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昼休み、俺は上司のデスクの前にいた。
「すみません。この間有給取ったばかりで申し訳ないんですけど、また頂けないでしょうか?」
上司は俺の差し出した紙を見入るようにしていた。日付を見ているのだろう。俺は別に看護師の資格を持っているわけではないので、特に替えが利かないとかではないはずだ。上司の判子さえあれば、おそらく問題なく受理される。
朱肉に判子を押し付け、それは俺の差し出した紙の上へと乗る。
「今週の金曜と土曜だな。なんか予定でもあるのか?」
そう聞かれ、一瞬答えに戸惑う。遊びに行くとか出かけると言ったら、上司の気分が変わってしまうのではないか。そう思ったが、気づいたら「ちょっと友人と出かける予定がありまして」と素直に答えてしまっていた。
上司は皮肉るでもなく「そうか、楽しんでな」と笑顔だった。
上司の部屋を出て、休憩室に行く。そこでは中年女性たちがやっぱり話していた。普段はこの空間があまり好めず、自分の車で昼食をとっていた。でも今日はそこまで考えが及ばなかった。さっきの上司の姿が脳裏から消えない。
一番疲れているのは上司の方だった。部下の俺でも、今そこでくっちゃべっている女性たちでもない。部下のミスの責任を負うのも、このデイサービスに来ている利用者の囲いからクレームを受けるのも、全部上司の役目だった。俺が有給を取ったらその穴を埋めるのも上司だった。
それが仕事だろとか給料いいんだろと言ってしまえばそこまでだ。クレームとか部下のミスとか、そうならないようにするのが上司の役目だろと簡単に言ってしまえる方が楽だ。でも、うちの上司は誰かがミスしても怒鳴っても咎めたりはしないし、クビにすることもない。さっき俺が有給取ったときだって、普通の会社だったら即断られているかもしれない。でも上司は口をつぐんだ。
休憩室では、いまだに中年女性の声が絶えない。その輪の中には、あのベトナム人女性もいた。
「アンさん大変ねえ。日本にまで来て、日本語覚えるのも大変だったでしょう?」
「いえ、そんなことないです」
そんな会話を横で聞いて、ベトナム人女性の名前が、アン、だということを知った。
休憩室は畳になっていた。中年女性たちが足を崩して座る中、アンは正座をしていて太ももの上に手まで乗っている。それが彼女が礼儀を知っているからとか、なんとなくだとかそんなのはどっちでもよかった。でも、俺の中でのアンの印象は、もっと日本語を片言でしゃべるような印象だった。そのせいか、話している姿も実はしっかりしているんだな、という印象を受けた。
「日本語上手いねえ」
「そんなことないです」
まるで、謙遜上手な日本人のように見えた。
中年女性たちは、珍しく休憩後の仕事の準備をするということで、早めにだ部屋を出ていった。いつもだったらぎりぎりまで休憩室から出てこないのに。休憩は十二時からと十三時からにわかれる。俺は大体が十三時からの休憩だった。だからそのことをよく知っていた。
休憩室には俺とアンだけが残った。何か話しかけようか。そんなことも一瞬よぎったが、休憩上がりまでもうあと五分ほどだった。別にいいかと俺も立ち上がる。
「ねえ」と声がかかる。振り返らずともその声の主がアンだということはわかる。でも、その「ねえ」という親しみを帯びた言葉が、妙に引っかかった。さっきまでは中年女性の介護職員たちと礼儀正しく話してたかと思えば、いきなりため口。ましてや、今までの俺のアンに対しての印象はもっと外国人らしいものだった。でも今の言葉はどうだ。親しい友人に声をかけられたかの様。
俺は振り返る。「なんですか?」と。振り返った先に見えたアンの姿は、変わらず正座のままだった。さっきまでと違うのは、体の向きが俺の方を向いているということ。
「私、あの人たち嫌いです」
無表情で、嫌いという感じは伝わってこない。その単純な言葉の返しに、思わず笑ってしまった。「えっと」とか「なんか」とか付けずに「嫌いです」と言う。それが妙に新鮮だった。さっきまで礼儀正しく女性たちと話していたかと思えば、いなくなった途端に「私、あの人たちが嫌い」と言うんだ。本当に笑った。嫌いとか好きとかそういう言葉の意味はどうでもいい。面白かった。単に笑えてきた。
そんな笑う俺の姿を見たアンは、「私なんかおかしいですか?」といぶかしげな表情で見てくる。今度は「なんか」ってついてんじゃん。本当に面白い。
笑いをこらえながら、俺は聞き返した。「どうして嫌いなの?」と。
「日本人はもともと好きでした。優しい印象があるから。実際そうでした。でも、あの人たちは嫌いです」
明確な理由はないけど、嫌い。アンはそう言う。彼女が嫌いだと言った理由が俺には多分わかる気がした。
「どこの国でもさ、そこの居場所に慣れると愚痴の一つや二つ零れるんですよ。それだけはどこにいても変わんないと思います」
「家族は嫌いにならない。ずっと一緒にいて慣れても嫌いにはなんない」
家族か、と少し思った。家族は絶対に愛で繋がっている。血筋が繋がっている。だから互いに愛着がある。それはいつまで経ってもだ。子どもが上京しようが、親が死のうが子どもが先に死のうが、ずっとその愛着は消えない。そういうもの、だとは思う。
きっと、アンにとって家族は一番大切なものなんだ。家族以外にはきっと愛そうとしても一途になれない強さがあるんだ。
「幸せだからだよ。幸せだから好きになれるんだ」
「それはどういう意味?」
そのアンの言葉がすべてだ。幸せでいる彼女の象徴。幸せだからどういう意味か分からないんだ。幸せじゃない奴に幸せな奴の気持ちなんかわからないのと一緒だ。
「もう行きますね」
そうやって俺は正座したままのまっすぐなアンを、休憩室の畳の上、置き去りにした。




