8
「ねえ、本当に大会出てみない?」
そう春海に言われたのは、つい昨日のことだった。冗談も含めこれで計三度目だ。
勇馬と会ってからは一週間が経っていた。勇馬と会って話したことで、有給はそれなりに意味のある休みとなった。ただ家にいて寝転がって、ゲームして、音楽聴いてと、そんなだらけるためにとる有給よりは有意義になった。
有給が終わってからも、職場での働き方は変わらない。朝八時に出勤して、掃除して、風呂、トイレ、と変わらず同じ働き方。有給の前と後で気分の変化もなかった。長期休みの後は自殺しやすいだとか、職場に行くのが怠いといったことも世の中ではみられるみたいだ。確かに、勇馬に会ってなんちゃらロス、みたいのも感じないこともなかった。友人と会って馬鹿みたいに騒いで、別れて電車に乗ったときの静けさは、そういった寂しさを感じさせる。さっきまでの自分と今の自分の比較。改めて人間は欲を抑えて生きているのだと実感する。
そういった感覚を覚えなくてもいいみたいだった。別に次の日が始まってしまえば成るように成る。昨日だけがなかったかのように、休みの前の日の続きが始まるのだ。
そんな俺とは違って、春海はいささか退屈に感じることもあるようだった。「毎日おんなじこと続けてると頭痛くなる」その言葉がまさに物語っていた。
結局というか、また週末にテニスコートへと駆り出されるのだ。先週言われた、「ねえ、本当に大会出てみない?」という言葉が、思い出される。
テニスコートに着くと、すでに予約済みだったようだ。学生たちで盛り上がる中、真ん中のコートだけぽっかりと開いていた。そこがこれから俺たちのテニスするコートだとわかる。
フェンスをくぐって、学生たちの間を抜ける。真ん中のコートまで行き、ベンチに荷物を置いた。
「ていうかさ、ずっと思ってたんだけど、そんな毎週毎週長野まで帰ってきて交通費とか大丈夫なの?」
そんな俺の問いの重さは軽かったみたいで、「全然大丈夫。普段遊びに行かない分、こういうところで使ってるから」とあっさりだった。「それよりも早く打とうよ」とまで言われてしまう。普段飽きるくらい打っているのではないかと思わなくもないが、練習と遊びの違いは知っている。まず、気持ちの在り方が違うのだ。断然遊びの方が気楽だ。
そんなこんなで打ち出す俺と春海。何か話しながらやりたかったのか、最初はネット付近で球を打ち合った。
「この間のこと考えてくれた?」
案の定春海は話し出した。この間のこと。それは言わずもがな大会のことだろう。
「大会ねえー。どうしよっかな」
「出るならさ、私組んであげてもいいよ」
「それは実業団的には大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。この間ね、うちのコーチも外から隆磨くんのこと見てたみたいで、上手いから出たいなら出てもいいぞーって言ってたから」
「え、そんな簡単に決まっちゃうの? ていうかそのコーチ大丈夫? 俺、普通に下手なんだけど」
「大丈夫だよ。うちのコーチベテランだし、結構厳しいんだよ? それで褒めるってことは本当に見込みあるんだよ」
そう言われても、と俺は思ってしまった。コーチが見てたと言っても、ちらっと外から見かけただけだろう。そんな一瞬で人の実力がわかってしまうものなのだろうか。ちょっと信用ならない。
でも、試合に出てもいいとコーチが言っているのなら春海と出てもいいかなと思った。安直だが、俺の中にも少しは刺激が欲しいという欲があった。気が滅入っているわけではないが、仕事をやるよりだったら、大会に出た方がいいと素直に思える。
「じゃあ、出ようかな」
俺が言うと、その言葉を待ち望んでいたかのように春海は喜びをあらわにしていた。「本当? じゃあすぐにコーチに言うね」と、俺との打ち合いそっちのけ。ラケットをその場に捨ててコートを出ていく。俺が最後に打ったボールは春海に打ち返されることなく、無残にもネットの向こう側に転がっていった。それを拾ってから、俺はさっきのベンチに戻る。
「なに、そんなに急ぐようなことなの?」
「うん、今ラインしてる」
春海は、よっぽどうれしかったのか一目散にコートを出ていったように見えた。スマホを片手にコーチに連絡している。
そこまで急がなくてもと思った。でも実際、今連絡しなかったら忘れてしまうと思ったのかもしれないとも思った。うんうん。確かに、仕事で何か頼まれた際も、後回しにすると次にやることに集中してしまって、一日が終わったときに思い出してと、忘れてしまっているということもなくはない。俺も仕事でそんなことがあった。だから、言われたら作業を中断してそっちの仕事を先に終わらせることが多いし、もし中断できない仕事でも、覚えているうちにメモできるようにと紙とペンは必需品だった。
「よし、オッケー」
春海は手早くスマホを鞄にしまい、立ち上がった。
「じゃあ、もう体あったまったんで試合でもしますか」
「ああ、それはいいけど、その試合っていつなんだよ。仕事の休み取らなきゃいけないし」
「それは大丈夫だよ。だって試合日曜だし。隆磨くんの職場って日曜休みでしょ?」
「えっと、じゃあ場所は?」
「東京。一緒に行くから大丈夫よ」
俺の余念は全部不発に終わった。春海は「他に質問は?」という反面、早くテニスがしたいとうずうずしている様子だった。「まあとりあえず今聞きたいことはないから、また気になったら聞くね」と俺は言った。そしてまた二人でコート内に足を踏み入れるわけだが、そこでもう一つ質問が思い浮かんだ。俺はすぐに口にした。
「そうだ、日にちは?」
春海はラケットを拾おうと腰を曲げていた。「何?」と返ってきたので再び俺は問いかける。
「大会っていつ?」
「来週の日曜」
は? と思った。
「来週?」
「そう、来週」
「来週って、来週の日曜って六日後の?」
「そう。今日から六日後の日曜日」
え、大会って来週なの? もうすぐそこやん。
「ていうか、そんな間近に迫ってたのに今からエントリーとかできるの?」
「本当は他の人と出る予定だったんだけど、その人出られなくなっちゃったから代わりの人呼んでいいよーって言われてたの。もともとそんなに大きい大会じゃないし、まあ頼めば大丈夫ってことなのかも」
はあ、とため息が出る。そうか、大会が来週だからそんなに急いで連絡していたんだな。そう思い至る。
なんだかなあ。
「ってことだから練習しよ?」そう言って春海はボールを打ち上げた。空高く上がったボール。頂点に達したようで、だんだん落ちてくるのがわかる。それを頭の上から叩き落した。
「うわー、速い」
感情をぶつけるようにスマッシュしたボールは、隣のコートへと転がっていった。春海が、すみません、と頭を下げながら学生からボールを受け取っていた。
一瞬物へ当たってしまうほどの激情は、元からなかったかのように消えていった。その代わりに、やってやろうという闘志みたいなものが燃え上がってくる。さっきの激情は、いわばガソリンとして今の闘志を突き動かしている。このガソリンはいつ切れる? そもそもその激情ってなんだ。怒りか? それとも嬉しさに苛まれているのか?
どれもこれも違った。春海が試合を始めると言ってサーブを打った。俺はそれを返しながらふと思う。
ああ、最近は争いごとがない日常だから、自分の思いをぶつける対象がなかったんだ。
スポーツという競争の中で、相手に勝つことで自分の怒りや屈辱を浄化させる。そういう日常じゃなかったせいで、俺の感情は行き場をなくしていたのではないか。
その感情の底は見えない。得体も知れない。今は何となくソフトテニスをしている。春海が打ったボールを追って、打ち返す。本当はこんなことできない。試合は試合に集中する。別のことなんて考えない。今の俺みたいに何か考えながら試合をしたり、「コンチキショウ」なんてあからさまに相手を叩きのめすことしか、試合中に考えないようなプレイヤーはまずいない。
本当だったら、もっと試合のことを考えるのだ。次はどこへ打とう。相手はどこに返してくる。もしそこに返してきたらこうしよう、といくらでも予想を立てたりこの先の自分の行動を考えるものだ。でも俺は違った。毎回ソフトテニスをするたびに思っていた。頭は別のことを考えていても、体はしっかりと動くのだ。まるで自ら相手にハンデを与えているかのように。俺は試合中に余計なことを考えている。集中なんかしていない。俺にはハンデがある。それでも俺はお前に勝ってやる。そういう闘志が、伝わってくる。
どこから?
俺の打った球を、春海はドロップショットでネット前に落とした。追うが、伸ばしたラケット三十センチ手前でボールはツーバウンド目だった。スリーバウンド目がラケットの面にあたる。そのボールを拾った。
「やった。今の上手いでしょ?」
春海が感情をあらわにして喜んでいる。反して俺の感情は? ずぶずぶとどこかへ引き込まれていく感覚。泥の中に埋まっていく。そして埋まっていく隣で何かが顔を出している。その埋まっていくのが何で、顔を出しているのが何なのか、それはまだわからない。
ただ一つ言えるのは、
『絶対負けない』
表情を柔らかくし、口では笑って春海をごまかす。でも心の中では、「お前みたいにぬくぬく育ってきたやつには負けない、絶対負けない」という闘志。
ああ、何だこの感覚。感触。自分の身体を誰かに操られているような感覚だ。そういえば、勇馬もそんなこと言ってたな。俺のことを、二重人格みたいだけどそれとは違う、みたいな。
多分その通りだ。勇馬は正しい。この感覚は二重人格じゃない。俺が言うんだから多分正しい。なんかさ、どっちかって言うとさ、
俺が誰かの身体を操ってる感覚なんだよ。




