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レティシアはびくりと体を震わせ、勢いよく目を開いた。
「んあっ!?」
頬を伝っていた涎を袖で拭い、荒くなった呼吸を整える。胸の奥では、嫌な余韻を引きずるように鼓動が早鐘を打っていた。
嫌な夢を見ていた。
何を見ていたのかは、もうはっきりと思い出せない。だが、胸の奥に沈殿した不快感だけはしっかりと残っている。
レティシアは視線を巡らせた。
見慣れた天井に、見慣れた部屋。窓から差し込む穏やかな陽光。
それらを確認するうちに、強張っていた体から少しずつ力が抜けていく。
「……夢か」
小さく呟き、レティシアはごろんと寝返りを打った。そのまま寝台へ顔を埋める。
嫌な夢の後は二度寝に限る。
再び眠りの世界へ逃げ込もうとするが、大きな手に肩をつかまれ、前後に揺さぶられた。
「レティ、昼になる。寝過ぎだ」
落ち着いた声が頭上から降ってきた。
聞き慣れた声に、レティシアは安心したように頬を緩める。
「うむむ……もうちょい……」
毛布を胸元まで引っ張り上げ、現実から逃げるように体を丸める。
「起きろ。食事が冷める」
「むぅ……」
レティシアは不満げに唸った。
肩を揺する手は優しいままだが、どうあっても起こすという強い意志だけが伝わってくる。
レティシアは諦めたように片目を開けると、恨みがましい視線をヴィクトールへ向けた。
「あと五分」
「さっきから十分ほど同じことを言っている」
「なら、七分……」
「増やすな」
彼は相変わらず肌艶が良く、寝起きとは思えないほど生気に満ちている。一体どういう体の構造をしているのだろう。
毛布にくるまったままのレティシアは、ぼんやりとその姿を見上げた。
「元気……はつらつ……」
思わず漏れた感想に、ヴィクトールの眉が寄る。
「何だそれは」
「朝からキラキラしてる……」
「褒めているのか?」
「たぶん……」
自分でもよくわかっていない返事だった。
ヴィクトールはレティシアを抱えたまま小食堂へ向かった。
廊下を歩いている間も、レティシアの頭は彼の肩にもたれたままだ。うとうとと舟を漕ぎ、時折こくりと首が落ちる。
そのたびにヴィクトールは腕に力を込め、彼女を支えた。
小食堂へ入ると、すでに食事の支度は整っていた。
窓から差し込む柔らかな陽光が室内を照らし、磨き上げられた食器がほのかに光を反射している。焼きたてのパンの香ばしい匂いと、温かなスープの湯気が漂い、空腹を刺激した。
卓上には色鮮やかな果物や卵料理も並べられており、朝の食卓らしい穏やかな雰囲気が広がっている。
席へ向かうと、待機していた給仕補助の男が深々と頭を下げた。
「おはようございます、ご主人様、奥様」
「おはよう……」
レティシアは欠伸を噛み殺しながら、どうにか挨拶を返す。
給仕補助の男は表情一つ変えず、ヴィクトールの椅子を引いた。
ヴィクトールは当然のようにその席へ腰を下ろす。レティシアの体を抱え上げ、自分の膝の上へ乗せる。
あまりにも流れるような動作だった。
まるで毎日そうしているかのような自然さに、給仕補助の男は表情を崩さなかった。
一歩前へ進み出て、恭しく頭を下げた。
「お食事はご一緒されますか?」
「ああ、頼む」
「かしこまりました」
給仕補助の男は即座に一礼すると、厨房へ向かって下がっていった。
小食堂には香ばしい焼きたてのパンの匂いと、温かなスープの香りが漂っている。窓から差し込む柔らかな陽光が白いテーブルクロスを照らし、穏やかな朝の空気を作り出していた。
ヴィクトールは器へ視線を落とし、スプーンを手に取る。
湯気の立つスープをひと口分すくうと、慎重に息を吹きかけて熱を逃がした。
それからレティシアの口元へ差し出す。
「ほら、口を開けて」
「あーん……」
まだ半分眠っているような声で、レティシアは素直に口を開いた。
温かなスープが口の中へ流れ込む。
「あっ……ちい」
「熱いか?」
ヴィクトールが眉をひそめる。レティシアは小さく首を振った。
「んー……美味い」
「そうか」
口元を緩めたヴィクトールは、再びスプーンを手に取る。
一方のレティシアは満足したのか、こくりこくりと船を漕ぎ始めていた。
その額が危うくヴィクトールの胸へぶつかりそうになる。
「レティ」
「ん……」
「寝ない」
「……うん」
返事だけは素直だった。
だが力なく瞼が下がり始める。
放っておけば、そのまま口に食べ物を入れた状態で眠りそうな勢いである。
「起きろ」
「むぅ……」
「美味しいか?」
ヴィクトールが尋ねる。
意識を保つ気力もないレティシアは、無言で親指を立てた。
その動きはひどく緩慢だったが、それだけで十分に伝わった。
「そうか」
ヴィクトールは満足そうにうなずくと、次の一口を差し出した。給仕補助の男は、そんなレティシアを気の毒そうに見つめた。
「この五年半、ご苦労も多かったことでしょう。お疲れだったのですね」
しみじみとした声音である。
レティシアはもそもそと口を動かしながら、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「五年半が大変だったからだって」
「ああ」
「昨日の夜じゃなくて、五年半が」
「……何のことだ。身に覚えはない」
ヴィクトールは平然と言い切った。
その顔には一片の曇りもない。レティシアはそれ以上追及する気もなく、ヴィクトールの腕の中で大きく伸びをした。
続けて首を左右へ傾けると、こきり、と乾いた音がした。
結局その後も、レティシアは半分ほど食べさせてもらいながら朝食を終えた。
食後に温かい茶を飲み、ようやく頭が働き始める。
レティシアは自室へ戻り、魔法省の制服に着替えた。帽子を被り、手袋をはめ、忘れ物がないか一通り確認する。
「どこに行くんだ?」
レティシアはハンカチーフを手に取りながら振り返る。
「リジー様にご挨拶しに行こうかと思って。少し王城へ行ってくる」
ヴィクトールの表情が曇る。
普通なら見逃してしまう程度の変化だったが、長年一緒にいるレティシアにはすぐ分かった。
リジー――リジアナ・ヴィクトリア・フォン・アルベルティーヌは、ロスティーヌ王国の第六王女である。母は国王の五番目の愛妾だったが、彼女は生まれて間もなく王妃の養女となり、第六王女として育てられた。
淡い金髪に健康的な肌。化粧でも隠しきれないほどのそばかすが頬に散り、小さく垂れた目はどこか頼りない印象を与える。お世辞にも絶世の美姫とは言い難い。
「嫌そうな顔」
指摘すると、ヴィクトールは即答した。
「していない」
「した」
「気のせいだ」
「いや、絶対した。リジー様が苦手?」
「苦手というわけではないが、殿下方と一緒になると、君は大抵何かに巻き込まれる」
「あー……」
レティシアは思わず視線を泳がせた。王城で起きた騒動を一つ二つ思い返しただけでも、反論材料が見当たらない。
「今回は大丈夫よ」
「前もそう言っていた」
ぴしゃりと返され、レティシアは口をつぐんだ。
反論材料がなかった。
「最近、あまり良くない噂を聞く」
ヴィクトールは言いにくそうな顔をした。
「噂って?」
「癇癪がひどくて、使用人が次々と辞めているんだとか。新しい者もなかなか居つかないらしい」
確かにリジアナは気が強い。機嫌を損ねれば容赦なく周囲を振り回すし、一度怒り出せば簡単には収まらない。歯に衣着せぬ物言いも相まって、王宮では扱いづらい王女として知られていた。
そのため、彼女に仕えることを嫌がる者は少なくない。少しでも気に障れば叱責が飛ぶ。そんな噂ばかりが一人歩きし、側仕えを命じられた者たちは戦々恐々としているらしかった。
だが、それはあくまでも表向きの姿に過ぎない。
レティシアは幼い頃から彼女を知っている。
我儘で面倒なところはあるが本当の彼女は気が弱く、傷つきやすく、そして人一倍寂しがりやな少女だ。
強気な態度も荒い言葉も、自分を守るための鎧に過ぎない。
レティシアは窓の外へ視線を向けた。
(最後に彼女と会ったのは、わたしが十六、殿下が十二の時だったっけ。あれから七年半か)
庭に咲く花を眺めながら、自然と昔の記憶がよみがえる。
まだ少女だった王女は、いつもレティシアの後ろをついて歩いていた。
不器用なくせに甘えたがりで、ほんの少し放っておくだけで不満そうな顔をしたものだ。
(七年半はあまりにも長い。わたしが姿を消してから、リジー様はどう過ごしてきたのか。王宮の中で気を許せる相手もなく再び独りになってしまったのなら、癇癪を起こすようになっても仕方がないのかもしれない)
噂の裏にある孤独を思い、レティシアは小さく息を吐いた。
「平気よ。軽く挨拶をして、様子を見てくる。すぐ戻るから」
そう言って微笑む。
しかしヴィクトールの表情は晴れない。
「だがな……」
なおも何か言いたげに言葉を濁した。
問題なのは、その王女に会いに行くのがレティシアだということだった。
彼女は昔から妙なところで行動力がある。放っておけば平穏に終わる話でも、自ら首を突っ込んで事態を大きくして帰ってくることが珍しくない。
嫌な予感しかしなかった。
腕を組んで考え込んだ末、ヴィクトールは真顔で口を開く。
「君は妙なところで問題を起こす」
「いきなり悪口!」
レティシアは口を尖らせたが、ヴィクトールは表情ひとつ変えなかった。
「事実だろう。自分が正しいと思ったら引かないし、困っている相手を見れば放っておけない。結果として、面倒事の中心に飛び込むことも珍しくない」
淡々と並べ立てられ、レティシアはますます不満げな顔になる。それでも、ひとつとして否定の言葉が出てこないあたり、思い当たる節はあるらしい。
「絶対に無理はするな」
「はーい」
「危ないと思ったら、すぐ帰れ」
「はーい」
「一人で抱え込むな」
「はーい」
子供に言い聞かせるような注意が続くたび、レティシアの対応はぞんざいになっていく。
ヴィクトールはそんな彼女を心配そうに見下ろした。聞いてはいるのだろう。だが、いざというときに言いつけを守るかとなれば、甚だ心許ない。
だからこそ、最後の一つだけは念を押しておく。
「助けが必要なら躊躇なく呼べ」
レティシアが面倒そうに視線を上げる。
ヴィクトールはその目をまっすぐ見返した。
「それから、力で解決するなよ?」
「ひどい言われよう」
さすがに聞き捨てならなかったらしく、レティシアは頬を膨らませた。
「私はそんな脳筋じゃない」
ヴィクトールは額に手を当てた。
出発前だというのに、すでに頭痛がしてきた。しかも本人にはまったく自覚がない。
それが何より厄介だった。




