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♪  Nostalgia  20  ♪

 次の日。

 旅館の一室のような温まった部屋で、臙脂色のセーターを着て私は、目を覚ました。二つの椅子と丸机の置かれた広縁ひろえん。透明な窓。

 シホも私と同じく炬燵から生えているように寝ている。

 今日がどういう世界の設定なのか、私は胸のあたりに問う。季節は? 日付は? 場所はどこ? 情報がアタマに上がってきて、「今日はこういう世界かー」って解る。「或る設定の世界にもともと居た自分」に、私が合流する過程。0.5秒くらいで終わる。

「もともとこの世界に居た三界麻美」が動きだす。

 明晰夢に熱中するうちに夢である事を忘れる感じに近い。

 でも私は0.5秒前に世界が表れた事を知っている。

 畳と障子と炬燵。高い鴨居と木組みの天井。窓枠の外には1mの氷柱。

 今日は30日め。私にとっては最後だ。ごはんを食べに行こう。

 ここは雪で造られた街。白を被っていない物は無い。

 雪でできた家には、昼間、人は住んでいない。特殊な街なので時間を潰そう。

 

 タクシーと電車を乗り継いで、別の離れた町まで来た。さほどではないけれど、駅からの大通りは雪が覆い、歩道の青い氷はツヤツヤに光沢を放っている。空はフィンランドの朝のように青昏あおく、町並みの影は暗い。14時ころに起きる事は何ていう幸福だろう。活動を開始したらもう夕方。今日はアイドルの仕事も無い。何なら、今日の世界では、地球の人々は、三界麻美というアイドルが居た事を忘れている。よほど注意深いファンでなければ、いまの私には気付かない……それが今日の世界だった。

 これも、とてもいい。仕事も、暮らしも、地球での人間関係も消えて、自分独りだけで満足している。町の景色。地球のもよう。三界麻美のカラダとココロ。カラダが吸う空気。シホをはじめとした、私に必要なひとびと。全てが完璧に在る。私は何も必要としていなかった。私自身は完璧に在った。もう人間と『アイドル』が融け合って区別も要らなくなっていた。私から人間は消えようとしている。

 古くからある感じの、大きな蕎麦屋さんの前に来た。お店の前には、むかしから蕎麦を挽くのに使われているんだろう、大きな水車が動いている。

 今日は何となく、ここしか無い感じがしたので、二人で入ってみた。店内は藍色の床で、テーブル席、奥には座敷席がある。天井は高く、解放感があった。夕食前だから、お客はまばらだった。此処はお蕎麦屋さんだけど、中華ソバがよく出るらしいので、二人とも中華ソバを注文してみた。

 シホはサングラスと帽子とマフラーを装備しているけれど、私は何もする必要が無かった。呪いは顔の大半に広がり、ほとんど私を異形の影で覆っていた。病は人目を逸らさせるものだ。以前のファンであっても、私と気付くどころか、反射的に眼球が逸れるだろう。穢れを恐れる動作は人間のカラダに刻まれている。責められる事じゃないし、普通の事だ。服を脱いだら私はもっと凄いよー。まっくらくらですよー。

「三界麻美」

 斜向かいのテーブルから声がした。

 ローブを着た女性が居た。握手会の時に遭ったひとだった。中華ソバを啜る箸を止め、独り、私を観ていた。

 シホも振り返った。「あぁ!」と納得したカンジの声をシホは上げた。やはり私達は『前』の時から、この人に縁がある……! この店に入ったのは、この人と遭うっていうイベントなんだな。

「あなたは……! また遭いましたねー」

「わたくしは此方こなた聖樹せいじゅと申します。占術師の仕事をしておりまして、色々な処を廻っているのです。わたくしにとっても、此の地はゆかりある場所でしてね。訪れた際には、此方こちらの中華ソバのまこと美味なれば、必ず食しておりました。あなたがたが此処に来られるのは解っていました」

「うわー奇遇だねー」

 シホは身を乗り出した。言葉は交わさなくても、お互いに胸の内で通じ合い、「再会」を歓び合っていた。

「ええ、まこと奇縁はあでなる空気の織物のごとく。ふたりに用があるわけではないのです。呪いはわたくしの術を用いれば解けます。しかしその話は既に決着済みです。本日はただ挨拶に」

「挨拶……」

 女性は頷き、残った麺を一口に啜り、スープもくいと飲み干した。年齢不詳の少女っぽさを持ちながら、優雅で高貴なたたずまいに包まれている。……あぁ、やっぱり、『前』のときの、あの人だなー。

 女性は目を閉じて手を合わせると、割り箸を箸入れに収めた。女性はフードを取り、立ち上がった。たぶん『前』のときと色こそ違うけど、本質は同じ、美麗な髪が舞った。優美な肢体のかたちが見て取れた。だけど見える美はあくまでも一部。今回は一緒ではなかったけれど、このひとも私達の仲間なんだ。

「また、いずこかでお会いしましょう。一足先にお待ち申し上げます」

 女性は、『前』からの彼女らしく、丁寧に腰から折ってお辞儀をした。

 一足先、かー。

 うん。

 わかってる。

 彼女が去ったテーブルには、中華ソバの翡翠色のどんぶりが三つ重なっていた。健啖家だなあ。お腹が減ってくる。

 と、私達の席にも中華ソバが運ばれた。

 薄飴色のつゆの中に、麺と、何切れかの鳥肉、ミツバ、という単純な盛り付け。アクセントに天かす。

 お蕎麦やさんの中華ソバかー。つゆを一口飲み、麺をたぐってみる。 

「うまい!」

「おいしい!」

 つゆは澄んでさっぱりした味で、鳥のダシが主体で、ソバのかえしも少し入っているんだろうか。淡いけれど不思議と味の芯がハッキリと通っている。

 鶏肉は油分が無いのに旨みと弾力が充分ある。

 麺は、主張しないのに柔らかくもない、不思議なみ心地。とても、歯ごたえまろやか。

 これは至福の食事だ。

 私は夢中でおつゆを飲み耽った。空気は柔らかく凍って、お店の高い天井は抜け、《□□□》に通じていた。息が苦しいほどおつゆを飲み、小休止にどんぶりを置いた時、向かいの壁の高い所に付けられたテレビから、ニュースが聴こえた。

〈――先日、都内の複合文化施設を利用した客が、集団で発熱や譫妄の体調不良を訴えた問題で、日本感染症研究所は、新種のウィルスによるものという認識を示しました――〉

 二人は、ゆっくり顔を見合わせた。

「きたね」

「きたね」

 ヒジリさんからの通告にあった。「人類の滅亡は、新種のウィルスのパンデミックの形で行われる。予兆は三界麻美の死の前後には見られる」。私の、穏やかに停まっている空間の表面おもてを、灼け付いた時間がゴウゴウと流れている。私には鎮けさしか聴こえない。

 食事を済ませて、店の外に出ると、凍える夜が来ていた。

 私とシホは、電車とタクシーを乗り継いで、泊まっていた山奥の街へ引き返した。

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