第2話 赤い雨と管理者の仕事
「仕事?」
林真司は頭をかきながら、できるだけ軽い調子に聞こえるように言った。
「いや、勝手に仕事を振られても困るんだけど」
「それに、正直さっきの話も半分くらいしか分かってない。マルチバースだの、夢経由でヴォイドに入るだの……そういうのって、ネット小説とか考察動画で見るやつだろ?」
スクリーンの中では、現実世界の自分がまだ大学図書館の閲覧席で、開きっぱなしのノートに顔を伏せていた。
空きコマに広げたノートは机の上に置きっぱなしで、本人は何もかも放り出したみたいに、うたた寝している。
真司は、なぜか昨日の夜、午前二時まで起きていたことを後悔しはじめた。
「やっぱり、ただ疲れてるだけだろ……変な夢だな、本当に」
白い髪の小柄な少女が、ふわりと真司の前まで近づいてくる。
銀色の毛先が、空中にやわらかな弧を描いた。
次の瞬間、彼女は一本の指を伸ばし、遠慮なく真司の額を突いた。
蛍光を帯びたような水色の瞳が、かすかに光を強める。
「どうやら、おぬしはまだ事の重さが分かっとらんようやな」
レムは小さくため息をついた。
「……しゃあない。管理者の仕事っちゅうもんを、少し見せたる」
レムが指を鳴らす。
現実世界の映像を映していたスクリーンが、一瞬で無数の破片となって散った。
真司は反射的に半歩後ろへ下がる。
次の瞬間、足元のホールも、遠くの闇も、そばにあった台座も、映像のノイズみたいに崩れはじめた。
何か言う間もなかった。
身体が、ふっと軽くなる。
周囲の景色が、一瞬で塗り替わった。
真司は、一つの都市を見た。
星の海に浮かぶ都市だった。
巨大な浮島が、鋼鉄とガラスで組み上げられた街区を支えている。その中心からは何本もの塔が伸び、外壁には金色の符文が流れていた。その光は単なる装飾ではない。血管のように建物の表面を走り、複雑な回路を形作っている。
風が、すぐそばを抜けた。
真司がそれを見極めるより早く、機械装甲をまとった一頭の竜が目の前から舞い上がった。発光する紋様を宿した翼を広げ、半透明の空へ向かって一直線に飛んでいく。
遠くの高層建築の間にも、似たような竜影がいくつも行き交っていた。
空は、空ではなかった。
都市の上を覆うのは透明な障壁だ。その向こう側に広がる漆黒の宇宙から、この信じがたい浮島を隔てている。
「世界番号 F-3134」
レムの声が、隣から聞こえた。
彼女の手には、いつの間にか小さなホログラム模型が浮かんでいる。
「ここは独立した異界や。おぬしらの世界とは、物理法則もエネルギーの扱い方も違う。魔法に見えるもんでも、こっちではただの日常かもしれん」
「これって……エルフ?」
真司は、ある空中歩廊の上を食い入るように見つめた。
そこには、男女が一組立っていた。
二人の耳は、人間のものとは明らかに違うほど長い。けれど身に着けているのは、ローブでも鎧でもない。現代の街中にいても違和感のない、洒落た服だった。
男性のエルフが、軽く手を上げる。
特殊な塗装を施された小型の機械竜が、空中歩廊の横へ滑るように近づき、タクシーみたいに二人の前で止まった。
二人を乗せると、機械竜の翼に刻まれた符文が淡く光り、すぐに宙へ舞い上がる。そして高層ビルの合間を流れる“車列”へと合流していった。
機械の乗り物。
空を飛ぶ生物。
符文の光が引く軌跡。
それらが混ざり合っているのに、この都市ではそれが当たり前の風景として成り立っていた。
真司が小説や映画やゲームで積み上げてきた、剣と魔法っぽいファンタジーへの雑なイメージが、目の前で丸ごと更新されていく。
これはアニメではない。
ゲーム画面でもない。
どこかの監督やデザイナーが、頭の中だけで作った設定集にも見えない。
都市の隅々まで、過剰なほどに現実的だった。風圧も、光も、遠くの通りを歩く人々も、機械竜が通り過ぎたあとに空気へ残す震えさえも、真司がこれをただの夢だと言い切ることを許してくれない。
「ヴォイドには、今みたいに安定して存在しとる異界がいくつもある」
レムが手を振った。
目の前の機械都市がデータの流れへ分解され、ふたたび闇の中へ戻っていく。
続いて、彼女の手元にあった模型が急速に拡大した。
真司はまた、宇宙のような空間に立っていた。
中央には、半透明の巨大な球体がある。
最初にホールの台座で見た球体と、よく似ていた。
その周囲には、無数の小さな光点が散らばっている。星のようなものもあれば、星雲のように見えるものもあり、それぞれが別々の形を持っていた。その一部は中央の球体をゆっくり巡っていて、遠目にはきらびやかな環のようにも見える。
「これがヴォイドの基本構造や」
レムは言った。
「光点ひとつひとつが、ひとつの異界を表しとる。おぬしらの現実世界から見れば、“別の世界”と言った方が分かりやすいかもしれんな」
「マルチバースってことか?」
真司は星の海の中に立ったまま、試しに光点へ手を伸ばしてみた。
指先は、ただ虚ろな投影をすり抜けるだけだった。
「でも、それが現実世界と何の関係があるんだ?」
「そこが問題なんや」
レムが振り返る。
青いショールに刺繍された眼の紋様が、風もないのにふわりと揺れたように見えた。
「さっきみたいに安定して存在しとる異界なら、基本的にわしが余計な手を出す必要はない。本当に対処せなあかんのは、異変を起こした異界の方や」
彼女は星の海の中から、周囲より明らかに暗い光点を一つ見つけ出した。
指先で、軽く触れる。
データの流れが、また形を取りはじめた。
今度、真司の目の前に現れたのは、赤い海だった。
血のような海。
孤独な鋼鉄の砦が、その海の中央にそびえ立っている。砦の頂には、杖をついた人影が一つ立っていた。
赤い雨が、空から降っている。
雨粒が鋼鉄の壁を打つたび、白い煙が上がった。人影の身体に落ちると、衣服も皮膚も、削り取られるように少しずつ崩れていく。
赤い雨が落ちた場所は、腐食し、分解され、最後にはまるで最初から存在しなかったかのように消えていった。
「世界番号 M-916」
レムの声が、初めて完全に冷えた。
「あの異界は、赤い潮に呑まれた。便宜上、それを——“血潮”と呼んどる」
彼女は、砦の頂に立つ影を見る。
「あの守護者は、命を削って最後の火種を守っとる」
「けど、支えきれん時は必ず来る」
「それで、この世界は滅びるのか?」
「だいたい、そういうことや。今の状態はかなり不安定やからな。そう遠くないうちに、わしの観測すら途切れる」
「管理者なんだろ? なんで直接助けられないんだよ」
レムは笑った。
いつもの得意げな笑みではない。そこには、少しだけ自嘲が混じっていた。
「管理者にできるんは、基本的に観測だけや」
彼女は近づいてきた。銀色の髪が、真司の耳元をかすめる。
「けど、おぬしら人間は、夢の接続を使って異界の中へ入ることができる」
「おぬしらの助けがなければ、わしには本当に何もできん」
ホールめいた闇の中に、短い沈黙が落ちた。
「まあ、ええ」
レムは顔を上げる。
「おぬしが正式に決める前に、現実世界で少し前に何が起きたのか、それを知る資格くらいはあるやろ」
さっきの光景が、また分解された。
真司は顔を上げる。
今度、彼は高層ビルの屋上に立っていた。
足元にあるのは、現実世界の都市だった。
機械都市でも、赤い海でもない。コンクリートと、ガラス張りのビルと、車のライトと、見慣れた現代の街並み。
ただ、空の色だけがおかしい。
赤い。
誰かが空一面に血を塗りたくったみたいだった。
「これ……現実世界なのか?」
真司の声が、わずかに震える。
「どうなってるんだよ」
「おぬしらの現実世界は、少し前、不安定化した異界 M-916 の影響を受けた」
レムの青い光の姿が、真司の隣に浮かんでいる。
「見えるか。空から降っとる、あの赤い雨が」
真司は彼女の視線を追った。
空から、大粒の暗赤色の雨が降っている。
雨水が建物の表面を叩くたび、映像の端がわずかに歪んだ。看板の文字がにじみ、通りを歩く人々の足取りが、一瞬だけ揃って鈍る。
赤い雨。
その言葉を、真司は初めて見たわけではなかった。
少し前、おすすめ欄で似たような動画を見かけたことがある。
画面の中では、どこかの都市の通りが暗赤色の雨に濡れていた。コメント欄では、気象異常だの、工場の排水事故だの、AI生成のフェイク動画だのと好き勝手に言われていた。都市伝説系のアカウントもすぐに便乗し、大げさなタイトルの考察動画をいくつも出していた。
真司はその時、ただ何となく指で流しただけだった。
この時代には、そういう異常な映像があまりにも多い。
本物、偽物、AI生成、切り貼り、注目集め、陰謀論。
それらは毎日のようにフィードへ流れてきて、すぐに別の話題に押し流されていく。
けれど今、レムは同じ光景を彼の目の前に置いていた。
しかも、その口調は冗談を言っているようにはまったく聞こえない。
「赤い雨は、“血潮”の延長や」
レムは表情を変えずに言った。
「物質を侵食する。人の精神にも影響を及ぼす」
「異界が異変を起こして不安定になると、中にあるものが現実世界へ漏れ出すことがある。そうやって現実が異界に侵される現象——それが、異界侵食や」
「待てよ」
真司の声が、かすれた。
「じゃあ……俺が前に見たあの赤い雨の動画、作り物じゃなかったってことか?」
視線が、赤い雨に削られていく街へ落ちる。
「本当に起きてたことなのか?」
レムは、すぐには答えなかった。
ただ、自分の服の端を指先でいじる。まるで、答えるまでもないことから目をそらすみたいに。
「おぬし、ほんまに反応が遅いな」
「つまり、現実で本当にこんなことが起きてた。なのにみんな、都市伝説とか偽動画だと思って、新しい話題に流されていったってことか?」
「わしから見れば、そうやな」
「なんで俺たちは何も知らないんだ?」
その時、レムの表情が真剣なものに変わった。
青い光が、彼女のまわりを静かに流れている。
「世界の真実に触れることは、それ自体が、人にとって残酷な苦しみになるんや」




