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 目を覚ました時に見えたのは、真っ青な青空でも緑の人工芝が敷かれたテニスコートでもなかった。外にいるとき独特の雑音やら人々の声は聞こえず、人工物だろうとわかる白い天井が見えた。


 体を起こすと、俺の下半身には布団がかかっていた。そして俺がベッドの上にいるということを知る。部屋を見渡すが、電気がついているだけで、人は誰もいなかった。


 ここはどこだ。恐らく誰かの家だろう。そんなのは想像すればわかる。おそらく春海のアパートなきがした。


 俺はもう一度ベッドに身体を倒した。眠りにつく直前のことを思い出す。悪いことしたなあと振り返る。俺がいきなり倒れたせいで、練習どころではなくなったのだろう。そうじゃなかったとしても、多少の迷惑はかけた。申し訳ないなと思う。


 枕からは露骨にいい香りがしていた。春海のシャンプーだろうか。よく考えたら、いつもこの布団で春海は寝ているのだ。当たり前だ。彼女の香りは染みついているだろう。


 何も考えずにただ体を横にしたい。そう思って思考を止める。だが、そのシャンプーの淡い香りは、俺の想像をどんどんと促した。


「恋愛」という言葉が過ったのもそんなせいだろう。世の中の男性女性は、どちらかの恋人のベッドの中に入ったりしているのだろう。そう考えると、不思議と悪い気はしなかった。でも、今までそんなことをしてこなかった分、不思議と違和感は訪れる。


 恋愛。俺は生まれてこのかたしたことがあったか。多分ある。抽象的にはそんな過去の記憶が思い出せるが、明確には思い出せない。しかも、恋愛したことはあったとしても、あまりいい記憶ではない気がするのだ。どちらかというと片思いというか、一緒にいたとしても相手からの愛情みたいなものが感じられない。俺だけが空回りしているような情景。ひどくばかげている。


 玄関の方で鍵穴に鍵がささる音がした。ガチャっとドアは開き、ビニール袋のこすれる音がする。きっと春海が帰ってきたんだろう。お礼を言わなくてはと、俺は体を起こした。


 ワンケーの部屋に入ってきたのは、思い描いていた人物とは別人だった。春海の部屋だと思っていただけに、少々の驚きを隠せなかった。え、じゃあこの部屋は誰の部屋? それは彼女の顔を見れば分かった。


「あ、起きました?」


 藍佳だった。


 比較的親交の深い春海のアパートだと思っていたから気が楽だったが、あまり知らない藍佳のアパートだと知るや否や、途端に他人行儀になる。ベッドに寝ていることどころか、この部屋にいることにすら悪びれてしまい、すぐにベッドから出ようとした。「いいですよ、まだ寝てて」と藍佳に制止されてもなお、居心地の悪さは感じていた。知らない人を部屋に入れる。藍佳はこのことに関してどう思っているのか。


「いいんですか? 俺なんかがここにいて。全然出て行きますけど」


 藍佳は、買い物をしてきただろうビニール袋の中から、ゼリーやらパンやらを取り出していた。「私は構いませんよ」という言葉が聞こえるまで、無視されているのではなかと思った。「普段から人なんて誰も入れたことないですし」


「え、じゃあなおさら悪いんじゃ……」

「そうかもしれないですね」


 その言葉を、俺は待っていたかのようだった。



 一通り買ってきた食品を冷蔵庫に片づけた藍佳は、ベッドの横にあった机に座った。湯を電気ポットで沸かして、インスタントのコーヒーを作った。座ってそれを飲みながらスマホに目を落としていた。


「贔屓って何ですか?」


 突然藍佳が声を発した。俺はベッドの上で天井を見ていた。彼女のいるほうに顔を向けることはせずに、「どういうことですか?」と聞く。


「さっき倒れたときに言ってましたよ」

「全然覚えてないや」


 やっぱり俺はさっき倒れたんだということがはっきりした。俺はあの後どうここまで来たのか、あの後春海はどうしたのか、忠はどうか、そんなとりとめのない心配が浮かんできた。俺は単純に「あの後どうなった?」と聞きたかった。でも俺が聞くよりも先に、藍佳が口を開いた。「私、あなたのこと嫌いなんですよ」と。


 ああ、やっぱり嫌われてたんだ。実際口にされると少し寂しい。もう部屋を出ようと思った。どっかのホテルに行って泊まって、明日は勇馬と会う約束がある。その次の日は大会だ。こんなに密にスケジュールが詰まっている。こんな仲の良くない女と、言ってしまえば俺のことを嫌っている女と一緒にいるよりは、一人でホテルに泊まった方がましだ。


 俺は体を起こした。まだ机のわきに正座している藍佳がいた。こっちを向いた。心の中で彼女はなんて言ったと思う? 嫌いってまた言ったんだろう。俺はベッドを出て立ち上がる。


「私、できるのにやらない人って嫌いなんだよね」


 藍佳は口を開いた。俺の顔をまっすぐに見つめて。不覚にも、その顔には不の感情が含まれていないように思えてしまった。彼女は二度も俺のことを嫌いだと言っているのに、なぜか本当に嫌っているとは思えなかった。俺もたいそう愚かな人間だなと省みた頃、藍佳はまた口を開く。


「私自身がさ、結構人のことを勘ぐっちゃう人間だからさ、この人にはどうしてあげたらいいとかすぐ考えちゃう。だからさ、わかっちゃうんだよ。同じような人のこと。この間一緒にテニスした時さ、隆磨くんってホントは上手いはずなのに、なんか手加減して私が動きやすいように指導してくれてる感じだった。私そういうの許せなくてさ」

「わかってたんだ」

「うん。だいぶ」


 俺はあの日、確かにそんなことを思った。集中してテニスするわけでもなく、相手に勝とうとするわけでもなく、俺とペアを組んで乗り気じゃなかった藍佳のことを、力づくにでも組んでよかったと思わせたいと思った。だから、相手に勝つという選択肢は捨てて、藍佳にとって動きやすいプレーをした。俺が点を決めるのではなくて、藍佳に決めさせるようなプレー。アシスト役に回った。いわば狂わしいほど咲き誇る一本の薔薇の額縁同然。


 普通の人だったらそんなことに気が付かず、喜んでしまうだろう。自分が得点した。それが二人の喜びには変わりない。だけど、藍佳は気づいていた。自分が後ろに立っている人間によって得点を決めさせられていることに。それは俺の強さではなく、彼女の気分の悪さとなった。


「もっと貪欲にプレーして欲しかった?」

「うん」


 藍佳は神妙な面持ちで頷いていた。


「でもさ、そういうの嫌いなんだけど、実際私がその嫌いな人になっちゃってるの。だから、本当は人のこと言える筋合いないんだけど、なんかあの日の帰り道、隆磨くんには言えちゃったんだよね。初めてだよ? 人に面と向かって嫌いって言ったの」

「わかるよ」

「なんで隆磨くんがわかるのよ」

「嫌いなことを嫌いって言わずに育ってきたからさ、なんとなくわかるんだよ、そういうの

 そんなこと言っておきながら、本当に俺は嫌いなことを嫌いだと言わずに育ってきたのか? と訝しんでいる自分がいる。でもなんとなくわかるのだ。そういう人には言えない上辺の付き合い、コミュニケーション。同じ人間にしかわからない想い。だから上の者は上の者同士で付き合いたがるし、下の者は下の者同士でつるみたがる。


 きっと同じなのだ。俺と藍佳は。俺の中の誰かがそう言っている気がした。



 結局ベッドから立ち上がった俺だったが、そのまま外へ出ることはなかった。藍佳にベッドに戻され、「いいから寝てろ」と優しく叱咤された。そのまままた幾時間か寝込んだ。起きたら味噌汁の香りがした。昔を思い出した。階段を下りながらその匂いにつられてリビングに入る瞬間を――。


 食事を終えて、俺は再びベッドの中で横になっていた。「俺が下で寝ようか?」と声をかけようかと思ったが、また「寝てろ」と言われる気がした。


 まどろみの中、瞼の裏でも感じる部屋の明かりが落ちた気がした。テレビの雑音も消えた気がする。薄っすら目を開けたときには、藍佳の顔がすぐそこにあった。


「私より春海の方がよかった?」


 そういえば春海、今頃どうしてるんだろうか。さっき夕食を食べてるときに、春海も具合悪くなって帰ったと聞いた気がする。練習も中途半端になってしまった。後で謝らなくてはと思った。


 至近距離で見つめてくるおっとりとした藍佳の目の中に吸い込まれそうになる。それから逃れるために、春海について考えたが、それも底をつく。今はもう、藍佳の顔しか見えない。暗闇に慣れた俺の目。常夜灯のオレンジ色の明かり。その中で見る藍佳の顔は、どうも愛おしく思えてしまう。


 たかが二度会っただけの女だ。それも、一度目にあったときは面と向かって「嫌い」と言われている。そんな女と今、寝床を一緒にしているなんて、奇跡に近いだなんて白々しい。


「嫌い」という言葉の裏返しが、「恋しい」だなんて誰も気づけないよ。だって真逆の意味じゃん。絶対に気が付けないよ。でも気づいてしまった。気づいてしまった二人は、一緒にベッドの中で抱き合ってしまうらしい。


 人間はつくづくめんどくさい。藍佳の言うとおりだ。「好き」「嫌い」「いい」「やだ」そんな言葉の裏返しがないと思えるくらい純粋に誰もが生きられるとしたら、きっともっと生きやすい世界だ。「じゃあね」と別れた後に、本当はもうちょっと一緒に居たかったのにな、なんて思うことがなくなる。そんな俺の想像の世界は、やっぱり仮初なのだろうか。勇馬に明日この話をしたら、迷わずこう言われる気がする。


「ああ、そう」って。


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