12
次の日の朝、俺は余裕を持って家を出た。藍佳も今日は休日のようだった。おそらく家にいることになるだろう。その藍佳だけがいる部屋に、俺がいることが嫌だったわけじゃない。言ってしまえばなんとなくだ。
藍佳のアパートを後にした俺は、私鉄に乗って都内のカフェへ向かっていた。電車内は非常に混雑していた。席に座ることができなかったので、乗り降りするドア付近に突っ立っていた。
スマホを開く。春海に謝らなくてはとその辞をラインで送ろうとした。フリックで素早く入力して、あとは送信ボタンを押すだけだった。しかし、送信ボタンがなかなか押せなかった。なんだろう。昨日までだったら真っ先に戸惑うことなくボタンを押していただろう。でも今はそれができなかった。
駅名を伝えるアナウンスだけが耳に流れていた。一駅。二駅。だんだんと距離を積んでいく電車に比べて、俺の中だけ時間が止まっていたようだった。でもそれは周りの人間が見たらそうあるだけであって、実際の俺の中の時間は経過し続けている。今だってそうだ。スマホの画面には「昨日はごめんなさい」というまだ送られていない文章が残っていて、でも、俺の体内時計は進んでいる。なんだか矛盾している。
俺は文章を消した。
電車内のアナウンスが俺の行くべきところを反芻している。次、降りなくては。そうやって電車を降り、階段を降り、改札を抜けた。
勇馬と会う約束をしていたカフェは、駅の近くにあった。俺は全然知らないところだったが、勇馬に指定されたのでやむを得ない。俺が指定してもよかったが、東京でよく行くカフェなんてないし、学生時代もあまり行かなかった。
約束したカフェが初めて行くところであろうと、迷うことはあまりなくなった。現代のツールというものは非常に使い勝手がいい。GPSを入れてマップのアプリに従って歩いてさえいればたどり着けてしまう。昔だったら事前に調べてから行っていたのだろうが、今はそんなことしなくても大抵はたどり着ける。はーすごいなーと感心してる間に、もうその目的のカフェへとたどり着いてしまった。
ここに着くまでの間に、先についてるよ、と勇馬から連絡は来ていた。てっきり店内で待っているのかと思ったが、勇馬はカフェの入り口付近に立っていた。それを見つけて俺は近寄った。
「外で待っててくれたんだ」
「ああ、さっき着いたばっかだしな」
俺たちは店内へと入った。
店内は比較的空いているようだった。この時間帯にしては珍しいなと思いつつも、どこも午前中が混んでいるとは限らない。昼時になれば、そのうちわらわらと客がやってくることだろう。
二人だったので、俺はカウンターでもよかったのだが、テーブル席が空いているということでそっちを選んだ。頼んだブラックのコーヒーとカフェオレを持って、とりあえず席に座った。
「勇馬ってブラック飲めるんだね。俺苦くて飲めないんだ」
「嫌でも飲んでれば慣れるもんだよ」
それは、最初は嫌で飲んでいたのかなと思わせるには十分だった。じゃあ本当はブラックなど好きではなかった。でも、眠くなってしまうから飲んでいる。仕事が大変なんだろうと、俺は勝手に解釈した。
「仕事忙しい?」
「まあまあだな」
そう言ってカップに口をつけて、一口啜っていた。その動きが、たまに来てコーヒーを飲むような動作に見えなかった。ああ、いつも飲んでるとこういう洗練されたような動きになるんだと感じる。
「好きな職に就いてもさ、やっぱり大変なものは大変だよね」
俺がそんなことを言うと、勇馬は「まあな」とため息交じりに言っていた。
なんか雰囲気が違うなあと思った。この間会ったときと違う。なんかあったのだろうかと思ってしまう。それに、勇馬は確か、俺に何か話したいことがあると言っていた。それに関係しているのだろうかと思った。言い出しづらいことなのだろうかと。
「そういえばなんか話したいことあるって言ってたよね」
「おう」
勇馬がそう答えてから、何秒か経った。んーと思うが、「なんかあった?」と切り出す。
「そりゃなんかはあるだろう」
「え、じゃあ言ってよ」
「じゃあ言うか」
拍子抜けするほどにあっさりとした回答だった。言うのを渋っていたのは言い出しづらい話題だったからではなかったのか。勇馬のその次の言葉でそれは納得させられる。
「なんか、きっかけって必要だよな」
「何が?」
「んーなんつうか、本当はすぐしゃべってもいいことなんだけど、直前になって渋るっていうか。本当にこれを言っていいのかって一瞬思うんだよね。特に最近は。俺の言葉一つで相手は怒るかもしれないし、喜ぶかもしれない。怒る可能性が少なかったとしてもあるなら、言わない方がいいんじゃないかって思うんだよ最近」
「わかるよそれ。俺もさっきそうだったもん。友達にライン送ろうと文章までは書くんだけど、本当にこれで送っていいのかって思っちゃう。でも、俺といるときは全然気を使わないで言ってくれていいよ。それって俺が勇馬の話を聞いて怒るかもしれないってことでしょ? 俺なら全然大丈夫だから」
勇馬は足を組み、自分の顎に手を当てていた。まだ言い出そうか迷っているのかもしれない。でも、顎から手が離れ、コーヒーを一口含み、さらっと彼の口は開いた。
「俺、病気作ったんだ」
「病気って、ウィルスみたいな?」
「いや……そういうのじゃなくて病名をつけるみたいな、ってなんかこの間もこんな会話したな」
「ええ? そうだっけ」
いくらか勇馬の顔が和らいでいた。さっきまでの硬い表情とは違う。これで少しは話しやすくなっただろう。
「で、病気もう作っちゃたんでしょ? この間はまだ作ってる段階みたいだったけど」
そう俺が言うと、「なんだこの間の会話覚えてんじゃねーか」とまた笑みがこぼれる。
「その病気の名前でも教えてくれるの?」
「あー。まだ完全には公表されてなくて、これから公表されるからまだ言っちゃ駄目なんだわ。でもお前には言っとくわ」
え、なんで俺には? と思った。
勇馬は口を開いた。口の動きが意識される。縦に丸く、横に口角を引っ張る、丸く、唇をすぼめる。
「マッドネスフォリエって言うんだ」
「それってフォリアドゥと似たような病気なの?」
「いや、それとは全然違う。名前の由来とか意味とか関係なく、俺が勝手に格好よさそうな名前つけただけだから」
「それってなんか大丈夫なの?」
「大丈夫だろ。発見した奴の名前が虫とか原理の名前になったりするだろ」
ああ確かに。ニュートンとかもそうだったかな、と俺は馬鹿なりに中学での授業を思い出していた。
勇馬の話はなんだか普通の話だった。勇馬はこれを聞いて俺が怒る可能性があるみたいなことを言っていたから、もっとやばそうな話なのかと思ったら意外とそうでもなかった。こんな話ならすぐ言ってくれればいいのに。
「俺が怒るかもしれない話ってこれ? 全然怒る要素なくない? ていうか全然この話俺に関係ないじゃん」
俺がそうやって笑っていると、勇馬は急に真面目な顔になった。さっきまでの和やかな雰囲気はどこへ行ったのだと思う前に、今の自分の言葉を恥じた。勇馬の顔を見て、瞬間的に「まだ本題に入っていない」という余念が浮かんだ。きっとここから勇馬は本題に入るのだ。おそらく。
勇馬は改まって口を開く。
「それが関係あるんだよ。俺はさ、ずっとお前のことが気になってた。最初に会ったときからだ。これは本当にずっと思ってた。なんか違和感があるんだよ。隆磨と話すとき、飯食ってるときとか会うたびに俺は思ってた。普通だったらさ、他の人もお前の違和感に気づくはずなんだよ。でもお前友達そんなにいなかったからさ」
「皮肉?」と俺は柔らかく聞いた。勇馬は「全然。寧ろ好意的だよ。一人の時間があれば考えたり生み出す時間も増えて何か生み出すことだってできる、って俺は思ってるし。何か犠牲にしなきゃ得られるものなんてないしな。交友関係はほどほどでいいんだ」
「それで?」
「あ、ああ。要するに、俺は隆磨に興味を持ったんだよ。お前のことを知りたくなった。だから俺は大学で隆磨と出会ってから、ほぼずっとお前のことについて調べてた」
「え、どういうこと?」と俺は聞き返していた。違和感があってずっと俺のことについて考えていたっていうのはわかる。恋愛? みたいなイメージが浮かぶが、勇馬は男だ。セクシャルマイノリティでもない限り、それはあり得ないし、何より、大学時代を振り返ってもそんなに毎日毎日話していたってわけでもなかった。話したとしても、俺に好意を持っていて話しかけているようには、今改めて振り返っても思えない……。
……病気?
さっき勇馬は、病気を作ったと言っていた。あれが話の導入だとすると、勇馬が俺に違和感を抱いていた話と切り離して捉えるべきではない。
俺ははっとする。
「その勇馬が俺に対して持ってた違和感って……」
勇馬は少し顔をそらした。
「お前は病気だ」
ポロンポロンと何かが弾かれた。ハープ、ピアノの音色。その類の記憶が懐をぞっとさせる。
「俺が病気? あり得ないでしょ。どこも不自由なところなんてないよ。五体満足だし、別に病んでるわけでもないよ。そりゃ人並みにストレスとか感じたりはするけどさ、そんなの万人共通でしょ?」
「ああそうだ。隆磨はどこにでもいる人間、障害者ではない」
「じゃあなんで……」
なんで俺が病気なんだ? しかも、勇馬はこの間「救いたい人がいる」と言っていた気がする。「病気ってイメージなんかよりも」とかなんとか。それって、今の話を聞く限りじゃ俺のことじゃないか。俺を救いたい? 馬鹿な。救うも何も苦しんでなんかいない。
「悪いとは思ったんだけどさ、隆磨の身辺をちょっと探らせてもらった」
「身辺ってなんだよ」
「隆磨、お前には兄がいただろ」
瞬間、思考が停止したかのように思う。でも現実の時間は進んでいる。さっきの電車内と同じようだ。周りの時間や動きは絶え間なく進んでいくのに、俺だけが止まっている。俺だけが。俺だけのはずが、もう一人いた。勇馬の言葉で蘇る。もう一人の自分。階段を下りる俺。降りると、リビングにはもう一人の俺がいる。朝食を食べている。俺の朝食はテーブルにはない。母親が楽しげに俺と話している。でももう一人の俺はただひたすらに朝食を食べている。
無言。透明人間――。
「調べたら、隆磨の家、社会的に見れば問題ありありの家だった。母親が贔屓染みた態度で、弟の隆磨にはべたべたに優しいんだが、兄の隆貴には冷ややかな態度だった。それはもう露骨みたいだった。隆磨の実家付近で聞いたり、兄の友達とかから聞いたらそんな噂も当時あったみたいだ。でも、それだけじゃ、お前はそんなに苦しまない。ていうか、母親から溺愛されてたんだから寧ろもっとお坊ちゃんみたく駄々をこねて生きてきて、もっとわがままな人間になってたはずだ。でも今の隆磨は違うだろう? それはお前が、」
「やめろよ!!!」
俺は机を叩いて立ち上がっていた。カフェオレが何滴かテーブルの上に落ちる。真っ白のカップの側面に滴る。ソーサーとカップが音を鳴らす。頭に血が上った。でもすぐに現実を見る。店員がこっちをまじまじとのぞき込み、客も何人かいぶかしんでいるようだった。
俺は「すいません」と他方に何度もお辞儀しながら、再び座り込んだ。何をいきなりこんなに切れてるんだ。そう思っている俺を、勇馬は飄々と見ているようだった。
「やめられなかったんだよ。世の中の人間は大抵が無関心だ。身内のこと、恋人のこと、その程度しか本気で気を遣おうとはしない。そもそも起きているかもわからないような不遇になんて、誰も気づけない。お前は自分のことを、これまで誰かに打ち明けたことがあったか?」
俺は曖昧に顔を振る。
「だろうな。世間から見れば、隆磨は恵まれてるんだ。恵まれてないのは兄の隆貴の方だ。母親からないもののように扱われ、家では居場所がなかったんだろうな。でもそんな兄じゃなくて実際苦しいのは隆磨の方であるって誰かが言っても、俺はそれを違うだろとは言えないし、疑うこともできない。疑うどころか、だろうなって思う。なんでだと思う?」
俺はまた首を振る。
「兄はお前より優秀だった。勉強もできて、テニスの腕もいい。インターハイも出たみたいだな。そんな兄に隆磨は嫉妬した。ただの嫉妬だったらそんなに苦しまずに済んだ。でも、家庭環境がお前の嫉妬に拍車をかけた。兄は家で母親からいい目で見られていない。完全な贔屓だ。それでも頭がいい、テニスもできる。なのに俺は? 俺は頭もそんなに良くなくて、テニスも兄ほど上手いわけでもない。でも家での待遇は恵まれている。兄は恵まれてないのに、家庭環境を言い訳せずに俺の上を行っている。当時のお前はそう思っただろうな。まるで透明人間そのものの兄に、お前は負けているわけだから」
透明人間、という言葉が俺に記憶を蘇らせた。点と点が繋がる。点だったはずのもの同士が、ツーっと伸びてくっつく。
なぜか、妙に納得している自分がいた。勇馬にこんなわけのわからない過去のことを言われても、納得している自分が感じられる。昨日まではなかったはずの自分の過去が、みるみるうちに俺の身体の中を浸って浸って、満たしていく。昨日までだったら嘘だとはっきり断言できた過去が、今はすんなりと納得できる。
勇馬と出会ったあの日、フォリアドゥという奇妙な感応精神病を、小説を読むことで知ったあの日。なんだか、すべてが繋がっている気さえした。あの日に俺と勇馬が図書館の一片に居たのは、今日勇馬がこのことを話すためだった。俺たちは出会うべくして出会った。そんな気さえする。
ああ、最近の違和感はこれだったのか。テニス中の違和感。俺、本当はテニス上手くないんだ。隆貴の背中を追っていたんだ。隆貴になりたかったんだ。そんな兄になりたいという俺の妄想が、俺自身に伝染したんだ。優しさを言い訳にしないあの頃の隆貴が、大好きだけど嫌いだった隆貴が見ていた景色。それが今の……
天井を仰ぐ。
「俺だったんだ……」




