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レティシアは腕を組み、目の前の壁を見つめた。
一見すると何の変哲もない石壁だ。だが、その表面に手を触れると、指先から腕へ細かな痛みが走った。
まるで無数の針で突かれているかのような感覚だった。
(いったいどんなことをしたら、こんなえぐい術をかけられるんだろ)
試しに魔力を流し込んでみるが、壁は何の反応も示さなかった。力任せに突破できる類の結界ではないらしい。
レティシアは、うーんと唸った。
(陣を解析して分解するのが一番早いかな。でも、この規模だと七日……いや、もっとか)
頭の中で術式の構造を組み立てながら試算する。
(下手をしたらその倍。十五日……十五日か)
レティシアは思わず顔をしかめた。
(百五十年! 長い!)
顎に手を当てながら大きくため息をつく。
(ヴィルが世界を滅ぼしてるかもしれない。うーん、こりゃまいったな)
視線を巡らせると、部屋の隅に置かれた猫用クッションの上で、ビトルが仰向けになって寝転がっていた。
両前足をだらりと投げ出している。これっぽっちも緊張感がない。
(別にどうでもいいけど、あのクッション。どこから持って来たんだろう)
部屋の中には猫の玩具が溢れ、至る所にクッションが置かれている。
「ビトル。この先はどこに続いているんですか?」
レティシアが声をかけると、ビトルは目を閉じたまま答えた。
「さあな。余も足を踏み入れたことがないゆえ、知りようがない」
「出口があるかもしれませんよ」
「興味ない」
返ってきたのはあまりにも素っ気ない言葉だった。
ビトルは大きなあくびを漏らした。その拍子に牙がのぞき、長い尻尾だけが機嫌よさそうに左右へ揺れた。
(まるで自分には一切関係ないと言わんばかりね)
レティシアは積み上げられた荷物の中を探り、目的のものを見つけた。
(あった)
取り出したのは、糸が巻かれた紡錘だった。糸の端を寝台の脚にしっかりと結びつけると、紡錘を手にしたまま歩き出す。
ビトルがごろんと寝返りを打ち、小首をかしげた。
「何をしておるのだ?」
「探索してこようかと思って。糸をたどれば、帰るときに迷わないでしょう?」
そう言いながら、レティシアは指を軽く鳴らす。
ぽっと掌の上に小さな炎が灯った。揺らめく橙色の光が、周囲の闇を押しのける。
「なるほど」
ビトルは感心したように頷くと、大きく伸びをして、レティシアの肩に飛び乗った。
二人は寝台から離れ、薄暗い通路の奥へと歩き始める。
先は見えない。炎の光が届く範囲より先には、ただ黒い闇が広がっているだけだった。
「真っ暗ですね」
「怖ろしくはないのか?」
ビトルが尋ねる。
レティシアは真面目な顔で答えた。
「怖いですよ。おしっこちびりそうです」
ビトルは沈黙のあと、「くくっ……」と、喉を鳴らして笑った。
「嘘を申せ。魔力を持つ者は総じて気が強いものだ」
「そうですか? わたしは気の弱い、小心者ですよ」
ビトルは少し考え込んでから、ふいに話題を変えた。
「なにゆえ、夫と婚姻を結ぼうと思うたのだ?」
「ずいぶん急に踏み込んできますね」
彼女は呆れたように返す。
「そなたほどの力を持つ者ならば、一人でも十分に生きてゆけるであろう」
彼女はきょとんとして、それから小さく笑った。
「愛があるからだって言ったら、笑います?」
「笑いはせぬ。だが余には、些か作り話じみて聞こえるな」
「なんでですか! こんなに真剣なのに!」
身を乗り出して抗議する彼女を前にしても、ビトルは疑わしげな表情を崩さない。
「その言葉を、そなたの夫は信じておるのか?」
ビトルの問いに、彼女は肩をすくめた。
「いえ、全然。まったく。見事なくらい信じてません。いまだに自分の片思いだと思ってます」
呆れと諦めが入り混じったような声だった。
「愛していると伝えぬのか?」
「言いませんよ。恥ずかしいじゃないですか」
「それでよく婚姻まで漕ぎ着けたものだな」
「わたしもそう思います」
当の本人はけろりとして答える。
ビトルは、頭痛でもこらえるような顔をした。
彼女はそんな様子を気にも留めず、どこか懐かしそうに視線を遠くへ向ける。
「わたしたちね、身分差がえげつないんですよ。雲泥の差。天と地ほども違います。幼馴染じゃなかったら、きっと声をかけることすらできませんでした。年を重ねるごとに、その差はどんどん目に見える形になっていって。ほら、よく言うでしょ。脳の発達は、男より女のほうが早いって。だからわたし、気づいちゃったんですよね。自分たちは同じじゃないんだって」
一度、言葉を切る。
昔は、ただの幼馴染だった。隣にいることに理由などいらなかったし、声をかけるのをためらったこともなかった。けれどいつからか、彼の隣に立つ自分を、ひどく不釣り合いだと思うようになった。
「こうして結婚したあとも、何度も身を引こうとしたことを思い出すんです」
「離れている間に、その者の心が変わるとは思わぬのか?」
長い歳月は人を変え、距離は心を遠ざける。
離れているうちに想いが薄れ、別々の道を歩いていくこともあるだろう。
いつか来る別れの日を、毎日想像した。一日が無事に終わるたび、神に感謝さえした。ヴィクトールの愛を永遠だと思いながらも、彼が心変わりしても傷つかないよう、心の一番大事な部分は明け渡さなかった。
それでも、彼は迷うことなく愛してくれた。
卑怯な自分を、両手を広げて迎え入れた。
どれだけ彼のためだと言っても、聞き入れてくれなかった。何十年経っても、子供から大人になろうと、ヴィクトールの愛だけは変わらなかった。
だからこそ地位も名誉も何もない自分に何が出来るのか、未だに悩んでいる。
「離れたくらいで変わる愛なら、それは、本物じゃないんですよ」
あっさりと言い切る。
そのとき、前方を照らしていた炎が、壁に走る細い亀裂を浮かび上がらせた。
「あ、亀裂! 亀裂がありますよ、ビトル!」
沈みかけていた表情が、ぱっと明るくなる。
炎を近づけてみれば、岩壁に走った亀裂の向こうに、細い空間が続いているのが見えた。
「そなたが魔法を使い続けていたゆえだろう。この領域に綻びが生じたのだ」
「ここから出られそうですね。行ってみましょうか」
「待たれよ。これは本来の出入口ではない。この裂け目の先に何が待っておるか、余にも分からぬ。安全である保証などどこにもない」
「通ってみなけりゃ、わかりませんよ。行きましょう!」
「こら、待て」
止める声などどこ吹く風。レティシアは亀裂へ駆け寄ると、さっそくその奥を覗き込んだ。
亀裂の先には、一メートル四方ほどの岩穴が斜め上へと伸びている。奥からは、かすかに風が吹き込んできていた。
「風ですよ、風! たぶん外につながってますよ」
「だからといって、安全とは限らぬと言うておるのだが……まったく、そなたは人の話を聞かぬな」
ビトルの懸念をよそに、レティシアはすでに亀裂の縁へ手をかけていた。
ごつごつとした岩肌に指をかけ、足場を探りながら体を持ち上げる。狭い穴を上へ、上へとよじ登っていくにつれ、吹き込んでくる風が少しずつ強くなっていった。
頭上に光が見える。
「あ、出口!」
俄然やる気を出したレティシアは、最後の岩の出っ張りに手をかけた。
「よい、っしょ!」
掛け声とともに体を引き上げ、穴の外へ這い出す。
「出た!」
そのまま勢いよく立ち上がった彼女は、動きを止めた。
視線の先にいたのは、ヴィクトールだった。
彼の腕の中には、若く美しい女性がいた。ヴィクトールに腰を支えられたその女性は、不安そうな表情を浮かべていた。
突然、地面の亀裂から姿を現したレティシアに、その場にいた全員が言葉を失う。
静寂が落ちた。
ほんの数秒にも満たない時間だったはずなのに、妙に長く感じられる。レティシアは両手を芝についたまま、じっとその光景を凝視した。
(夫と、彼の腕に抱かれる見知らぬ美女が、乳繰り合っている)
何かを問いかけることも、事情を確かめることもなかった。
(――体強化、敏捷強化、反応速度向上、打撃強化)
全身の能力値を一気に引き上げる。
無言で立ち上がった次の瞬間、その姿が掻き消えた。
「なっ――」
一息で間合いを詰め、ヴィクトールの懐へ入ると、鋭い蹴りが放たれた。
ヴィクトールは反射的に女から腕を離し、両腕を交差させて防御する。
鈍い音を立てて、蹴りがその両腕を捉えた。
「ぐ……っ!」
靴底が食い込み、その威力にヴィクトールの体が後方へ押し込まれる。だが、それで終わりではなかった。
ヴィクトールの手が、レティシアの蹴り足を掴む。そのまま引き上げられ、レティシアの体がふわりと宙に浮いた。
普通ならそこで体勢を崩すが、レティシアは空中で身をひねった。
掴まれていないほうの足を大きく振り上げと、容赦のない回し蹴りが彼の顔面を捉えた。
「ぐはっ!」
鈍い音とともに頬を打ち抜かれ、ヴィクトールの体が吹き飛ぶ。
地面を激しく転がり、土埃が舞い上がった。
レティシアは空中で体勢を整え軽やかに着地すると、追撃するように、一歩踏み出した。
その顔には怒りの表情すらない。
「ああ! 奥様! お待ちください!」
誰もが突然の出来事についていけず呆然と立ち尽くしていたが、そんな中、真っ先に我に返ったのはヴィクトールの執事であるアレクサンダーだった。
このままでは危険だと悟った彼は駆け出すと、レティシアとヴィクトールの間へ飛び込み、両手を大きく広げて立ちはだかった。
「奥様、そこまでです!」
その必死な声に、レティシアはぴたりと足を止めた。
レティシアは目の前に立ちはだかった男を見つめたあと、不思議そうに首を傾げた。
「……あれ? アレクサンダー?」
「はい! アレクサンダーでございます」
アレクサンダーは引きつった笑みを浮かべた。
背中を冷たい汗が流れていく。
これ以上事態が悪化しないよう祈りながら、慎重に言葉を選んだ。
「アレクサンダーだ! 久しぶり。ちょっと老けた? でも、ますます渋くなって素敵ね」
「ありがとうございます。お久しぶりでございます。奥様、そのお話は後ほど。まずは落ち着いてくださいませ」
「わたしは落ち着いてる」
「落ち着いている人間は、再会して早々、旦那様の顔面を蹴り飛ばしたりいたしません!」
「そうなの?」
「そうですとも」
即答だった。
レティシアは納得がいかないのか、ますます首を傾げる。
アレクサンダーはそんな彼女を刺激しないよう、必死に両手を広げたまま訴えた。
「と、とにかく! これ以上はおやめください。旦那様が死んでしまいますよ!」
吹き飛ばされたヴィクトールが地面に転がったまま、苦しげに上体を起こしていた。
レティシアは「ふむ」と口元を押さえた。
「まだ生きているとは、しぶといな」
「本気で仕留めようとなさらないでください!」
一歩でも退けば、主人が文字どおりこの世から消されかねない。
「でも、浮気をしたら死んで詫びると」
「自ら死ぬのと、殺されるのとでは話が違います」
レティシアは不思議そうに、ヴィクトールとアレクサンダーを交互に見比べた。
「え? そうなの? でも、こいつが」
「奥様、『こいつ』は少々お行儀が悪いかと……」
「ヴィルが」
「はい」
レティシアはアレクサンダーの肩越しからヴィクトールを睨みつけた。その声は恐ろしいほど穏やかだった。
「わたしの目の前で浮気しやがったでしょう? これは死んで当然なのでは? 本人も納得していることだし」
「奥様。まずは落ち着いて、話し合いましょう。ね?」
「私は落ち着いている」
「でしたら、その握り締めた拳をお開きくださいませ!」
言われて、レティシアは自分の右手へ視線を落とした。
いつの間に力を込めていたのか、その手は固く握り締められている。
「蹴るのがダメなら、殴ろうかと」
申し訳程度に開かれたものの、今にも再び握り込まれそうなその拳を見て、アレクサンダーは額を押さえた。
「どちらもおやめください」
背後からヴィクトールの殺気じみた視線が突き刺さっている気もするが、今はそれどころではない。
「奥様、あの女性は旦那様の恋人でも愛人でもありません。そもそも旦那様は奥様一筋ですよ」
「へえ。そう言いながら、腰なんて抱いていたけど?」
アレクサンダーは反射的に後ろを振り返った。
確かに抱いていた。
客観的に見れば完全にアウトだ。
「転びそうになったところを助けただけだ!」
ヴィクトールが叫ぶ。
ごきり、と手の骨を鳴らす音がする。
その音に、アレクサンダーの顔から血の気が引いた。
「ああ、奥様! ち、違います! 本当に違うんです! ですからどうか、その拳をお下ろしくださいませ!」
必死の懇願に対し、レティシアはにっこりと微笑んだ。
それはまるで聖女のように美しい笑みだった。
だがアレクサンダーには、死刑宣告にしか見えなかった。土下座で回避出来るものなら、とっくの昔にやっていただろう。
「アレクサンダー、わたしはね……うっかり自分を収納しちゃって、外に出るのに五日半もかかったの。ようやく出てこられたと思ったら、自分の夫は妻の心配をした様子もなく、美しいご婦人の腰を抱いて楽しそうに笑っていたわけ。愛妻の行方を捜すでもなく、近隣に聞いて歩くでもない。もうね、その薄情さにびっくり」
その笑顔は崩れない。
だからこそ恐ろしい。
「一発くらい殴らないと、この衝撃を落ち着かせることなんてできないでしょう?」
「色々間違っております」
どこから突っ込めばいいのかわからない。
人間を収納したという時点でおかしいし、その後の展開もおかしい。だが、当のレティシアはまったく気にした様子がなかった。
「あっ! 大変! 急いで離婚協議書を取りに行かないと!」
くるりと踵を返した彼女に、廊下の向こうから悲鳴にも似た声が飛ぶ。
「やめてくれ!」
血相を変えたヴィクトールが立ち上がった。
「離婚はしない! 浮気もしていない! 躓いたアルビエール夫人を咄嗟に支えただけだ!」
その必死な弁明に、レティシアは「ふうん」とだけ返した。視線は凍えそうなほど冷たい。
「では聞くけれど、なぜその時のヴィルはあんなに嬉しそうだったの?」
「嬉しそうになどしていない! お前の目はどうなっているんだ。本当に見たのか? 抱いていなかったろう、支えただけだ!」
ヴィクトールは即座に否定したが、レティシアの疑いは一向に晴れそうになかった。
「なるほど。美しい女性が転びそうになったら、反射的に抱き寄せる習性があるのね」
「ない!」
「妻が五日半も行方不明だった間に、よくもまぁそんなくだらない嘘を――」
「嘘ではない!」
ヴィクトールは思わず声を荒げた。
「五年半だ! 五日半じゃない! 私がどれほど君を捜したと思っているんだ! 今日ここに来たのだって、君を捜してだ!」
その言葉に、レティシアの表情が揺らいだ。
だが、それもほんのわずかな時間だった。
「……それと、女性を抱き寄せることに何の関係があるの?」
「あるだろう!?」
二人の会話を聞いていたアレクサンダーは、困り果てた。
その背後へ音もなく回り込んだレティシアは、にこやかな笑みを浮かべたまま、そっと肩に手を置いた。
「アレクサンダー」
名を呼ばれたアレクサンダーは文字どおり飛び上がった。
「は、はい!」
反射的に振り返る。
目の前のレティシアか立ち上る圧力は、まるで笑顔とは正反対だった。
「この筋肉オバケと、か弱いわたし。どっちを信じるの?」
通常、魔力の重ねがけは二重が限界だと言われている。
だがレティシアは、それを当然のように五重にまで重ねていた。
常識外れの魔力圧に、アレクサンダーの背筋を冷たいものが走る。
「……か弱くは、ないような」
思わず漏れた本音だった。
「アレクサンダー?」
地の底から這い出るような低い声が降ってくる。
ぞわり、と全身の毛が逆立った。
アレクサンダーは再び飛び上がる。
「も、もちろん奥様です!」
即答だった。
生存本能が導き出した、唯一にして絶対の正解である。
「ね? そうよね?」
レティシアは満足そうに大きくうなずくと、両手をぶらぶらと振りながら首を回した。
その様子を見たヴィクトールは、静かに息を吐く。
戦うか、殴られるか。
そんな理不尽な二択を突きつけられている気分だった。
仮に戦ったとしても勝率は五分五分だろう。だが問題はそこではない。自分は本気で蹴ってくるレティシアを相手にできても、決して彼女を殴れない。つまり、実質的に敗北は確定している。
「あ、あの……レティシア様」
後ろからおずおずと声を掛けられた。振り返ると、先ほどヴィクトールに抱き留められていた女性が、青ざめた顔で立っている。
(美女だ)
レティシアの目が思わず輝いた。
緩やかに編み込まれた亜麻色の髪。透けるように白い肌。薔薇の花弁を思わせる赤い唇。コルセットで引き締められた腰は驚くほど細く、すらりと伸びた手足が優雅な立ち姿を際立たせている。
見惚れるほどの美貌だった。
(こんな美女とイチャコラしているなんて……絶対に許せない。わたしだって、こんな美女とイチャコラしたい。頭を撫でて、いい子いい子してもらいたい)
レティシアは内心でそう結論づけた。
「ランドール伯爵の妻、シエナ・イル・ランドールでございます」
シエナはスカートの裾を摘み、優雅に一礼する。
「お話の途中で申し訳ございません。ですが、奥様が誤解なさっているようでしたので」
青ざめた顔のまま、それでも気丈に言葉を続けた。
「本当に躓いて転びそうになったところを、ヴィクトール様に支えていただいただけでございます」
レティシアはヴィクトールとシエナを交互に見比べた。
その間に、ヴィクトールは瓦礫の山から立ち上がり、乱れた服についた埃を払い落とす。
「……勘違いするような行動をする方が悪いと思う」
レティシアが真顔で言い放つ。
「まずは謝罪だろう!?」
間髪入れずにヴィクトールが叫んだ。レティシアは舌打ちすると、大きく顔を背けた。
「ゴメンクサイ」
「あん?」
じろりと睨まれ、レティシアは視線を逸らす。
「……ゴメンナサイ」
謝った直後、ヴィクトールはレティシアをきつく抱き締めた。
「ぐえっ」
「私がどれほど心配したか!」
ヴィクトールのこめかみに青筋が浮かぶ。
「五年半だ。五年半待った!」
レティシアはばつが悪そうに頬をかいた。
「……ごめんね。つい、うっかり」
「うっかりで五年半も消えるな」
即座に返され、さすがのレティシアも黙り込んだ。
ヴィクトールは抱き締める腕に力を込める。
「ぐええぇっ!」
「会いたくて、気が狂うかと思った」
その声は、ひどく掠れていた。
レティシアは目を伏せる。
「レティの両親にも心配をかけた」
「あー……」
レティシアは気まずそうに頬をかき、何とも言えない顔をした。自分の両親の反応など、聞かなくてもある程度は想像がついている。
「なんか言ってた?」
「どこかで罠に引っ掛かっているんだろうと言っていた」
一瞬、沈黙が落ちた。
レティシアはまばたきを繰り返した。
「的確だけど、なんか腹が立つ」
さすが実の親というべきか。娘への理解が深すぎる。
「レティがいないことに耐えられなかったら、離縁してもいいとも言われた。もちろん断ったが」
ヴィクトールは当然のことのように言った。その声音には迷いも未練も一切ない。
レティシアは呆れたように肩をすくめると、そっと彼の胸に頬を寄せた。腰へ腕を回し、その温もりを確かめるように抱きつく。
「遠慮なんてしなくていいのに」
半ば呆れ、半ば嬉しそうな声音だった。
しかしヴィクトールは即座に首を横へ振る。
「妻にしたいのはレティだけだ。レティ以外、考えられない」
あまりにも迷いなく返された言葉に、レティシアは思わず目を見開いた。
照れも気負いもない。ただ当然の事実を口にしただけという顔だった。
五年半もの間、自分を捜し続けた男だ。その言葉に偽りなどあるはずがない。
レティシアはふっと小さく笑う。
「本当にバカね」
呆れたように言いながらも、その声はどこか優しかった。
ヴィクトールはそんな彼女を見下ろすと、今度こそ強く腕を回した。
「自覚はある」
「あるんだ」
「レティのことになると特にな」
真顔で返され、レティシアは思わず吹き出した。
体がふわりと浮く。
「わっ」
気付けばヴィクトールの腕の中だった。
レティシアを軽々と抱き上げたヴィクトールは、そのまま周囲の面々へ軽く会釈する。
「話はまた後で」
それだけ言い残すと、返事を待つことなく踵を返した。
「ちょっ、ヴィクトール?」
抗議の声など意に介さない。
五年半ぶりに取り戻した妻を抱え、ヴィクトールは一直線に寝室へ向かった。




