第3話 契約成立、らしい
真司の頭の中は、まだ整理がついていなかった。
正直に言えば、今でもレムのことを完全に信じたわけではない。
ヴォイドだの、異界だの、異界侵食だの。どれもこれも、ネット小説か、都市伝説系の動画に出てくる言葉みたいだった。
けれど、さっき見せられた光景は、ただの夢とも思えなかった。
星の海に浮かぶ機械都市。
赤い潮に呑まれた異界。
現実世界の空から降る赤い雨。
あれが全部作り物だとしたら、あまりにも出来が良すぎる。
真司はうつむき、受け止めきれないほどの情報を、どうにか頭の中へ押し込もうとした。
面倒事に巻き込まれるのは嫌だ。
自分が何か特別な存在だとも思わない。
それでも——。
今ここで、全部ただの夢だったと片づけて、目を覚まし、忘れて、元の日常へ戻る。
その選択肢だけは、なぜか妙に気持ち悪かった。
レムは、ぼんやり待っていたわけではなかった。
彼女は宙に浮かんだまま、指先を軽く走らせている。青い光を帯びた観測画面が何層も開き、音もなく彼女の前へ展開された。
赤い雨の記録。
現実世界側の反応。
侵食範囲の変化。
大量の情報が、水の流れのように、いくつもの層となって彼女の前を過ぎていく。
「これで、だいたい確認できたな」
レムは、考え込むように言った。
「漏出が起きた時期は、だいたいわしの予想の範囲内や。ただ、現実世界に出た影響は、思っとったよりずっと小さい」
彼女はそこで、少し言葉を切る。
「前の観測記録とも、似た傾向やな」
「けど、それでおぬしら人間が安心してええ、という話ではない」
レムは顔を上げた。
「異界の異変が解決されん限り、いずれもっと多くのものが現実世界へ漏れ出す」
「異変を起こした異界が増えれば増えるほど、ヴォイドと現実世界の境界も脆くなっていく」
彼女の声が、低くなる。
「その時は——」
「さっきの赤い雨より、もっとひどいことが起きるかもしれない。そういうことだろ?」
短い思考を終えた真司は、むしろ少しだけ冷静になっていた。
「だから、さっき言ってた“仕事”っていうのも、そのあたりに関係してるんだよな?」
そして、先に釘を刺しておく。
「先に言っとくけど、本気で命が危ない仕事ならやらないからな」
「ようやく話を聞く気になったんか。ほんま、疲れるやつやな」
レムは大きくあくびをした。
「おぬしに頼みたいんは、大きく二つや。異界侵食を見張ること。そして、異変を起こした異界そのものに対処することや」
真司は黙った。
本能的に、後者こそが本題だと分かった。
「前にも言うたやろ。管理者にできるんは、基本的に観測だけや」
レムは腕を組み、真司の前に浮かんでいる。
「けど、おぬしなら、わしの代わりに異界へ入ることができる」
「内側から原因を探って、異変の源を取り除く。うまくいけば、その異界はまた安定を取り戻せる」
「つまり……異変を処理することが、異界が現実世界へ影響するのを防ぐ鍵になるってことか?」
真司は、レムの言葉をどうにか理解しようとした。
「じゃあ、俺がこれから相手にするのって、さっきの赤い雨みたいなやつばっかりなのか?」
「考えすぎや」
レムが軽く手を振る。
周囲に残っていた映像は、崩れるように消えていった。
「あんなもん、基本的には末期案件や。そんなのを初心者に投げるほど、わしも鬼やない」
「おぬしに任せるのは、異変がまだ初期段階にある異界。少なくとも、完全に広がりきってはいないものや」
「危険がないとは言わん。けど、まだ間に合う段階なら、ちょうどええ干渉ひとつで、異界全体の流れを変えられることもある」
「具体的な干渉の方法については、おぬしが正式にこの“仕事”を引き受けるまでは機密やけどな」
彼女は、少し声を落とした。
「どうや?」
「おぬしは、異界に触れる適性が普通よりずっと高い」
真司は、ホールの中央でかすかに光っている球体を静かに見つめた。
レムがさまざまな映像を見せていた間、彼は実際にはずっと同じ場所に立っていた。一歩どころか、半歩さえ動いていない。
それなのに、すでにあまりにも多くのものを見てしまった。
まだレムを完全に信じたわけではない。
ヴォイドも、異界も、異界侵食も、半分も理解できていない。
それでも、これを全部夢だったことにして、何事もなかったように目を覚ます。
それだけは、できそうになかった。
少なくとも今すぐ、「じゃあ、何も見なかったことにしてくれ」と頷くことはできない。
だから真司は、一番現実的な質問を口にした。
「俺が断ったら、どうなる?」
レムは、最初からその質問を予想していたようだった。
「おぬしを現実世界で目覚めさせる」
「そのうえで、ヴォイドと異界に関する記憶も、まとめて消す」
「その後のおぬしにとって、わしは夢に出てきた変な少女でしかなくなる」
「それからは、普通の大学生として生きていけばええ。普通の人間が触れるべきではないものと、二度と関わることもない」
彼女は少しだけ間を置いた。
「普通の人間には、普通の人間の生活がある。世界の真実に触れず、見て見ぬふりをして生きる。それも、理解できん選択ではない」
真司には、分かっていた。
ここで頷けば、自分はまったく違う道を歩くことになる。
大学に通い続けることはできるかもしれない。現実世界で、今まで通り生活することもできるかもしれない。
けれど、いったん知ってしまった“真実”は、彼のものの見方も、これからの人生も、確実に変えてしまう。
ここで首を横に振れば。
それはただの変な夢になる。
目を覚まし、ヴォイドを忘れ、異界を忘れ、レムを忘れる。
そして普通の学生として過ごし、卒業までどうにかやり過ごし、どこかに就職して、特別良くもない代わりに、たぶんそこまで悪くもない日々を生きていく。
そんな人生も、別に悪くはないのかもしれない。
けれど——。
真司は顔を上げた。
星の海に浮かんでいた機械都市を思い出す。
赤い海に立つ鋼鉄の砦を思い出す。
現実世界の空から降っていた赤い雨を思い出す。
一度あれを見てしまったあとで、本当に何も知らないふりをしていられるのか。
「さて」
レムの声が、急に高らかに響いた。
彼女は、見上げなければならないほど高い位置まで浮かび上がり、まるで女神みたいにこちらを見下ろしていた。
ただし、外見はやはり白い髪の小柄な少女だった。
威厳はある。
たぶん。
少しは。
「選ぶ時や」
彼女の声が、空っぽのホールに反響する。
「このまま、何も知らんまま生きていくか」
「それとも、まだ見たことのない景色を見に行くか」
真司は彼女を見た。
その少女は、必死に威厳を出そうとしていた。
けれど、どう見ても少し可愛かった。
だからこそ、真司は気づいてしまった。
答えなんて、とっくに決まっていたのだ。
「分かった」
真司は、強く頷いた。
「引き受ける」
レムの顔に、大きな驚きはなかった。
まるで、すべて予想通りだと言わんばかりだった。
彼女は、ただ小さく頷く。
「なら、契約成立や」
レムは白い右手を伸ばし、真司の額へ触れた。
次の瞬間、細い電流のような感覚が、真司の身体を通り抜ける。
この空間に長くいることで生じていた違和感も、少しだけ軽くなった。
「ヴォイドに、おぬしの意識パターンを登録した」
「これで次から夢に落ちた時、最初にこのホールへ辿り着くようになる」
「ついでに、潜在意識の方にも目印を入れといた。現実に戻ったあと、役に立つはずや」
「これでおぬしも、世界の裏側を知る側の人間や」
レムの声が、少しだけ真面目になる。
「現実世界の大半の人間にとって、真実に触れることはまだ残酷すぎる。そこだけは忘れるな」
「分かってる」
真司は、その意味を理解した。
要するに、むやみに外へ話すなということだ。
もっとも、そこについてはあまり心配していなかった。
もし真司が街中で、世界の外側にはヴォイドがあり、そこには無数の異界が浮かんでいて、現実世界は異界侵食を受けることがある——などと真顔で語りはじめたら。
相手はおそらく、目の前の男を中二病をこじらせた痛いやつか、オカルトにハマりすぎた不審者だと判断するだろう。
「そうだ」
真司は、ようやく一番大事な問題を思い出した。
「これからの“仕事”で、具体的にどうやって異界に干渉するのか、もう説明してくれるんだよな?」
異世界転移のような展開なら、真司も小説や漫画で見飽きている。
けれど、それを本当に自分がやるとなると、話はまったく別だった。
ヴォイドは、人の夢と深く関係しているらしい。
それでも真司にとって、異界はどこまでも見知らぬ場所だ。
自分がただの大学生であることくらい、彼にも分かっている。
チート能力を持った主人公ではない。
異世界に現代知識を持ち込んで無双できる天才でもない。
少しでも間違えて、異界で命を落としたら、割に合わないにもほどがある。
「あと、俺が死んだら——いや、仕事中の安全管理ってどうなってるんだ?」
彼は、残った恐怖をごまかすように、できるだけまともな言い方を探した。
「おぬし、ほんまに質問が多いな」
レムは面倒くさそうに言った。
だが次の瞬間、何かを思いついたらしく、口元に不穏な笑みを浮かべる。
「百聞は一見にしかず、っちゅうやろ?」
「なら、実際に体験させたるわ」
真司は、ひどく嫌な予感がした。
けれど、今の彼にできることは何もない。
ただ、レムが目の前の光幕にものすごい速さで文字列を打ち込むのを、見ているしかなかった。
やがて表示された選択肢の中から、彼女はひとつを適当に押す。
「うん、世界番号 F-6043」
「便宜上、“霧の世界”と呼ぶことにする」
「状態は安定。異変の進行段階は初期。初心者向けとしては、まあ悪くないな」
「よし、目的地決定!」
レムの機嫌は、明らかに上向いていた。
彼女は腕を組み、ホールの中央、台座の上に浮かぶ球体へ視線を向ける。
球体はすでにゆっくりと回転しはじめ、放つ光も少しずつ強くなっていた。
「先に説明しとく」
レムは言った。
「この球体は、このホールの中枢みたいなもんや」
「この空間を安定させとるだけやない。わしが異界を観測できとるのも、かなりの部分はこいつのおかげや」
「それに、特定の異界とこのホールのあいだに、接続通路を作ることもできる」
「異界へ入るおぬしにとっては、扉みたいなもんやな」
「ほな、この球体に手を置け」
「いや、おかしくないか?」
真司は困惑した。
まだ心の準備もできていないのに、今にもレムに引きずられて、いわゆる実戦へ放り込まれそうになっている。
そのせいで、言葉も少し乱れた。
「待て待て、その球、本当に大丈夫なのか? 説明だけ聞くと、めちゃくちゃ怪しいんだけど……」
「うるさい! やれと言うたら、素直にやればええんや!」
レムが勢いよく叫んだ。
「くらえ!」
次の瞬間、真司の背中に強烈な衝撃が走った。
宙に浮かぶレムから、全力のロケット頭突きでも食らったような感覚だった。
彼はよろめき、反射的に何かへ手を伸ばす。
その手が、狙ったように台座の上の球体へ触れた。
刹那。
視界が、白い光に呑まれた。




