犬は可哀想でもOK。子供はダメ。
犬が怖がる映像を可愛いという一方で、子供が怖がる映像には怒りを感じる。そんな二面性を備えた人間がいる。
これは不思議なことだ。
犬と子供になんの違いがある?
私は犬も子供も「弱い存在」だと認識している。
犬は人間社会が分からず、飼い主が適切に保護しなければ、ネギ類を誤って食べるなどの致命的な事故で命を落としてしまう。
子供は世界のルールが分からず、大人が適切に保護しなければ、誤って危険な存在に触れてしまい、致命的な問題で命を落としてしまう。
つまり、両者ともに「保護される対象」であるという認識がある。
だから私は、怖がる犬や子供の映像を見ても一律で「1人だね」としか思わない。
――しかし、世の中には、「犬はOK。子供はダメ」という二面性のある人間がいる。
彼らはどんな認識で動いているのだろうか?
◇
私が思うに、概念の習得と習得した概念による観念操作の差、それによって生まれる観念の歪みが関係しているように思える。
『犬』という小概念は動物の概念に属する。そして『動物』の概念に付随する「野性」「劣っている」「感情が少ない」「人間の意図は分からない」といったイメージは、実在の犬に対する接し方への観念を形成する。
その観念を端的に言えば、「人間社会にいる物言わぬ友人」といったものになるだろう。
その友人に対し、誠実に接する人間もいるだろうし、不誠実に接する人間もいる。
相手が「物を言う人間」ではないからこそ、誠実・不誠実といった態度の差がより跳躍するといった感じだろうか。
『子供』という小概念は人間の概念に属する。そして、『人間』の概念に付随する「社会性」「優れている」「感情が大きい」「相手の意図を読み取る」といったイメージが、実在の子供に対する接し方の観念を形成する。
その観念を端的に言えば「人間社会の一員」といったものになる。
その一員に対し、誠実に接する人間もいるだろうし、不誠実に接する人間もいる。
相手が「大きく反応する人間」だからこそ、誠実・不誠実といった態度の差は、周囲の人間の共感をより強く引き出すといった感じだろうか。
つまり、何が言いたいかと言うと「犬は可哀想でもOK。子供はダメ」という二面性のある人間は、同種族ではない犬の存在、その命に対して共感しづらいものがある。
「怯えている」という命のシグナルを、退屈な日常を彩り、自身の支配欲・庇護欲を満たすためのエンタメとして消費している。
しかし、そんな人間も同種である人の子に対しては、社会的な規範として、その撮影者を非難する。
そこから導き出される答えは、二面性のある人間は、概念から学習した観念をねじ曲げる主体なきモンスターということだ。
二面性が――今日もあなたの隣にいる。




