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春海らと練習する約束をしていたのは金曜日だった。また、こないだ行った東京のテニスコートで練習をしようと誘われ、俺はそれを承諾した。ゆえに有休をとった。
本当は土曜まで有休をとる必要はなかったのかもしれない。金さえ惜しまなければ、一度東京に来てまた長野に帰って、日曜になったらまた東京に来て大会に出る。別にそれでもいいと思ったが、「そんなのめんどくさいじゃん。土曜も休んじゃいなよ」と春海に促されてしまった。
でも、春海に促されたからと言ってそれだけで「そうするか!」と言ってしまえる俺ではない。春海から「土曜も休めば?」と言われて、土曜に休んでいる自分を想像したときに浮かんだのが、勇馬の姿だった。つい先日会ったばかりだが、何度も何度も会っているわけではない。大学を卒業してからは疎遠だったので、もう一度くらい会ってもいいんじゃないか。この間会ったときの去り際に感じた記憶が蘇り、もう一度会いたいなと思ってしまった。
じゃあ土曜は勇馬と会う約束をしよう、そう思い至った俺はさっそく勇馬に連絡した。断られることも想定してはいたが、「いいよ。俺もちょうど話したいことあったし」と、簡単に約束を取り付けてしまった。
新幹線の乗り心地はすこぶる上質だった。学生時代は、実家に帰省などあまりしなかったせいで、深夜バスの身体が硬直するような乗り心地や、大きな揺れを感じることはほぼしないですんでいた。誰かとバスツアーに行くこともなかった。だから俺はバスの乗り心地の悪さをそれほど知らない。
新幹線は、揺れも少ないし、社内での話し声も少なかった。都内の電車では、対面式に座席が並んでいるせいで、おのずと視界に人の顔が入ってしまう。でもここはどうだ。対面になっていないおかげで、人の顔は視界に入らない。窓際に座って窓を眺めてしまえばこっちのものだった。途端に個室に入ったのと同じような状況になれる。
車窓から見える景色は、新幹線の速さによって流れていき、耳にあるイヤフォンからの音楽も、また同じように流れていった。バックミュージックのように流れる音楽は、俺に歌詞を口ずさむほどの余裕を与えなかった。
最近だと思うのだ。自分が自分ではない感覚を手にしている。不穏かつ不気味なその感覚は、言ってしまえば気にするに足るものではない。でも現に自分は気にしてしまっている。
この感覚はなぜ、自分の元に訪れたのだろうか。今まで全くと言っていいほどに感じてこなかったものが、最近突然感じられている。何かきっかけがあったはずだ。
最近の俺の生活。変わったことなんてそんなにない。しいて言えば、有休をとったこととか、その有休を使って勇馬と会ったことぐらいだった。そこでもう一つの感覚を思い出す。
勇馬と会って、話して、そして帰り際の後ろ姿は今でも鮮明に思い出せる。あの日確か、「救いたい人がいる」と勇馬は言っていた。彼の仕事は心理系の仕事だから、救いたい人なんてごまんといるだろう。あの日、その救いたい対象が近いうち救われるような気がした。
新幹線は大宮駅に着いたようで、人がぱらぱらと乗ってきた。二人席の窓際に座っていた俺の隣に、サラリーマン風の男性が座る。足元に置いていたラケットバックを端に寄せる。
隣に人が来たせいで、途端に一人暮らしのアパートはシェアハウスへと変わった。途端に公共施設へと変わった。耳から音楽が流れだす。歌詞が頭に入ってくる。
きっと誰かと密に過ごした後の焦燥が、色濃く体に現れている。痛み止めは何度も何度も打ち続けると抗体ができて効かなくなるというが、それと同じだ。俺の身体の中にまだ抗体はない。だから、これから抗体ができて、きっともうこんな悩みを一人で頭の中で感じることもなくなる。慣れればなくなってしまうようなことを考えているに過ぎないのだ。これは、今だけに過ぎないのだ。素晴らしい曲に出会った、大好きな人をやっと見つけた、そう言った待ち焦がれていたような初めての感動と、同じ類のものを今体感しているに過ぎないのだ。
慣れれば悩むことのどうしようもない億劫さは消える。慣れれば初めての感動なんて消える。素晴らしい曲に出会ったときの鳥肌が立つような体の震えも、大好きな人を見つけたときの心臓のうごめきも全部最初だけで、いつの間にかなくなってしまう。
この想いは、今だけだ。
東京駅に降り立ち、歩いていくと、改札口には春海の姿があった。人々が四方八方に行き交う駅構内で、春海の姿だけは止まって見えた。柱に寄りかかり、スマホに目を落としている。服装はソフトテニスでメジャーなスポーツブランドのジャージ。彼女の横にはラケットバッグも立てかけられている。
近寄ろうとすると、気づいた春海は手を挙げて手招きした。近寄って、「久しぶり」「こないだ会ったばっかじゃね?」とくだらない会話を交わす。
そうやって、俺たち二人は、四方八方に行き交う人々の二人となった。
私鉄に乗ってからはそんなことも感じなくなる。降りてからはなおさらだ。東京駅構内とは比べ物にならない過疎。長野とそれほど変わりないのではないか。
二人してまた線路沿いを歩いた。「明日も休み取ったんだっけ?」と春海に聞かれ、「そうそう。金曜と土曜取った」と教えた。
「ホテルとか取った?」
「忙しくて取ってなかったから、適当にそこら辺のカプセルホテルにでも泊まるよ」
テニスコートまでの道のり。一度歩いただけであったが、景色は前の時と同じだということが分かった。その数メートル先に見える緑色のネットの奥が、テニスコートだ。音も聞こえてくる。人の声。球を打つ音。その音たちが自分に呼応して心臓の音を上げていたとは、馬鹿も休み休み言ってほしい。心臓の鼓動は上がらないが、多少の興奮は覚えた。いつの間に俺はそんなにテニスをするのが好きになったんだ?
入口のフェンスをくぐってコート内に入る。一番手前のコートでやるみたいだった。春海は立っていた二人に「おはよー」と声をかけている。なんとなくお辞儀をした。
「この人が、コーチの言ってた人?」
立っていた男女のうちの男が、そんなことを言った。春海が「そうそう。上手いんだよ。桜田隆磨くんって言うの」
「すみません。桜田隆磨って言います」
そう言って俺が挨拶すると、彼は手を出して握手を求めてきた。
「俺は酒井忠。よろしく」
差し出された手に自分の手を伸ばし、握手が交わされる。そして、忠は隣の女を紹介しようとする。
「こっちは……」
「こないだ会いました。確か、藍佳さんですよね?」そう言うと、「ああなんだ、もう一回会ってたか」と紹介は中途半端に終わった。そのとき、藍佳の顔がちらっと見えたが、なんだか気まずかった。確か、この間俺のこと嫌いって言ってたよな。じゃああんまり近寄らない方がいいかな、とそんな余計なことを考えてしまう。
でも、逆にそういう人がいた方がやりやすいのだ。テニスにだけ集中できる。余計な情が入らない。さっさと終わらせられる。そう思ってテニスが始まった。
乱打、ゲームまでの流れは春海とやる時とさほど変わりなかった。「前衛と後衛どっちにする?」と春海に聞かれたときは、試合を明後日に控えている人たちが話す内容か? と思わなくもなかった。結局「たまには前衛やりたーい」という春海の駄々により、俺が後衛で春海が前衛になった。大会もこうなるだろう。
相手の忠と藍佳も同じようなものだった。片言を交わし、忠が後衛で藍佳が前衛。普段から忠は後衛をやっていて、藍佳は前衛をやっているのかは知らなし、藍佳に関しては以前会ったときに聞いた気もするが忘れた。
そしてゲームが始まる。サーブは相手側からだった。忠が構えている。ボール付きをしている。俺の手前には春海がいる。藍佳の顔が見える。
春海とダブルスを組んだことが以前にあっただろうか。遊びでやるときは大体俺と春海だけだった。春海と組むことなんて多分以前になかった。だから新鮮だった。今まで相手だった人が味方にいる。
忠がサーブを打った。コートの内側に入ってきた。回り込んで普通に返したら、多分前衛にとられるんだろうな。そう思いながら甘いレシーブを打つと、案の定、藍佳が動き出してボレーする。得点が相手側に入る。
「ああ、ごめん」
春海に言うと、「藍佳普通に上手いから大丈夫」とそんな返事が返ってきた。
藍佳の顔は、ネット付近に見えた。当然対面してるのだから当たり前だ。エンドラインにいる忠の顔よりも近くに立っているのだから、顔の輪郭がそれなりにはっきりとしている。忠と藍佳は仲がいいのだろうか。
春海がレシーブする。忠に打ち返される。俺が打つ。藍佳にボレーされる。相手側の得点になる。
「ごめん」とまた春海に言った。「大丈夫」と返ってくる。「まだこれからだから」と。
俺は多分今、この四人の中で一番やる気がないということがはっきり分かった。さっきまでテニスがしたいと気分が高揚したと思っていたのに?
また来た、と思った。テニスをしているのに、頭では別のことを考えていて試合について考えていない。でも、体は勝手に動いている。頭で何かを考えていても、惰性というか、無意識というか、勝手に試合は進んでいる。今も、藍佳がサーブを打って、俺がミドルにレシーブしたら藍佳が打ち損ねてこちらの点になった。春海が俺に寄ってくる。「ナイスー」と言ってくる。それは感じられるのに、俺は試合に集中していない。試合に集中していないのに、試合で起こったことは理解できる。
そんな時だ。藍佳がエンドラインに立って、逆クロスのサーブを打とうとしている。俺の直線上には藍佳が立っている。その藍佳の動き一つひとつが頭に流れ込んでくる。さっき忠がそこに立った時は頭に流れ込んで来やしなかったのに、藍佳がそこに立つと俺の頭は反応する。トスを上げる。左腕を伸ばす。膝を曲げる。肘を曲げる。背中からラケットが出てくる。上空から落ちてきたボールにラケットの面が密着する。ボールが放たれる。春海の前にサーブが入る。映画フィルムのように、事の動作が一つひとつ切れて見える。
サービスダッシュ。藍佳の顔が近づいてきた。輪郭がはっきりしてくる。春海のレシーブを打ち返してネット際に着く。顔は……。
忠が打ったボールは俺の前に落ちる。それを俺は藍佳の正面に叩いた。正面にボレーされた。もう一度。また正面にボレーされる。そして藍佳のサイドを抜いた。
「ナイスー」と春海が近寄ってくる。ハイタッチする。でも、そんなものに俺の心など乱されもしなければ興奮もしなかった。
それは、春海が恋愛対象ではないということではない。他の女が今、春海がやったように喜んでハイタッチして来ても同じだ。興奮などこれっぽっちもしない。
でも、俺の心は今興奮していた。心臓が適度にバクバクしている。これは動き回ったときに感じる鼓動ではない。じゃあ、この心臓の高ぶりはなんだ。その理由がなんなのか。
向こう側のコートで忠と藍佳がハイタッチしている姿が見えた。それはもう、仲がよさそうに。俺のことを「嫌い」と言っておきながら、忠にはあんな態度で接している。仲睦まじそうに。実際は些細な行為だが、俺には媚びているようにさえ見える。
「まるで贔屓だ……」
視界を砂嵐が覆う。
突如、頭痛に苛まれる。頭がぐらつく。頭の血流が悪いのがわかる。顔面が蒼白になるほど血の気が引いていくのがわかる。貧血の時に視界を覆うような砂嵐が今目の前にある。少し透けるマジックミラーのような。その透けた先に見えたのは、「大丈夫?」と血相を変えて介抱してくれる春海でも、「どうした」と向こうのコートから駆け寄ってくる忠でもなかった。ちょうど目の前に来た。しゃがむ。心配そうに見つめる。なんだよその顔。俺が苦しい時にそんな顔してくれたことがあったか? うぜえよ。こういう一大事みたいな時だけ心配そうなふりして、どうせあれだろ。忠ってやつに惚れてんだろ。忠によく見られたいんだろ。私は心まできれいな女ですって見せてあげてるんだろ? 本当は俺のことなんか嫌いだけど、忠のためなら優しくできる。俺には「嫌いです」とか言っておきながら、なんだよ今のお前の態度は。まるで転んだ子どもを心配する母親みてえじゃねえか。
なんだこれは。頭が痛い。痛い、痛い。それ以上に痛い。忠に好かれようと俺に優しく接してくる藍佳を見てるのが痛い。なんだよお前。母親ならどっちの子どもにも平等に接しろよ。まるでお前の子どもは忠だけみたいで、俺は子どもじゃないのか……。そんなこと前から知ってたよ。
「痛てえ贔屓だ……」




