らしい感情はない。ただ事実を確認するような、冷たい光だけが宿っていた。

 侍女は逃れようと身を捩ったが、レティシアは腕を後ろに捻り、膝で背中を押さえつけた。首筋を押さえられた侍女は身動きが取れず、苦悶の表情を浮かべた。


「レ、レティシア様……? いったい何を……」


 困惑した声が震えている。

 レティシアは答えず、拳を握った。


(間違いない。先ほど封印したレッドキャップと同じ、鼻の奥にこびりつくような臭いがする)


 庭園に残ったものではない。この女の内側から漂っている。


「ゴブリンの臭いがする」


 場の空気が凍りついた。


「え……?」


 押さえ込まれた侍女の顔から、さっと血の気が引く。知られるはずがないことを知られた人間の顔だった。

 レティシアは侍女の首筋を押さえたまま、淡々と問いかける。


「あなた、ゴブリンを手引きしましたね?」


 侍女の体がびくりと強張った。


「違います、私じゃない!」


 恐怖と混乱で声が裏返っていた。


「私は何もしていません! 姫様! 姫様、私ではありません!」


 必死の訴えに、リジアナも戸惑いを隠せなかった。

 彼女は倒れた侍女とレティシアを交互に見つめる。


「レティ、誤解ではないの? この子は十年以上、わたくしに仕えてくれているのよ」


 王女の声には困惑が滲んでいた。

 彼女は、幼い頃から仕えてきた傍仕えの一人だ。

 簡単に疑えるはずがない。

 レティシアは答えず、代わりに侍女の首の後ろを押さえつけたまま、その袖へ手を伸ばした。


「や、やめて──」


 震える声を無視し、袖をまくり上げる。白い腕が露わになると、その場にいた全員が息を呑んだ。

 肌の上に奇妙な紋様が刻まれていた。鮮血で描いたかのような赤色。細い線が絡み合い、螺旋を描くそれは刺青にも火傷にも見えない。

 まるで生き物のように脈打ちながら、淡い光を放っていた。


「それは……」

「これはゴブリンとの契約を意味します」


 リジアナの唇が震える。


「わ、わたくしも魔法については多少の知識を持っています。あれが魔術的な印だということは、わたくしにもわかります」


 侍女の顔色が変わった。必死に取り繕っていた表情が崩れる。

 恐怖ではなく、追い詰められた者だけが見せる焦りがあった。

 レティシアはその変化を見逃さなかった。レッドキャップが王女の心へ入り込めたのは偶然ではなく、招き入れられたのだ。


「リジアナ第六王女殿下」


 感情を見せずにそう呼びかけると、呼び方ひとつで自分がいま何を求められているのか察したリジアナは大きな目をはっと見開き、反射的に背筋を伸ばした。


「どうなさいますか?」


 今度は、はっきりとした調子で問いかける。

 成り行きを見守っていた侍女や身構えた衛兵の視線が、一斉にリジアナに注がれる。子供の頃から親しんだ間からだと大目に見るのか、ゴブリンを結界内に呼び寄せたとして懲罰を与えるのか。

 情と立場のどちらを優先し、どこに落としどころを見つけるのか。王族としての振る舞いを、リジアナは試されていた。

 化粧を施した顔に、大粒の汗が浮かぶ。リジアナの唇は、かすかに震えていた。何かを言おうとして開き、けれど言葉が出ないまま閉じた。ちらりと侍女へ目を向け、それから衛兵たちを見る。助けを求めるようにこちらを見かけて、慌てたように視線を逸らした。


(……こりゃ、まだ無理かな)


 王城で彼女の味方は少ない。感情のままに周囲へ当たり散らすこともある彼女の機嫌をうまく取りなし、癇癪を起こしても逃げ出さず、長く仕え続けられる侍女は貴重だった。

 ただ厳しく罰すればいい、という話ではないが、親しい相手だからと何もなかったことにすれば、今度はリジアナ自身が侮られる。

 王女として立つというのは、こういう小さな選択の積み重ねなのだ。

 リジアナはぎゅっとドレスの裾を握った。


「え、衛兵! 彼女を審問塔へ連れて行きなさい!」


 衛兵たちに両腕を拘束された彼女は、必死にもがきながらリジアナへ助けを求める。その顔は涙と恐怖に歪み、もはや取り繕う余裕すらなかった。


「やめて、やめて! 姫様、申し訳ございません! 助けて、姫様!」


 裏切りが明らかになった今、かける言葉は何もない。

 両脇を抱えられた侍女は審問塔へと引きずられていった。その叫び声が遠ざかるのを確認してから、リジアナは手を払い、侍女と護衛騎士を退出させた。

 レティシアは彼女の前に片膝をつき、震える手を包み込むように握った。


「よく決断されました」

「……どうして彼女が内通者だと気づいたの?」


 問いかけられ、レティシアは落ち着いた口調で答えた。


「ゴブリンが発する独特の臭いと、奴の足元から赤い糸が伸びているのに気づきました」

「赤い糸?」

「はい。その糸は真っ直ぐ彼女の腕へと繋がっていました。操りの術か、あるいは何らかの契約の痕跡だと思われます」


 リジアナは小さく息を吐いた。


「なるほど。それで確信したのね」

「はい。あれほどはっきり繋がっている以上、無関係とは考えられませんでした」


 リジアナは侍女が消えた廊下の奥を見つめた。

 先ほどまでそこにいた彼女の青ざめた顔が、目の奥に焼きついて離れない。


「あの子は……どうなるの?」

「魔物と契約を交わすということは、心を明け渡したのと同じことです。魔法省に移送し尋問の後、浄化します」

「……浄化しても駄目だったら?」


 一般人が魔物と契約を交わし、罪を犯した場合、基本的には魔法省の司法局に属する魔法犯罪審議部が尋問を行い、その罪を審理する。審理の結果、問題がないと判断されれば浄化処置が施されるが、罪状や契約の深刻さによっては、そのまま投獄されることもある。

 今回の侍女も無事に浄化されたとしても、これまで通りの生活に戻ることはない。城を追放された後は、魔法省の監視下で暮らすことになる。


「そこは、リジー様が知る必要のないことですよ」


 穏やかな声音には、それ以上は聞かないでほしいという意思があった。


「……でも、城からは追放ね」

「覚悟の上でしょう」


 信頼していた侍女の裏切りは、簡単に割り切れるものではない。

 なぜ魔物と契約したのか。いつからだったのか。何かそうせざるを得ない事情があったのか。

 リジアナは黙り込んだ後、ためらいがちに口を開いた。


「……浄化が無事に完了したら、できるだけ平和なところに送ってやって」

「承知しました。審議官にはそのように申し付けておきます。わたしはアルテラ様へ報告に参りますの

で、本日はこれで失礼いたします」

「ええ、分かったわ」


 リジアナがうなずくと、レティシアは踵を返して歩き出した。

 その背を見送りながら、リジアナは拳を握る。

 審問塔で侍女が口を開けば、背後で糸を引いていた黒幕も明らかになるだろう。

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