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うっかり五年半失踪したら、夫の愛がさらに重くなっていました  作者: 市丸 七喜
■新妻 五年半失踪する■

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12/20

✽

 ルーペンサーの住居は、王都の郊外にあった。

 人の往来から外れた森の奥。周囲に民家はなく、聞こえるのは風に揺れる木々のざわめきだけだ。世間そのものを拒絶するかのように、一軒の平屋がひっそりと佇んでいる。

 木造の家屋は長年の風雨に晒され、外壁は薄汚れ、ところどころ塗装も剥がれていた。庭には雑草が好き放題に伸び、住人が手入れをしている気配はまるでない。

 ヴィクトールは馬を降りると、その家を見つめた。


(これが王国屈指の魔術師の住処か。完全に世間との関わりを断ち切っているな)


 ヴィクトールは扉を力強く叩いた。軋む音とともに扉が開く。姿を現した人物を見た。

 魔術師と聞いていたため、勝手に白髭を蓄えた老賢者のような人物を想像していた。

 しかし、目の前に立っていたのは想像とは正反対の存在だった。

 年の頃は十五、六。まだ少年と呼んでも差し支えないほど若い。肩口で揺れる栗色の巻き毛に、細い目。やや角張った輪郭には幼さが残り、華奢な体格も相まって頼りない印象すら受ける。

 だが、視線を交わしただけで、只者ではないと理解できた。彼の瞳の奥には年齢不相応の知性と落ち着きが宿っていた。

 簡単な挨拶を交わすと、ルーペンサーは意外にもあっさりとヴィクトールを家の中へ招き入れた。

 決して広くない部屋の中央には六人掛けほどの大きな机が置かれており、その上には実験器具や羊皮紙、インク瓶が無造作に並べられていた。

 机の端では奇妙な液体が入ったフラスコが淡く光を放っている。床へ視線を移せば、分厚い魔術書が無造作に積み上げられている。

 崩れかけた塔のように積まれた本の山は、一つや二つではない。どれも、わずかな衝撃で雪崩を起こしそうだった。

 家の中には、衣服や装飾品といった生活の痕跡はほとんど見当たらない。

 この家そのものが、一人の魔術師の頭の中を形にしたようだ。


「レティシアを捜されているんですね」


 不意に言われ、クレイモンは目を見開いた。


「どうして、そのことを……」


 ルーペンサーはクレイモンの胸元にある、ラグエル騎士団を示す獅子と百合の紋章を指さした。


「クレイモン卿は、ラグエル騎士団の団長でしょう? 以前、手紙でレティシアからあなたのことを聞きました」


 そう言って、ルーペンサーは懐かしそうに目を細めた。


「レティシアは、子供のころから非常に優秀でした。高い魔力を持ち、誰よりも研究熱心でひたむきな子で」


 その声音には、教え子を語る者特有の温かさが滲んでいた。


「六つになる前には私のもとへやって来て、弟子として修行を始めました。そして十歳になると、賢者アルテラに見込まれ、内弟子となったのです」

「十歳で……?」


 クレイモンが思わず聞き返す。


「ええ」


 短い返事には、誇らしさがあった。

 レティシアは本来であれば魔法省に勤める必要すらなかった。導師の直弟子として研究の道を歩むこともできたはずだが、彼女は家計を支えるため、自ら魔法省への道を選んだ。

 その決断がどれほど重いものだったのか、ヴィクトールには少しだけ分かる気がした。


「今日は導師に伺いたいことがあり、まいりました。導師は先日、『天使ラジエルの書』を解読されたそうですね。その中に、『ビトル・マイヤスは巨大な太陽に焦がれ、その太陽を別次元へ閉じ込めて愛でている』という一節が記されていたとか。導師は、『太陽』が私の妻、レティシア・ソレイユを指すものだと断言されたと伺いました」


 ルーペンサーの瞳が鋭くなる。


「そのご見解に至られた理由を、ぜひお聞かせ願いたいのです」


 ルーペンサーは椅子の背にもたれかかった。


「……『天使ラジエルの書』をご覧になったことは?」


 ルーペンサーの問いに、ヴィクトールは首を振った。


「いいえ。ありません」

「でしたら、ぜひご覧になるといいでしょう」


 ルーペンサーはそう言うと、机上に置かれた古い書物へと目を向けた。ひび割れた革表紙は歳月を物語り、黄ばんだ頁からは微かな魔力の気配が漂っている。


「あの本からは、レティシアの気配を感じるのです。彼女はあの悪魔に囚われている」


 ヴィクトールは弾かれたように立ち上がった。

 激しい動きにテーブルが揺れ、並べられた硝子瓶がぶつかり合って乾いた音を立てた。


「ビトル・マイヤス・ガルディア・ノスト・イル・バラモンは、七十二の魔神軍団において序列五十一番に数えられる悪魔、バラムの愛し子とされています。ビトル自身は悪魔としては非常に未熟な存在です。争いそのものを好まず、人間に害を与えたという記録もほとんど残されていません」


 ルーペンサーはそこで一度言葉を区切った。


「少なくとも、我々が知る限りでは人間の営みにも強い興味を示さず、自ら干渉することも稀だと言われています」


 部屋の空気が張り詰める。ルーペンサーは表情を崩さなかった。


「危険なのですか」

「干渉することが稀というだけで、油断してよい相手という意味ではありません。未熟であることと、危険でないことは別の話です」


 ヴィクトールは思わず息を呑んだ。


(ビトル・マイヤス・ガルディア・ノスト・イル・バラモン)


 長く奇妙な名が、呪文のように脳裏へ刻み込まれていく。

 ルーペンサーは机の上に散らばる羊皮紙へ視線を落としたまま言った。


「悪魔と聞けば、多くの者は人を惑わせ、破滅へ導く存在を思い浮かべるでしょう。ですが、彼らの本質はそれだけではありません。悪魔は非常に執着心が強い。ひとたび気に入ったものがあれば、決して手放そうとはしないのです」


 ヴィクトールは微かに眉をひそめた。

 説明のつかない不安がざわりと広がる。


「人であれ物であれ、自ら価値を見出したものを巧みに騙し、自分だけの領域へ引き込みます。誰にも奪

われぬように、誰にも触れさせぬように閉じ込めるのです。そうして永遠に、自分だけの宝として愛で続けるのですよ」


 その話が、なぜだか現在行方不明となっているレティシアの姿と重なった。


(悪魔に気に入られた者)


 胸騒ぎは、もはや予感に近かった。


(もしルーペンサーの語る悪魔がこの国に存在するのなら、レティシアは……)


 そんな想像が脳裏をよぎり、ヴィクトールは無意識に拳を握り締めた。


「ビトル・マイヤスを呼び出すには、どうしたらいいのですか」


 ヴィクトールは身を乗り出すようにして尋ねた。ルーペンサーは散らばる資料から目を逸らして言った。


「彼が所有する異界へ繋がる出入口を破壊するしかありません。彼の領域は外界とは異なる法則によって成り立っています。こちらの世界から直接干渉することは極めて難しい。ですが、その境界を支える出入口が失われれば、異界そのものが不安定になり、所有者であるビトル・マイヤスも表へ引きずり出されるでしょう」


 ヴィクトールは両手をテーブルについた。


「彼の魔力は甚大です。純粋な魔力量だけで言えば、悪魔の中でも十指に入るでしょう。さらに厄介なのは、彼の所有する異界そのものです」


 ルーペンサーは羊皮紙の一枚を指先で押さえながら続けた。


「彼の作り出す異界では、時の流れがこちらとは大きく異なります。正確な比率は不明ですが、記録を照合した限りでは、おそらく向こうでの一日が、こちらでの一年に相当します」


 ヴィクトールは意味を理解できなかった。


「……一年が、一日?」


 声が絞り出される。


「推定に過ぎませんが、その可能性は高いでしょう」


 室内に重苦しい沈黙が落ちた。

 ヴィクトールの脳裏に、最悪の想像がよぎる。


(もしレティがその異界へ連れ去られているのだとしたら、彼女にとっての数日が、こちらでは数年に相当することになる)


 どちらにせよ、常識では測れない時間の隔たりが生まれている。

 気づけば握った拳に力がこもっていた。


「レティシアが失踪してから、どれほど経ちましたか」

「五年になります」

「彼女の体感では、おそらく五日ほどが過ぎた頃でしょう」


 ヴィクトールの表情が強張る。


「……五日?」


 漏れた声はかすれていた。

 部屋を満たす沈黙が、急に重く感じられた。


「もし、レティが時間流の差に気づかなかったら」


 彼は強く拳を握り締めた。骨が軋むほどの力がこもる。


(世界の果てにいるなら迎えに行けた。どこにいようと、捜し出せた。だけど、生きている空間が違うなんて、そんなもの、どうやって手を伸ばせばいい)


 彼が四年を費やした喪失を、彼女はまだ四日しか経験していない。

 突きつけられた真実が、全身を深い絶望へ叩き落とした。


(彼女を取り戻すには、どうしたらいい)


 低く押し殺した声で聞く。


「ビトルという悪魔をこちらの世界に引きずり出すには、どうしたらいいのでしょう?」

「まずは彼の位置を特定する必要があります。ビトルが存在する座標を特定し、彼がこの世界と行き来するために使っている出入り口を見つけ出すのです」


 ヴィクトールは黙って頷いた。

 レティシアを取り戻せる可能性があるのなら、どれほど困難な道であろうと構わない。

 彼は迷わず、その地獄に足を踏み入れるつもりだった。

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