第1話 夢の中で、白い管理者に出会った
さあ、選べ。
このまま、何も変えないまま生きていくのか。
それとも、まだ見たことのない景色を見に行くのか。
……
林真司は目を開けた。
「……は? どこだよ、ここ」
まず、自分の手足を確認する。なくなってはいないし、血も出ていない。少なくとも、身体に問題はなさそうだった。
真司は冷たい床から身を起こし、その場に立ったまま周囲を見回す。
そこは、闇に包まれた静かな空間だった。
壁も、天井も、出口も見えない。
林真司、十九歳。
法律上は、もう成人だ。けれど大学や社会、そして親の目から見れば、彼はまだ「自分の人生に責任を持つ側」には立っていない。
彼は神戸にある私立大学に通っている。
名前だけ聞けば、そこそこ悪くない。学部名には「情報」だの「メディア」だの「現代コミュニケーション」だの、いかにも今どきの言葉が並んでいる。響きだけなら、卒業後はどこか洒落た場所で、何かそれっぽい仕事をしていそうに聞こえる。
ただ、もし誰かに真顔で聞かれたら——
「じゃあ、卒業したあと何がしたいの?」
真司はたぶん、視線をそらして聞こえなかったふりをする。
彼の人生に、大きな起伏はなかった。
幼少期のトラウマもなければ、隠された才能もない。履歴書に書けるような賞を取ったこともなく、留年や退学を心配されるほど落ちこぼれてもいない。
努力家ではない。
かといって、徹底的に堕落しているわけでもない。
たとえるなら、ゲームに最初から用意されているデフォルトキャラ。
モデルに問題はない。数値も平均的。存在感は、ほとんど背景に近い。
地方の小さな町から神戸に出てきて、彼にとって一番変わったことは、視野がどれほど広がったかではなかった。
大学の近くでどのコンビニのチキンが安いか、夜八時を過ぎるとどのスーパーが弁当を値引きしはじめるか。
彼が覚えたのは、せいぜいそのくらいだった。
日常も、ある意味では規則正しい。
講義中はぼんやりする。空きコマには動画を見る。夜は古いアパートの一室に帰る。
部屋は狭い。ベッド一つ、パソコンデスク一つ、それから捨て損ねたゴミ袋を何個か置けば、もうほとんど埋まってしまう。
たまに深夜、就活サイトを開き、企業説明会のページを二分ほど眺める。そして現実に殴られて、ゲーム画面へ戻る。
もし誰かに、ぱっとしない大学生だと言われても、たぶん否定はできない。むしろ、自分でもその評価はかなり正確だと思っている。
人間、身の程を知ることは大事だ。
それくらいは、普通の人間にも許された数少ない長所なのかもしれない。
未来については?
たぶん、大学生活をどうにかやり過ごして、ブラックすぎない会社に入る。家賃と生活費とスマホ代を払っても、たまにはゲームを一、二本買えるくらいの給料があればいい。
それから神戸のどこか片隅で、ベッドとパソコン一台が置けるだけの部屋を借りる。
恋愛に関しては、今のところ完全に机上の空論である。
林真司という人間について紹介できることは、だいたいその程度だった。
こんなやつが物語の主人公になるのだとしたら、この世界はたぶん、どこか少し壊れている。
——ついさっきまでは。
今、真司は果ての見えない巨大な空間に立っていた。
足音が、がらんとした闇の中に響く。輪のように遠くへ広がっていくのに、いつまで経っても壁にぶつかる気配がない。
境界がない。
その感覚が、本能的に気持ち悪かった。
空間の中央には、台座がある。
その上に浮かんでいるのは、半透明の球体。
この場所で唯一、「目的物」らしく見えるものだった。
真司はその球を数秒ほど見つめた。時限爆弾には見えないし、触れた瞬間に警報が鳴るような危険装置にも見えない。
そこで彼は、人類が古来より受け継いできた悪癖に従うことにした。
よく分からないものは、とりあえず触ってみる。
その手が、球に届く寸前——
「よう知らんもんに、いきなり触ろうとするんか。おぬし、なかなかええ度胸しとるのう」
「!!」
環状の光幕が、真上から降ってきた。
それは球体と台座を、狙いすましたように覆った。
真司は反射的に後ろへ跳び退く。手を引っ込める速さは、講義中に教授から指名された時よりも早かった。
……なるほど。
これはどうやら、「ご自由に触れてください」と書いてあるタイプのオブジェではないらしい。
彼は振り向いた。
声は背後から聞こえた。
闇の中から、青白い光をまとった人影がゆっくり近づいてくる。
第一印象は、なぜかアパートの管理会社の人間だった。ゴミ出しのルール違反を注意しに来た時の、あの感じだ。
こちらの生活能力を、真正面から不合格判定してきそうな圧。
けれど、目を凝らしてみると——
うん。
管理会社の人ではない。
小柄な少女だった。
真司は反射的にほっとした。
その次の瞬間、別の疑問が遅れてやってくる。
……なんで浮いてるんだ?
「おぬしは、この数年で初めてここへ辿り着いた訪問者、と言ってええやろうな」
青い光の中にいる少女は、落ち着いた声で言った。まるで、すでに決まっていた事実を読み上げているような口調だった。
「ようこそ、虚空領域——ヴォイドへ。ここは現実でも、夢でもない」
少女は軽く顎を上げた。
「ここは、すべての世界の“あいだ”にある場所や」
「このヴォイドには、“異界”と呼ばれる世界が無数に浮かんどる」
そして、ようやく遅れてきた客人を迎えるように、かすかに笑った。
「わしの名はレム。この場所を預かっとる者——まあ、管理者みたいなもんやな」
レムが、軽く手を振った。
次の瞬間、円形ホールの照明が一斉に灯る。
入口ホールの全貌が、ようやく姿を現した。
灰白色の床は、材質の見当もつかないほど冷たく硬い。弧を描く壁際には半円状に棚が並び、その上には形のよく分からない装置が雑然と積まれていた。精巧な模型のようなものもあれば、半透明の水晶のようなものもある。中には、かすかに光を明滅させているものまであった。
棚の一つには、小さな黒板が置かれていた。
チョークの歪んだ線で描かれているのは、舌を出した女の子の落書き。
その横には、英語で一言だけ。
REM is here!
林真司は二秒ほど沈黙した。
管理者……なんだよな?
その管理者さまは、どうやら少しばかり個性的らしい。
あちこちにある落書きの主は、間違いなくレムだった。
銀白色の長い髪に、小柄な身体。見た目だけなら、作画のやたら丁寧なアニメからそのまま抜け出してきたようだった。
——そう。比喩抜きで、浮いている。
身体のまわりには、淡い青い光がまとわりついていた。まるでシステム画面に表示される「現在オンライン」のエフェクトみたいだ。
黙っていれば、その雰囲気は冷蔵庫から出したばかりのガラスみたいに冷たい。
この人、近寄りがたい。
真司は反射的にそう思ったが、すぐに別の事実にも気づいてしまう。そもそも自分は、女子に近づいた経験自体がほとんどない。
なら、たぶんこれは彼女の問題ではない。
レムは、妙な服を着ていた。
白いワンピースを基調に、その上から青いショールを羽織っている。ショールに走る模様は、何か理解できない記号のように複雑で、見ているとなぜか「見られている」ような感覚を覚えた。
神秘的。
似合っている。
というより、少し似合いすぎている。
真司の視線は、意思とは関係なく彼女の身体に二秒ほど留まった。
唯一、欠点を挙げるなら——その、かなり慎ましいところだろうか。
「……おい」
レムの声は冷たかった。
「おぬし、どこ見とるんや?」
神秘的な空気は、一瞬で崩れた。
ついさっきまで冷たい管理者だった少女は、次の瞬間、尻尾を踏まれた猫みたいに毛を逆立てていた。
「悪い! 何も見てない!」
真司はほとんど反射的に顔をそらした。そうすれば、自分が何か妙な人間ではないと証明できる気がしたからだ。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
恐怖と、困惑と、あと少しだけ意味の分からない気まずさ。
——なんでこんな時に体裁を気にしてるんだ、俺は。
悲しいほどのモブ根性だった。
真司は深く息を吸い、「これはいったい何の展開なんだ」と暴走しかけていた思考を、どうにか一番現実的な問題へ引き戻した。
そしてようやく、一番大事な質問に戻ってきた。
「……ここ、どこ?」
図太さを長所に数えていいなら、真司はその点ではわりと合格点だった。
ネット小説だの、考察動画だの、オカルト系のまとめだのを見すぎたせいか、目の前の状況が明らかに非科学的であるにもかかわらず、彼はまだ即座にパニックを起こさずに済んでいた。
むしろ、こう疑いはじめている。
これは夢なのではないか。
そうでなければ、今やるべきことは、とりあえず太ももでも思いきりつねってみることだろう。
そこで真司は、自分の頬をつねってみた。
痛い。
ただし、その痛みは何の助けにもならなかった。
長年の夜更かし生活のせいで、彼はもう「現実感」というものを正確に判定する能力を失っていた。
「ヴォイドや」
レムは軽く言った。
「もっとも、ここは厳密に言えば、その入口みたいなもんやけどな」
彼女が空中で指を一つ滑らせる。
ホールの上方に、深い青色の構造図が浮かび上がった。無数の光点が、互いに線で結ばれているように見える。
「本来のヴォイドは、おぬしが想像しとるよりずっと広い」
「おぬしにも分かる言葉で言うなら……まあ、いわゆるマルチバースみたいなもんやな」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「ただし、おぬしは夢を経由してここに来とる。感覚としては、特殊な夢に近い——それくらいに思っとけばええ」
「ヴォイドは普通の夢よりずっと安定しとる」
レムは腕を組んだ。
「せやから、入るにしても出るにしても、そう簡単にできるもんやない」
彼女が人差し指を立て、空中をすっとなぞる。
青い光を帯びたスクリーンが、真司の目の前に現れた。
画面に映っていたのは、現実世界の自分だった。
大学図書館の閲覧席で、開きっぱなしのノートに顔を伏せたまま、見事に眠っている。
「くそ……」
第三者視点で寝ている自分を見るというのは、なかなか妙な体験だった。
姿勢はあまり褒められたものではない。
少なくとも、周囲から変な目で見られていないことだけは救いだった。
「待て」
真司はスクリーンを指さした。
「そっちは俺?」
「もちろんや」
「じゃあ、ここは——」
「ここも、おぬしや」
レムは腕を組んだまま、少し高い位置から彼を見下ろしていた。
「ヴォイドに入るには、条件が二つある。ひとつは、おぬし自身が夢に落ちとること。もうひとつは、わしが導いとることや。どっちが欠けても、ここまでは届かん」
「人間は、夢の中で妙な景色を見ることがあるやろ」
「それは、意識が偶然ヴォイドに触れた痕跡みたいなもんや。ただし、普通の夢はあまりにも脆い。何を見るか、どれくらい繋がっていられるか、誰にも分からん」
少女は真司を見る。
「つまり——」
「人間は昔から、夢を通して異界の欠片みたいなものに触れることがあった。せやけど、本当の意味でヴォイドに“入った”わけやない」
ホールが、ふたたび静まり返った。
「けど、おぬしは違う」
淡い青い光が、レムのまわりをゆっくり流れている。
「わしがおれば、おぬしはヴォイドの中で安定した状態を保てる」
「つまり、おぬしは……ここで動ける資格を得た、ということや」
真司は二秒ほど黙った。
「行動?」
レムは、あるのかないのか分からないほど薄い笑みを浮かべた。
「おぬし、わしがここまで手間をかけて、ただ観光案内しとるだけやと思っとったんか?」
「これからおぬしにやってもらう“仕事”は、ただの異界観光とは違う」
「せやから、ヴォイドの基礎くらい、きっちり覚えとくんやな」
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