第5話 怒る
「ありがとうございます。少々お待ちください」
最後の客の注文まで全部取った周は、やっと一息つくことができた。
「うあ、喉乾いた」
途切れることなく接客を続けて、話し続けていたせいで、喉がカラカラだった。冷たい氷水が飲みたかった。店に製氷機があるが、それはコーヒー器具の隣に置かれている。周は水を飲むついでに、注文が書かれたメモ紙を莉子に渡そうと思って振り返った。
「七瀬さん、注文入っ・・・うあ! 何これ」
周は目を見開いたまましばらく言葉を失った。テーブルの上に倒れたポット。あちこちに溢れた水。コーヒー粉らしき茶色い粉があちこちに溢れている。そして、その惨状の中心には、莉子が両手を握り合わせ、俯いたまま立ち尽くしていた。莉子のエプロンは水に漏れたのか、一部分だけ色が濃く染まり、コーヒー粉が張り付いている。
「な、七瀬さん!? これは一体どういう・・・」
周は自分が目にした光景を信じられなかった。一体何があったら、ここまでめちゃくちゃになるのかわからなかった。
「一体何があったんだ」
「コーヒーを淹れようとしたけど、それがうまくいかなくて」
今までこの店で何度もコーヒーを淹れてみたが、ここまでひどい有様になったのをみたことは一度もなかった。一体何をどうしたら、こんなことになるのだ。
「ごめん。私実はコーヒー淹れられない」
「え・・・?」
周は唖然とした。今、自分が何を聞いたの全然飲み込めなかった。
「コ、コーヒーを淹れられないんだって?」
「うん」
莉子は頷きながら答えた。今度はちゃんと聞いた。でも、信じられないのは変わらなかった。だって・・・
店長の娘だろ!
莉子は店長の娘である。しかも、店長の代わりに仕事を手伝いにきたのに、コーヒーを淹れられないんだって。
「当然、作れると思ってたのに」
周はぼーっとして呟くように言った。
「なんで言わなかった? コーヒー淹れられないって」
「言おうとしたよ。何度も話しかけてみた。でも、藤田くん忙しかったから」
「俺を呼んだと?!」
全然知らなかった。七瀬さんが俺を呼び続けていたなんて。
言われてみれば、メモ紙を渡すたびに、七瀬さんが何か言おうとした気がする。しかし、次のお客さんが待っていたため、気のせいだと思ってすぐに接客しに行った。
「呼んでたんだ。ごめん。忙しくて聞こえなかった」
「いいや、こっちこそごめん。もっと早く言うべきだった」
莉子は頭を下げて謝った。誰が悪いなどどうでもいい。いずれにせよ、こうなった原因が自分にあることは明らかだった。
「注文が次々に入ってきたから、なんとかコーヒーを淹れようとしたんだけど、うまくできなくて・・・ごめん」
「で、こんなことになったわけなの?」
「うん」
周はめちゃくちゃになった厨房を見回した。そんな中、莉子が手を重なっていることに気づいた。まるで、自分の左手のこうを隠すかのように、右手で左手を覆っている。
「七瀬さん、手どうしたんだ」
「え、えっ?! なんでもないよ」
莉子は慌てて手を後ろに隠した。おかしいだと思った周は、莉子に近づいて左手を掴んだ。
「藤田くん?! いきなり何を」
「やっぱり」
周は莉子の左手の甲を見て、小さく呟いた。
真っ白な莉子の肌が、ほんのり赤く腫れ上がっている。
「これ、どうした」
「た、大したことないよ。気にしないで」
莉子は慌てて手を引っ込んで再び後ろに隠した。しかし、周はそれを逃さずに、もう一度彼女の手を取った。
「火傷したんじゃない? 赤いだが」
「だ、大丈夫だって。ちょっとお湯に
さっき、なんとかコーヒーを淹れようとしたときだった。ママがやっていたのを見た記憶を必死に蘇らせてコーヒーを淹れていた。
コーヒーの粉にお湯を注ごうとしたとき、思っていたよりポットが重くて手が小刻みに震えた。そのせいで、お湯があちこちに跳ね、そのうちの一滴が運悪く莉子の手の甲にかかった。
「暑っ・・・きゃあああっ!』
突然の熱さに驚き、思わずポットを持っていた手を反対の手に添えてしまった。そのせいで、熱いお湯が手の甲に勢いよくかかってしまい、驚いた拍子にポットを手放してしまった。あちこちにお湯を溢してしまったが、そのときはそれを気にする余裕なんてなかった。熱い手の甲を冷やすために、すぐ隣にあったシンクで冷たい水を流し、手の甲を冷やそうとした。けれど、パニックになっていたため、周りを見る余裕がなかった。その結果、コーヒー粉まで溢してしまった。そして、現在の有様になってしまったのだ。
「本当に大丈夫? 火傷してるんじゃない?」
「本当に大丈夫だから」
莉子は手をぱっと引き、背中の後ろに隠した。
「そう?」
周はそう言って冷たく背を向けた。
怒ったかな・・・。
周の声がいつもより低かった気がする。
無理でもない。私のせいで厨房をメチャクチャにして、注文は溜まって・・・足手纏いにしかなってないじゃん。
腰を痛めたママの代わりにでたくせに、邪魔ばっかりしている。
「はあ、今日ついてなさすぎじゃん」
変んな人に絡まれるし。コーヒー一つまともに淹れられないし。バカみたいに怪我までした。
赤く腫れた手の甲が、ヒリヒリとしてきた。莉子は涙が出そうになった。
「ほんと、バカみたい」
目に涙が溜まり、視界がぼやけていく。莉子はそのまましゃがみ込んだ。今にも泣き出しそうで、涙が溢れそうで必死に堪えている中、暖かい声がひとつ聞こえてきた。
「七瀬さん、これ」
莉子はゆっくりと顔を上げた。
ぼやけた視界の向こうに、周の姿が見えた。
「これ、手に当ててて」
周は腰をかかめて莉子に白いタオルを差し出していた。




