第7話 初めて
急に周の手が止まると、莉子は首を傾げた。
「藤田くんもう塗り終わったの?」
「ま、まだです」
周は慌てて自分の手を動かして再び軟膏を塗り始めた。
今更、無理だって止まると変に思われるだろう。まずは落ち着け。怪我した人に薬塗ってやるだけだ。変に意識する必要なんてない。これはあくまで手当てなんだから。
そう自分に何度も言い聞かせながら、周は意識しないよ努めた。だが、軟膏を塗るためには仕方なく莉子の手に触れなければならない。そのたびに、伝わってくる柔らかな感触が、どうしても莉子を意識させてしまう。
これは手当てだ。これは手当てだ。これは手当
「藤田くん、ごめん」
いきなり莉子が周に謝った。突然の謝りだったからだろうか、さっきまで混乱していた周の頭の中は、その一言でふっと静かになった。
「私のせいで藤田くん苦労したでしょ。母さんの代わりに来たくせに、藤田くんに全部やらせちゃって。そのうえ怪我までして、迷惑ばかりかけて。ほんーと情けないよね」
莉子の声に元気なかった。実際、莉子は周が一人でコーヒーを淹れ、客にドリンクを運ぶ姿を見つ目ながら、ずっと申し訳ない気持ちを抱いていた。自分の不甲斐なさのせいで、誰かが苦労している。その光景を目にしていると、椅子に座って休んでいても、全く気が休まらなかった。
「ごめんね。私がもっと役に立たないといけないのに。私のせいで」
「七瀬さん」
周はゆっくりと顔を上げた。
「さっきも言ったが、ちゃんと聞かなかった俺の責任だよ。七瀬さんがコーヒー淹れられるって勝手に思い込んで、任せちゃったんだから。ごめん」
「なんで藤田くんが謝るの。全部私が悪いのに」
「いや、その気持ちをわかるのに、あんなことしちゃいけなかった」
周の言葉に、莉子は首を傾げた。
「俺もこの店でバイトを始めたばかりの頃は何もわからなかったんだ。コーヒーの淹れ方とか接客とか、全部店長に一から教えてもらったんだ。だから、七瀬さんの気持ちは十分わかる。まだちゃんとできるかもわからないのに任されると、不安になるし、怖いよね。俺は店長がそばで見ていてくれたけど、七瀬さんは本当に一人だったから」
店長に素人だと聞いたのに、勝手に思い込んで一人にしてしまった。ちゃんと確認するべきだったのに。
「謝らなきゃいけないのはこっちだよ。一人にして、ごめん」
そう莉子に謝って周は再び視線を落として静かに軟膏を塗り続けた。莉子は何も言わずに呆然として周を見て、静かに口を開いた。
「藤田くん」
「ん? どうした」
「藤田くんって、いい人だね」
「え・・・えぇ?!」
あまりにも突然の一言に、驚きのあまり声が裏返った。周は目を丸くしたまま莉子をぼーっと見つめた。
「今まで藤田くんと話したことないから知らなかったけど、藤田くんって意外と優しいんだね」
「い、いや。優しいとか俺はそういう」
「へえ、照れてる」
莉子は揶揄うように笑った。
「こんなに他人の心配してくれるし、薬も塗ってやるんだもん。優しい。正直に言ってみて。よく優しいって言われてるでしょ」
「一度もない」
「へえーマジで?! 一度も聞いたことないの?」
「ない」
周はほんのり顔を赤めて目を逸らして答えた。そもそも学校で話すのはみなとしかいない。あいつが俺に「お前優しいね」っていうはずもないし、言われたくもない。
「じゃ私が初めてだね?」
莉子の声に、周はびっくりしてパッと顔を向けた。莉子はイラズラっぽく笑っている。
「藤田くんの優しさを知ったのは、私が初めてなんだよね?」
「そ、それが」
周は返事に詰まった。莉子の問いに、「そう」と言うのも気恥ずかしいし、「違う」と否定したら相手が悲しむかもしれない。冗談だと思って適当に受け流そうとした。だが、莉子は「答えてね」と言わんばかりの眼差しでじっと周を見つめている。
「その・・・あ、塗り終わったよ!」
周はパッと立ち上がった。幸いにも、ちょうど薬を塗り終えたところだったため、ごく自然に話題を逸らすことができた。周は軟膏の蓋を閉めて更衣室の方を指さした。
「俺、これ元の場所に戻してくる」
「藤田くん」
周が更衣室へ足を向かおうとした瞬間、莉子に呼び止められた。周がゆっくりと振り返ると、莉子は眩しい笑顔を浮かべて言った。
「ありがとう。藤田くんがいてほんーとよかったよ」
満面の笑みで感謝を伝える莉子を見て、周は両頬がじんわりと熱くなるのを感じて、慌てて顔を背けた。そして、逃げるように更衣室へと駆けていく。
「本当に優しいんだね。藤田くんって」
慌ただしく逃げていく周の背中を見て、莉子は小さく微笑んだ。




