♪ Nostalgia 19 ♪
「今日は『絶対値』の何日め?」
「29日め」
「そろそろだね、マミは」
「そろそろだね、私は」
きょうは、暑い夏の時空間。
太陽は倍くらいの大きさで、空はひたすら水色で、緑はひたすら青ざめて、小川はぢりぢり焦げている。
そういう麓を、今しがた食べた冷たい大盛のソバでやりすごし、山の中にめぐらされた木陰を歩いている。細いアスファルトの道に、密生する枝葉や蔦が被さる。おかげで日ざしは遮られ、危険な暑さではない。まっくら森の中に、遠慮がちに、人間が道を引かせてもらっているふぜい。道はまんべんなく蛇行を続けて、山の森閑とした奥に続く。
「クマが出そうだね」
「出てるよねー」
きょうは二人でのんびりと旅。シホが以前お世話になったという人の地元に来た。シホはその人から連れて来てもらい、気に入った所があるという。
林道から、獣道のように逸れた道を進んで、しばらく降りて行く。
密林の底を渡るように、途中から木道が整備され、右と左に曲がって行くと……。突然、異国のような、擂り鉢状の地形に出た。別のおしごとでポルトガルに行ったときの雰囲気にも似ている。
私達は擂り鉢の底に居た。
深さは数十メートル。広さは百メートルくらい。
背丈ほどの剣のような草花が一面に咲いている。紅めいたピンクの繊細な花が集まり、刃のような形をつくるこの植物は、ヤナギランという。
一帯がとても涼しい。というか寒いくらいだ。
今の季節、植物に覆われて、目を凝らさないと見えないけど、この擂り鉢の中には無数の風穴がある。地中から吹き出す冷えた空気が、擂り鉢の底に溜まる。
私達の前には、二つの数値を示した電子温度計が整備されている。「風穴温度」は5.5℃。「外気温度」は34.5℃。
この場所の体感は、14~15℃くらいだと思う。夏の半分だ。よく見ると、足元の草陰にも小さな穴があり、手をかざすとひんやりしている。
背の高いヤナギランの下には白いホタルブクロがあって、電灯のフードみたいな形の頭を垂れている。
「此処はジャガラモガラだよ」
「一度で覚えそうな名前だねー」
「普通の山とは逆で、底に高山植物が生えてて、擂り鉢を上って行くほど、普通の高い樹木が生えるんだよ」
「此処は夏の穴場だねー」
穴の底から見上げると、丸く切り取られた青い空。
平地では見ない花が囁いて……。息が自然と深くなる。此処は天国の花畑だなー。私は、この窪地を占める透明な宇宙船の中に居て、空へ上昇して行くような気分になる。私は宇宙船に乗ったことがある。もちろん地球では簡単には宇宙船を目にしない。ヤナギランと、ホタルブクロと、他にもトラノオや、空中散歩中に立ち寄った浅葱斑蝶とかと一緒に、透明な宇宙船は、上昇して行く。夏の暑い青さを抜けて、青色が薄くなり、明るさが強烈になる上空へ。周りには空の色に溶け込んだ星空がある。蒼穹の満天。私も、シホも、花も、蝶も、石も、心地よく浮いている。地球と宇宙が融け合った、青空と暗黒の両方によって光る、広大な『アイドル』の空間。既に此処は《□□□》の裾野でもある。光と星の、満天の胎内を漂っているうちに、私は地球を遠く離れて、私がもともと居た場所の気配を感じる。
私は、今、あの夜の記憶を想い出していた。
『アイドル』だった私は、記憶を失って、『普通』の高校生になった……?
そうじゃなかった。
ちがうんだ。
私は気づいたら『アイドル』として生きていた。『アイドル』しか知らなかった。
生まれながらの『アイドル』。
それは、『アイドル』を知らないってことでもある。赤ん坊が、自分を赤ん坊だと知らないように。
だから。
むかし、シホが独り立ちした夜。
私が御役御免を感じて、シホの部屋から去った、あの時。
夜空を漂いながら、私は考えた。
知りたかったんだよ。もともと『アイドル』だった。『アイドル』が何なのかを。そのためには、一度、『普通』になる必要があったんだ。『普通』を味わってみる必要があったんだ。
でも、『普通』なのに、『アイドル』になれるものだろうか? 『天才』は『天才』のまま『アイドル』になれる。シホのように。
なら、なれてもおかしくない。『普通』が『普通』のまま『アイドル』に。
なれた頃合に、シホと合流しよう。
仕事が充実する過程が愉しかったり、ツアーの移動で特急列車に乗るのが愉しかったり、シホとお茶を飲んでるのが愉しい、『普通』の私になる。
それは愉しいだろうなぁって。
いちど人間に戻って、また『アイドル』になったら、その遊びは愉しいだろうなぁって。
今度はそう、シホが『普通』の私を『アイドル』に引き上げてくれるのはどうだろう?
子供のシホが捲った物語を、反対方向から私が捲る。
私達二人の、独つの物語。
そしたら私が『アイドル』に戻った時に、シホとの仲の良さの絶対さを、ひとまわり大きい結晶にできそうかな。
『普通』の私が闇を背負ったりしても、シホがいれば、掬ってくれるでしょう。『普通』になっても、シホに仕事を与えるなんて、私もスパルタだねー。シホならそれも、私の授業って思ってくれるでしょう。
私も闇に絡まれ、闇を知る事で、『アイドル』に戻った時に、更に高みに行けそうかなー。
そういう事を、私は思った。
想念の空間で、シホも了承した。
想念の空間でのやりとりは、然るべき時、物質世界に展開する。シホにとっては、二年後くらいかな。今度は同い年で活動したいかな。
後は、必要なタイミングで、シホが動いてくれるでしょう。
合わせて私は、『アイドル』の私を全部忘れた。
代わりに『普通』の私が地球上に居た。
それで今回の世界が始まった。一つの世界が畳まれ、一つの世界が広がった。風呂敷が畳まれて、裏面が広げられるように。あるいは、画面の映像が切り替わるように。
私は、あえて一度『普通』になって、自分を知ったんだ。
今は、『アイドル』が解った。自分がそうであったものが。
自分であること。私であること。想いを配ること。バランス。温かく包み、寄り添う。《みんな》を助け、歓びのために生き、《みんな》で歓び、穏やかに充たされ、生きて、死ぬ。死ぬときは『アイドル』仲間が居る。そういう感じのこと。
私には、それ以上の……。いえ、それ以外の幸せがあったんだろうか? 無かった。私は最高の幸せを手にすることができたんだ。悔いは、無い。もしも、あったとしても、「悔いがある」って言っているその私は、至高の幸福の中に居るっていう、そんな幸福を得ることができたんだ。私は夢心地で『アイドル』の宇宙のなかを漂った……。
気付いたら元の、窪地の底に寝ていた。
隣には、気配を確かめるまでもなく、シホが寝ているのが判った。
空を観ている。
地面に三界麻美の重いカラダが重力でへばりついていた。窪地の形に切り取られた、制限された、色の濃い夏空があった。宇宙船は降りてしまい、カラダの消えた心地よい浮遊感は、見上げる丸い空の向こうにあった。三界麻美の肉眼ではそう映った。
実は、同じ心地よさは、そのまま此処に在って、減ることはないのを私は知っていた。制限に見える世界は、映像のように、私の前を次々と過ぎった。でも此処は恒に充たされていた。シホの言う『聖快』の世界。私の居る此処が、世界の源だった。映像を投映する光源は此処に在る。
私はどんどん想い出して行く。




