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うっかり五年半失踪したら、夫の愛がさらに重くなっていました  作者: 市丸 七喜
■新妻 五年半失踪する■

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11/20

✽

 レティシア失踪から五年後

 パスティナール王国 グレイモント王城


 王城には、空を刺すような尖塔が十本そびえている。

 白い外壁は遠目にも鮮やかで、その広大な壁面には数え切れないほどの窓が並んでいた。城の周囲には趣の異なる庭園がいくつも設けられ、敷地までもが王国の威容を示している。

 十二ある会議室のうち、西側に位置する一室は地上八階にあった。

 窓の外には庭園と王都の街並みが広がり、さらにその向こうまで見渡すことができる。晴れた日には遠くの山並みすら望める、城内でもひときわ眺望に恵まれた部屋だった。

 その日、そこには国政の中枢を担う三十人が集まっていた。

 長く続いた会議がようやく終わり、重臣たちがそれぞれ席を立つ。椅子を引く音が重なり、閉ざされていた扉が開かれた。

 ヴィクトールもまた、手元の書類をまとめて席を離れた。

 会議室を出ようとしたところで、不意に背後から声がかかった。


「クレイモン侯。少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか」


 聞き慣れた低い声に、ヴィクトールは足を止めた。振り返ると、そこにはベントール伯爵が立っていた。

 その表情を目にしたヴィクトールはこれから語られる内容を察した。

 胸の奥に、冷たい苛立ちが広がる。


「失礼を承知で申し上げますが、奥方が姿を消されてから、すでに五年が過ぎました。これほど長く行方が知れない以上、多くの者はすでに結論を出しています」


 ヴィクトールは何も答えなかった。

 否定も肯定もせず、沈黙のまま続きを促した。


「もちろん、私も奥方のご無事を願ってはおります。君が諦めていないことも理解しているつもりです。だが、クレイモン侯爵家の立場を考えれば、いつまでも独りでいるわけにはいかないのではないでしょうか」


 ヴィクトールの瞼が軽く痙攣する。


(余計な話を……クソが)


 五年もの間、幾度となく向けられてきた視線。哀れみと同情、そして貴族としての義務を説く善意。誰もがもっともらしい理屈を並べたが、彼らは彼女が死んだと決めつけることが、ヴィクトールにとって何を意味するのか知らない。


「奥方のことを忘れろとは言いません。ですが、人は前を向いて生きていかねばならんでしょう。新たな縁を結ぶのも、一つの選択ではないかと」


 妻の不在を現実として突きつけられるたび、痛みは少しずつ深くなっていた。ヴィクトールは口を開いた。


「伯爵」


 声は奇妙なほど穏やかだった。


「あなたのご忠告には感謝します。しかし、妻は少し外出が長引いているだけです。いずれ戻ってくるでしょう」


 揺るぎのない断言だった。

 伯爵は咳払いをすると、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべて続けた。


「実は、私には五女がおりましてな。二十二になりました。教養もあり、家のこともよく学んでおります。領地経営にも理解がありまして、侯爵夫人として不足はないかと」


 遠回しな言い方ではあったが、意図は明白だった。

 会議室に残っていた数人の貴族たちも、会話の行方を察したらしい。気まずそうに視線を逸らす者もいれば、興味を隠し切れず耳をそばだてる者もいた。

 伯爵はなおも言葉を続けた。


「もちろん、すぐにどうこうという話ではありませんぞ。もしよろしければ、一度顔合わせだけでもと思いましてな」


 誰もが「妻はもう戻らない。死んだのだ。諦めて次に進め」と同じことを言う。


(このクソ虫どもめが)


 沈黙が落ちた。

 長い沈黙だった。

 ヴィクトールは何も言わず、ただ伯爵を見ている。

 それだけなのに、周囲の人間たちは息苦しさを覚え始めていた。


「お気遣いはありがたく存じます。ですが、そのようなお話はお断りいたします」


 伯爵は何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言えず、息を吐いた。

 それ以上、この話を続けるべきではないと悟ったのだろう。

 ヴィクトールは一礼すると、踵を返した。

 背後から追ってくる声はなかった。


「よく耐えましたね」


 会議室から執務室へ戻ったヴィクトールに、側近であるルカが労わるような声をかけた。


「もう聞いていたのか」


 上着を脱ぎ、椅子に腰かける。

 机の上で固く組まれた拳には、なお怒りの余熱が残っていた。


「伯爵家への融資をすべて停止しろ。付き合いは終わりだ」


 低く抑えられた声には、有無を言わせぬ威圧感が滲んでいた。


「かしこまりました」


 ルカは頭を下げ、執務室を後にした。

 一人残されたヴィクトールは、椅子の背もたれに深く身を沈めた。

 怒りに任せて言葉をぶつけたところで、心に空いた穴が埋まるわけではない。胸の内に残るのは、どうしようもない喪失感だけだ。

 先ほど吐き出された言葉が、不意に脳裏によみがえる。


(いつまでも独りでいるわけにはいかない、か……)


 この五年の間に、ヴィクトールは父の後を継いで爵位を継承し、王国騎士団の総大将の座にも就いた。誰もが羨むほど順風満帆な出世だった。

 地位も名誉も手にしたはずなのに、肝心なものだけがない。手の届かない場所へ消えてしまった。

 貴族としても、一族の当主としても、跡継ぎを考えなければならない年齢になったことはわかっている。それでも彼女を諦められない。

 ヴィクトールは固く目を閉じた。


(レティ……どこにいるんだ。なぜ帰ってこない)


 答えのない問いだけが、ヴィクトールの胸を締めつけ続けていた。

 彼女はどこかで生きている。いつか必ず、自分のもとへ帰ってくる。そうでなければ、この長すぎる日々に耐えられない。


(レティ)


 呪文のように、何度も何度も心の中で繰り返す。

 夜ごと押し寄せる焦燥。探しても探しても見つからない現実が、少しずつ彼の心を蝕んでいた。


(君がいなくなって、寂しいよ……会いたくて、会いたくて死にそうだ)


 閉じた瞼の裏に、愛しい笑顔が浮かぶ。

 不意に近づいてくる足音に顔を上げる。扉を叩いたのはルカとは別の若い従者だった。


「閣下、奥方様に関する情報で気になるものがございます」


 その言葉に、ヴィクトールは弾かれたように顔を上げた。


「なんだ?」

「先日、ロクサルヌ卿が王立図書館において『天使ラジエルの書』を発見されました。その際に同行されていた大魔導師ルーペンサー殿のお話によれば、同書には大天使チャミュエルが残したとされる、いくつかの預言めいた言葉が記されていたそうです。その一節として、『ビトル・マイヤスは巨大な太陽に焦がれ、その太陽を別次元へ閉じ込めて愛でている』との記述があったと伺っております」


 ヴィクトールは眉をひそめた。

 言葉の一つ一つを頭の中で反芻してみるが、まるで繋がらない。


「大魔導師ルーペンサー殿は、大天使チャミュエルの語った『太陽』という存在が、レティシア様のことではないかと推測されているようです」


 ヴィクトールは世界から音が失われたような錯覚を覚えた。時が止まったかのように、部屋の空気が凍りつく。

 結婚前のレティシアの名は、レティシア・ソレイユ・フォン・デマレ。『ソレイユ』とは、他国の言葉で『太陽』を意味する。

 ヴィクトールの思考は完全に停止した。


「……っ!」


 胸が大きく脈打った。鼓動は激しさを増し、全身を熱い血が駆け巡る。

 長い闇の中を手探りで彷徨い続けていた彼の前に、一筋の光が差し込んだ。探し求めていた答えに、ようやく辿り着けるかもしれない。


「ルーペンサーはどこにいる!?」


 ヴィクトールは弾かれたように立ち上がった。椅子が激しい音を立てて床を擦る。何年もの間、諦めずに追い続けた願い。その先にようやく見えた希望を、彼は決して逃すつもりはなかった。


「は、はい! 現在は郊外の実験室に――」


 部下の言葉が最後まで続くことはなかった。

 ヴィクトールはすでに身を翻し、執務室を飛び出していた。

 長い廊下を駆け抜ける。

 普段なら冷静沈着な彼の足取りは、かつてないほど速かった。胸の奥で激しく脈打つ鼓動が、体を急き立てる。

 ヴィクトールは城門へ駆け込み、待機していた愛馬へ飛び乗った。


「行くぞ!」


 手綱を引くと、馬は主人の焦燥を感じ取ったかのように地を蹴る。

 風が頬を叩き、景色が凄まじい速度で後方へ流れていく。

 期待と不安が入り混じり、胸の内は嵐のようだった。

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