第4話 霧の世界
真司は、ほとんど這うようにして地面から起き上がった。
太ももと背中が、じんじん痛む。
「痛っ……痛たた……あいつ、背中から突き飛ばすとか、普通に反則だろ……」
ついさっきまで、自分は薄暗いヴォイドのホールにいたはずだった。
目の前には、台座の上で柔らかな白い光を放つ球体があった。
レムの理不尽すぎるロケット頭突きでバランスを崩し、真司は慌てて前へ倒れ込んだ。
その指先が、台座の上の球体に触れてしまう。
その直後。
体を内側からかき回されるようなめまいと、刺すような白い光が、すべての感覚を呑み込んだ。
「いや……これ、また別の夢に落ちたってことか?」
真司はまだぼんやりする頭を振り、胃の奥に残った吐き気をどうにか押し込めた。
そして、ようやく周囲を見た。
そこは森だった。
死んだように静まり返った、濃霧の森。
ねじれた木々が、極端に限られた視界の中で影のように立っている。
幹には湿った苔がびっしりと張りつき、黒ずんだ蔓が蛇のように絡みついていた。枝葉は頭上で複雑に重なり合い、空を完全に覆い隠している。
星明かりはない。
月明かりもない。
あるのは、息が詰まるほど濃い闇と、どこまでも漂う灰白色の霧だけだった。
その霧は、普通の水気には見えなかった。
薄く溶いた灰色の泥を吸い込んでいるような、重たい霧だった。
視界は、限界まで狭い。
真司を中心に、せいぜい五、六メートル。
それより先は、すべて灰白色の霧に呑まれていた。
空気は冷たく、湿っていた。
息を吸うたび、土と腐葉土の匂い、それに何とも言えない、かすかに甘く生臭い匂いが肺の奥へ入り込んでくる。
「……どう見ても、現実の森じゃないだろ、ここ」
真司は反射的に両腕を抱えた。
背筋を、冷たいものが這い上がってくる。
何より気持ち悪いのは、その霧そのものだった。
霧を吸い込むたび、身体の内側を知らない何かが暴れ回るような感覚がある。
冷たく、荒々しい。
それでいて、少しずつ身体に染み込んでいく。
魔力。
そんな言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
こんな場所で科学的な説明を探す方が、むしろ非科学的なのかもしれない。
その時、真司は自分の身体の異変に気づいた。
着慣れた、洗いざらしのTシャツとジャージが消えている。
代わりに身につけていたのは、見覚えのない旅装だった。
粗末だが、丈夫そうだ。
深い茶色の革の上着。
厚手の灰色のシャツ。
擦れに強そうな長ズボン。
泥のついた革のブーツ。
腰には太い革ベルトが巻かれている。
空っぽの革袋がいくつか。
空の水筒用ケースがひとつ。
そして——。
右腰には、鞘に収まった長剣が下がっていた。
どう見ても、ファンタジー世界の旅人の格好だった。
真司は信じられない思いで、自分の姿を見下ろした。
それから、腰の剣柄に触れる。
革の感触。
金属の冷たさ。
何もかも、冗談みたいに本物だった。
「これ、異世界転移ってやつか……?」
真司は呟いた。
「それとも、意識だけこっちの身体に入ってる感じなのか?」
どちらにしても、レムの言う“干渉”とやらは、かなり雑だった。
現地装備を一式渡す。
異界に放り込む。
それで終わり。
真司は長剣を鞘から抜いた。
何度も戦いを経験してきたのか、剣身には細かな傷が残っている。それでも手入れはされているらしく、両刃はまだ十分に鋭かった。
玩具ではない。
本物だ。
戦うための、場合によっては人を殺すための道具だ。
ゲームの中で、剣を持ったキャラクターなら数えきれないほど操作してきた。
だが、それとこれとはまったく違う。
現実の自分は、格闘技なんて何ひとつ知らない。
剣術どころか、まともな喧嘩の経験すらない。
「剣道経験ゼロの大学生に、本物の剣を持たせてどうするんだよ……」
胸の奥に、じわりと荒唐無稽な感覚が湧いた。
だが、それはすぐに恐怖に押し潰された。
この濃霧に包まれた森は、どう考えても長居していい場所ではない。
人を呑み込みそうな霧だけではない。
四方を満たす死のような静けさにも、背筋が寒くなるような空洞があった。
「まずい……このままじゃ、異界に干渉するどころか、先に俺が死ぬ」
真司は無理やり自分を落ち着かせた。
使えるものがないか、身につけているものを確認していく。
やがて、背中に何かがあることに気づいた。
同じように粗い革でできた背嚢だった。
真司は慌ててそれを下ろし、中を開ける。
入っているものは少ない。
小さく巻かれた麻縄。
黒く硬い、保存食らしきもの。
火打石。
火口に使う乾いた繊維の束。
それから、片端に油布を巻いた木の棒が数本。
「……松明!」
真司の目がわずかに明るくなった。
この状況では、どう考えても火が生命線だ。
彼はすぐに一本を取り出し、ぎこちない手つきで火打石と火口を構えた。
キャンプ動画か何かで見たことがあるだけで、実際に使ったことなんてない。
何度か打ち合わせる。
火花は散る。
けれど、油布にはなかなか火が移らない。
冷たい霧が、火が生まれることそのものを邪魔しているようだった。
失敗するたび、真司の心が少しずつ沈んでいく。
「くそ……早く点けよ!」
彼は歯を食いしばり、打ちつける速度を上げた。
火花が、より細かく散る。
そして、ようやく。
ちりっ、と小さな音がした。
弱々しい橙色の火が、油布の上で跳ねた。
火は空気を食むように、貪るように布を舐める。
やがて火は木の部分へ移り、少しずつ安定して燃え広がっていった。
小さな爆ぜる音が、霧の中に響く。
真司は松明を立てた。
炎を中心に、温かな光が広がっていく。
身体にまとわりついていた闇が、少しずつ押し返された。
同時に——。
灰白色の霧が動いた。
あれほど重く、溶け残ったように漂っていた霧が、火に照らされた瞬間、炎を嫌う生き物のように素早く後退したのだ。
狭い安全圏が、強引に開かれる。
火の光が、湿った地面を照らした。
分厚く積もった腐葉土。
ねじれた低木。
絡み合った木の根。
視界はまだ狭い。遠くには、相変わらず灰白色の壁が立ちはだかっている。
それでも、絶対の闇の中を手探りで進むしかなかった状況からは、少しだけ抜け出せた。
「……助かった」
長く息を吐く。
火の光を頼りに足元を見ると、そこには細い道があった。
落ち葉と苔にほとんど埋もれているが、ところどころに古い石畳が残っている。
かろうじて、人が通った痕跡だった。
真司は試しに数歩進んだ。
火の届く範囲では、霧が素直に退いて道を開ける。
その一方で、背後の霧はすぐに閉じ、通ってきた道を再び呑み込んでいった。
「霧の世界……」
レムが放り込む直前に口にしていた名前を思い出す。
あの白い管理者が、便宜上つけた呼び名のようにも聞こえた。
だが、意外なほど的確だった。
ここは、これ以上ないほど霧の世界だ。
そして、この霧はただの天気ではない。
レムがわざわざそう呼ぶくらいだ。おそらく、この異界そのものに深く関わっている。
少なくとも今、分かっていることは三つ。
霧は視界を奪う。
霧の中に長くいると、身体に何かが起きる。
そして、火は霧を退ける。
「ネット小説やゲームなら、こういう別ルールの世界なんていくらでも見てきたけどさ……」
真司は小さく呟いた。
「本当に放り込まれた時、最初に何をすればいいかなんて、誰も教えてくれないんだよな」
しかも、あの無責任な白い管理者は、異変を処理しろと言うだけ言って、具体的な方法を何ひとつ教えていない。
どうなっているのか。
異変どころではない。
この開幕だけで、もう十分すぎるほど詰みだった。
「……まあ、考えてても仕方ないか。進もう」
真司は諦めるように息を吐いた。
どれくらい歩いただろう。
足元の道が、少しだけ広がったように見えた。
火の光に照らされた霧の先に、やや開けた場所がある。
森の中の空き地だった。
その中央に、消えて間もない焚き火の跡があった。
真司の心臓が、大きく跳ねる。
ほとんど駆け寄るようにして、灰黒い炭の前へしゃがみ込んだ。
手が汚れることも気にせず、急いで指先を近づける。
そこには、かすかだが確かな温もりが残っていた。
誰かがいる。
少なくとも、少し前までここに誰かがいた。
真司はほとんど本能的に立ち上がり、濃霧に包まれた四方へ向かって声を張り上げた。
「おーい! 誰かいるのか!」
「誰か——!」
声は濃い霧の中で、あまりにも頼りなく響いた。
そしてすぐ、周囲の静けさに呑み込まれる。
返事はない。
反響もない。
ただ、霧だけがある。
叫んだ直後、真司は自分が失敗したことに気づいた。
ここは現実世界の森ではない。
こんな場所で不用意に大声を出すのは、たぶん、よくない。
取り返そうとしても、もう遅かった。
かさり。
ごくかすかな音が、空き地の端、濃霧の奥から聞こえてきた。
軽い。
枯葉が風に撫でられたような音。
あるいは、多足の何かが、湿った苔の上をゆっくり這うような音。
だが、それはただの風ではない。
規則的すぎる。
目的がありすぎる。
真司の全身の毛が逆立った。
彼は勢いよく振り返り、左手の松明を高く掲げる。
音のする方へ、火の光を少しでも届かせようとした。
右手は、腰の剣柄へ伸びる。
この剣をどう使えばいいのかなんて、分からない。
それでも、手元に斬れるものがあるだけ、何もないよりはマシだった。
火の届く先で、巨大な影が形を取った。
蜘蛛に似ている。
だが、蜘蛛ではない。
真司の知っているどんな蜘蛛よりも大きく、子牛ほどの大きさがあった。
身体は、肉ではなかった。
無数の黒褐色の蔓が、ねじれ、絡み合ってできている。
膨れ上がった胴には、濃い緑色の苔が厚くまとわりつき、腐った皮膚のように見えた。
八本の脚も、節足動物の脚ではない。
太い木の根だ。
先端は鋭く湿った土へ突き刺さり、動くたびに、泥と苔を押し潰すようなぬめった音を立てる。
さらに気味が悪いのは、頭部だった。
そこには、虫のように尖った口器がある。
目があるべき場所には、妖しい色をした花がいくつも咲いていた。
腐った肉のように厚い花弁。
縁に並ぶ細かな棘。
それらが、怪物の動きに合わせて、わずかに開いたり閉じたりしている。
蜘蛛ではない。
腐った植物と蔓と悪意を、無理やり継ぎ合わせたような化け物だった。
「無理無理無理無理——!」
真司は叫んだ。
しかし、化け物が彼に心の準備をする時間をくれるはずもない。
八本の根の脚が、爆発するように力を込める。
腐った身体を弾丸のようにして、真司へ飛びかかってきた。
頭が真っ白になる。
その瞬間だけは、思考より先に身体が動いた。
真司は横へ飛び込み、ぎりぎりで攻撃を避けた。
腐った根の脚が、服の端をかすめる。
「来るな!」
真司は左手の松明を、動きを止めたばかりの怪物へ投げつけた。
炎が、木質の身体に触れる。
直後、一気に燃え広がった。
片側から。
そして全身へ。
太い蔓が炎に焼かれ、黒く焦げ、縮んでいく。
頭部の醜い花も、火に舐められて急速に色を失った。
霧だけじゃない。
この森に潜むものも、火を嫌う。
燃え上がった怪物は、神経を逆撫でするような甲高い音を立てた。
それでも、知能らしい知能はないのか。
全身が燃えているというのに、本能のまま真司へ突進してくる。
だが今度は、真司も少しだけ準備ができていた。
同じように横へ飛ぶ。
そして、燃えて動きの鈍った怪物の側面へ、握り締めた長剣を叩きつけた。
それは剣術ではない。
ただ、半ば泣きそうになりながら、鉄の塊を振り下ろしただけだった。
それでも刃は、八本の根脚のうち二本をまとめて断ち切った。
「うああああっ!」
最初の一撃が通ったことで、ほんの少しだけ足に力が戻った。
真司は踏み込み、もう一度剣を振る。
右側で身体を支えていた二本の脚が、鈍い音を立てて切断された。
支えを失った怪物が、片側へ崩れる。
真司は剣を持ち直し、全身の力を込めて、頭部の花の中心へ刃を突き立てた。
すぐに後ろへ飛び退く。
それでも、完全に動かなくなるまで近づくことはできなかった。
怪物が燃え尽き、ようやく沈黙したのを確認してから、真司は剣を引き抜いた。
それが、真司にとって初めての実戦だった。
「はあ……はあ……」
彼は長く息を吐いた。
だが、安堵するには早すぎた。
濃霧の奥から、また影が現れる。
一つ。
いや、二つ。
さっきと同じ蔓の怪物が、左右から真司を挟み込むように姿を見せた。
「嘘だろ……」
先ほど倒れた怪物から、何かを感じ取ったのか。
今度の二体は、明らかに攻撃的だった。
一方の真司は、すでに松明を失っている。
さっきの戦闘だけで、体力もかなり削られていた。
怪物たちは、じりじりと距離を詰めてくる。
真司は残った長剣を握り直し、切っ先を相手へ向けたまま、少しずつ後ろへ下がった。
火の落ちた場所。
さっき投げた松明が燃えていた場所。
あそこまで戻れれば、まだどうにかなるかもしれない。
火があれば、主導権を取り返せる。
「そこまで戻れれば——」
その瞬間。
足元の石に、かかとが引っかかった。
「うわっ!」
真司は無防備に仰向けへ倒れた。
長剣が手から離れ、湿った地面の上を滑っていく。
「まずっ——」
最後まで言えなかった。
怪物の一体が、真司の上へ覆いかぶさるように飛びかかってきた。
鋭い口器が、首筋へ突き刺さる。
視界が、急速に暗くなっていく。
音が遠のく。
身体から力が抜けていく。
その時。
遠くで、何かが爆ぜる音がした。
熱。
燃える匂い。
そして、かすかに澄んだ女の声。
「裁きを受けなさい——」




