♪ Nostalgia 9 ♪
ハァ……。
……。
……。
……。
あれ?
私、まだ、自分の感覚が残ってる。
終わって、なくない?
「もう一息だな。いい子だ。そのまま私だけに注目していろ。ソイツのことは、考えるなよ、黙って感じ続けろ。深呼吸をしろ。ゆっくり、何度もな」
志保が目を閉じ、タバコをピンとはじき、爪先で火を消した。演技じみた仕草、だけど、様になっている……。
……あれれ? 私、顔を塞がれたのに、志保のことが観えてるし、聴こえる。
それで、気付いた。
私を包んだ闇の黒が、薄くなっていた。
志保に言われたようにしてみる。闇の事は考えないで、志保を見て、深呼吸。ゆっくり、リズムを保って……。息苦しさが、消える。
化物の肉の重さが、軽くなる。肉の層は、水色に透き通って、私を包んだ。異物感じゃなくて、一体感があった。
重力がなく、漂っているような、心地よさがあった。
水色の液体は私の皮膚から入って来る。
嫌な感じがしない。
同時に、私の皮膚から水色の中へ、重苦しい、圧縮された空気みたいなものが、出て行く。
カラダとココロが軽くなる。頭の中がカラッポになって、言葉が浮かばなくなる。さっきまであんなに恐怖し、暴れていた自分が、遠い国の知らない人のように感じる。
これってどういう事なんだろう??
そして、水色は眩しさを増し、太陽の色と明るさをした光になった。
私は光に包まれて、解放感に満ちている。というか、解放感を私の中から放射している。そんなふうに言葉にするのも、面倒に思えてくる。それくらい自明の感覚。――そのとき、解った。
私の中から光が溢れている。同じ処からは、さっき、闇が溢れていた。闇は、いつのまにか、消えていた。と、いう事は――私は理解した。
あの闇は、闇に見えたし、感じたし、闇そのものを体験もしたけれど、それは幻影。私の感情で、願いでもあったんだ。
私は、自分でも気がつかず、闇に意識を注いでいたみたいだ。
毎日、内心で、部屋の中で、憂鬱に肩にのしかかられて、闇を見続けていた。「嫌だ」って、「消えてしまえ」って、「おまえはクズだ」って、……「おまえは私じゃない」、って。
私から注意をそそがれ続けて、闇はすくすく成長した。「私じゃない」物、いちばん嫌いなカタチの物になった。闇を化物にしたのは、私でしかなかった。私が作った幻影。しかも、カラダもココロも破壊する程度の幻影。カラダとココロにとっては、まさに化物でしかなかった。ソレを造ったのは私だった……。
いつもなら、私はカラダとココロを全部使って、闇から逃げた事は明白だった。触れたくもないし、考えたくもないくらい、闇は私にとっては、嫌なものだった。私一人だったら、一生ずっと闇を忌み嫌い、何とかしようと意識して、願い続けていたんだろう。もっと成長させただろう。
だけど、志保に気を取られて、闇への願いと感情が逸れたとき、拒絶していた闇は、私に入って来た。志保に怒られて、そうしろって言われて、黙って感じるしかなくなった。闇は薄れて、重さも吐き気も動悸もなくなり、消えた。
いつも私は、闇を忌ま忌ましく感じ、拒絶して来た。足首を掴まれると、心の中で、蹴り飛ばして来た。
けれど、志保のおかげで、闇に注がれていた意識が逸れた。
私は、意識が何処にも向いていないあいだに、闇が薄れて、消えていくのを経験した。
そして、闇が占めていた自分の中心には、解放感と明るさが在るのを観付けた。
闇を嫌だっていう、私の心が、闇を生んで、育てているなんて、普通気付かなくないですか? 理解できたのは、志保のおかげって言うしかないんだよね。一人で毎日の帰宅を繰り返していても、部屋の中に居ても、闇を立派に育てるだけで、なかなかむずかしいでしょう。
今くらい胸のすく感じも、明るさの感覚も、しばらく感じたことがない。
『アイドル』って、こういう空気があるって事に、気付かせてくれるのかー。いいなー。
でも、いっぽうで、私は、たしかにこの空気を知っているって思う。なぜだろう? 何処で味わったことがあるのだろう? 記憶は無い。小さな時も無いし、物心ついてからは特に、絶対に無い。いや、ある。あったけれど、それは夢の中。たとえば、志保と一緒に『アイドル』の日々を送った夢の中で、自分自身に感じた空気なんだと判った。
なんだ、じゃあ結局、夢の世界に行かないとダメなのか。素晴らしいこの空気は、夢の中だけのもの。現実の物じゃないんだ。そうじゃない。絶対にそうではないと、私はなぜか思える。私は現実に、この空気を知っている。心の奥が温かくうずいて、これはお前がよーく馴染んでいる空気だ、と言われている気がする。
――あ。
そのとき、解った。理由もなく解った。これは今の空気なんだという事。
自分でも解りにくいので、もう一度、心の中で繰り返した。この空気をいつ知っていたのか。「今」だ。今、感じているから、いつ感じたか、記憶に無かっただけなんだ。
説明できないし、理由も言えないけど、志保が伝えてくれた『アイドル』の空気は、今の空気だという事に、私は疑う理由を感じられなかった。だから二度と疑わなかった。夢でも、現実でも、いつも此処にある空気。今の空気。だから馴染み深くて、私はよく知っているんだ。
でも、近すぎて、いままで、気付けなかった!
でも、今、気付けた!
「ありがとう……! 志保……!」
素直に言葉が出る。
志保は黙って笑った。《今の空気》に居続ける『アイドル』の笑みだった。
その時、私は気付いた。
自分の喉笛を掻き毟るほど、闇を恐れていた「私」、自身が消えるのを無闇に恐れていた「私」が、志保に怒鳴られた時や、そして今、実際に、消えている事に。
「私」が無闇に恐れた事は、起きた。けれど、私は死ななかった。「私」が消えても、私は此処に居る。
それは、発見で、安堵で、当たり前だった。
私は、私の姿がはっきり観えた。
夢の時のように。
此処が夢でも、現実でも、どっちでもよかった。此処に自分が立っていたら、それだけでいい、今はそう思う。
そのとき、私は、自分を包む光の中に観た。それは幻覚かもしれないけど、どうでもいい。夢で志保と冒険した自分が正面に居た。『アイドル』の千変万化の衣装の一つに身を包んで、何より、《今》を着ていた。
私が「私」の感情と願望にさらわれ、闇にまみれさせて、観えなくしてしまった人。私自身が、化物の黒い靄の影へ、追いやってまった人。
今は心が鎮まった。自分が無力でも、無能でも、憂鬱でも、腐っててもいい。闇を追いやろうと蹴飛ばしたり、闇の重さを拒絶したり、闇を消そうとあがいたり、私はもうしない。率直にいえば、自分が闇でもいい。
私を転ばせるために足首を掴む物はもう無かった。
私が観付けるのをずっと待ってくれていた人が居た。
今、この人は言った。
「おかえり」
それだけだった。それ以外言わず、光をまとって、私を黙って包んでいた。私は涙が止まらなかった。今までの私なら、ありがたいって思えないし、涙も出なかっただろう。私は久しぶりに声を上げて泣いた。泣きすぎて我を忘れてメガネもどこかへ失くしてしまった。
しばらくして、その人も、志保も、駅舎と線路の世界も、消えていた。




