表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/19

13

 朝目覚めるといつもあるのは、窮屈な空間だった。目に入るとかじゃなくて、ある、のだ。そこに、ある。自分は家の中に入っているが、入っていない。家の一部、離れのような外の小さな籠に入って、そこから家を眺めているような感覚。でも実際は家の住人。周りからは離れの鳥籠に入っているようには見えていないはず。それが明確に感じ取れるまでに、時間はそれほどかからなかった。そういう場所に来れば、誰しも自ずと気づくものだ。


 目を覚まして二段ベッドの階段を下りるとき、隆磨はいつも隆貴の姿が目に入る。彼はいつも左肩を下にして横ばいになって寝ている。昨晩の寝る前にちゃんと敷かれていた布団は、毎朝毎朝、彼の抱き枕と化していた。


 二階の寝床からリビングに降りるため、階段を下りているときは、いつも味噌の芳ばしい香りがした。朝ご飯という香ばしさに、寝起きのおぼつかない頭も覚めるはずなのだが、そうではない。冷めるのだ。


 リビングに入ると同時に言葉が飛んでくる。母親の「おはよう」は隆磨にとって空気中の二酸化炭素。酸素を吸って、いらない二酸化炭素は吐き出される。


 朝食も同じようなものだった。朝食を作ってくれる。ありがたい。丁寧に接してくれる。少し鬱陶しいが、我慢できる。母親が隆磨が成長するまでに与えてくれたものに比べれば、それは小さなことだった。母親の性格が嫌いだとか、ちょっとイライラするとか、ほんの些細なことだ。朝食は食べる。でも、それを作った母親は、どちらかというと酸素ではなく二酸化炭素だった。


 隆貴が階段を下りてきたようだ。リビングに入ってくる。「おはよう」と言ったので、隆磨も「おはよう」と返す。キッチンからちょうど出てきた母親は、隆貴の前を、そこには誰もいないかのように素通りした。


「海苔あるから、ご飯と一緒に食べな」


 母親の手には、味海苔が入った容器が握られていた。隆磨は容器を受け取る。


 母親はキッチンへと戻っていく。隆貴もキッチンに入っていった。自分の朝食を持って出てくる。隆貴は隆磨の正面に座った。


 黙々と流れる時間。さらさらと朝食を口に運ぶ二人。母親がキッチンから戻ってきた。隆磨の隣に座る。「学校どう?」「部活は?」そんなもう聞き慣れた口文句を、黙々と聞き入るように耳を傾け、さらさらと聞き流す。そんな日常が、いつからか日常になってしまった。



 先に家を出るのはいつも隆貴だった。「いってきます」と独り言をつぶやき、重い玄関のドアが閉まる音を、隆磨はいつも二階から耳をそばだてて聞いていた。その音を聞いてから約五分後、玄関へと降りる。隆磨の独り言はちゃんと挨拶となって、母親に見送られて家を出る。外に出て玄関のドアが閉まった音。それを聞く瞬間。そこがいつも隆磨にとっての入り口だった。


「また待っててくれたんだ」

「一人で登校するのは寂しいじゃん?」


 隆貴は家を出てすぐの道端に腰掛けていた。


「あ、やばい。ラケット忘れた」

「昨日学校に置いて来なかったか?」


 隆貴は隣を歩きながら隆磨の顔を覗いていた。


「なんだよ」

「いや、家にいるときとは全然顔色が違うからさ」

「うそ。そんなに違う?」

「兄には弟のことがわかってしまうのだよ。ははは」


 そんな家では見せない顔を見せる隆貴に、隆磨は嫉妬していた。


 学校に着けば、隆貴は途端に高尚な人間になる。それはわざわざ学校に来てから家で猫を被っていた皮をはぐわけじゃない。元から高尚な人だった。勉強もそれなりにできて、人望は当たり前のように持ち得ていて、ソフトテニス部の後輩からも同級生からも慕われている。ましてや、女子までもだ。男子の隣のコートで練習をしている女子部員と、相談しているのはよく見受けられることだ。


 成るべくして猫を被っているのではない。そうせざるを得ない状況があるのだ。隆貴はいつだって普通だった。いつだってそのままでありのままだった。


 隆磨は、部活に出て隆貴と乱打をするたびに思う。敵わない。根本的に自分とは違う面がある。その感情が嫉妬に変わったのはいつからだろうか。いつから嫉妬していると自覚し始めたのだろうか。根本的に違う面を持つ隆貴を見るたびに、どうしようもない妬み嫉みとなった。


 だが、たったそれだけの理由だけでこんなに嫉妬などしない。隆磨の嫉妬に拍車をかけるのは、実家に帰ったときのうなだれるような母親の贔屓の嵐。適応せざるを得ない状況に置かれ、適応していないのに適応しているように見せなければならない環境。


 比べるべきではない対象とどうしても自分を比べてしまう。自分はどうだ。隆貴より優れているところがあるか。おそらくどこかしらはある。隆貴とは言えども、完璧ではない。疲れてしまうと場所や時間を問わず、死んだように眠ってしまうことだってある。小さい頃から一緒に暮らしてくれば、多少のウィークポイントも知っている。


 それを頭に浮かべることで、隆貴にも弱みがあってと、隆磨は自分の蟠りを昇華することができる。はずなのだ。そこで邪魔をしてくるのが、やっぱり母親の贔屓染みた隆貴に対しての冷徹な態度だった。


 隆磨はこんなにも優遇されているのにも関わらず、隆磨よりも隆貴の方が輝いている。不遇の環境に置かれていながら、彼は自分をだし抜いている。敗北感屈辱感は、その都度隆磨の心を蝕んだ。


 家の環境をとやかく言いたいとかではなく、別にそんなことは関係ない。隆磨が嫉妬するのは、たとえ隆貴と隆磨の立場が逆転したとしても、彼は今の通りに、あるいは、母親にも愛情を注がれながら育ち、逆に注がれなくなった隆磨に対しても優しく接し、今以上に輝けるだろうと明確に理解できるからだった。


 隆貴がソフトテニス部の部長として場を仕切るとき。後輩と楽しそうに話しているとき。家で見せる上手な愛想笑いとは異なる、純粋な笑顔を見たとき。インターハイでポイントを取ったときのペアとのハイタッチ。その気迫微笑み頬の皺。彼の優しさに溶けてしまいたかった。彼の優しさが痛い。それを遠くから感じているだけ。自分が今の環境を卑下したら、彼が「お前は母親から大事にされていていいよな」と皮肉られ、怒り狂って殴りかかってくるだろうという推測、未来。


 そんな自分が、酷く惨めでくだらなかった。




 高校を卒業して、隆貴は就職した。その会社はソフトテニス業界では有名な実業団で、ラケットのメーカーとして広く親しまれていた。そこに入社し、午前中は経理の仕事をこなし、午後は大会に向けて練習するという、実家で暮らしていたときには味わえないような有意義な時間を過ごすこととなった。


 だが、長くは続かなかった。


 理由は誰にもわからない。


 競馬場のゲートで、スタート間際に大暴れする馬のように、隆貴はとち狂ってしまったのかもしれない。隆貴と同期で同僚の社員は、酷く頭を抱えた。俺が止めていれば。でも、止める暇などなかった。ずっと一緒に歩きながら、今の今まで談笑していて、突然真顔になる怖さ。唐突に訪れた真逆の不穏な空気を察するのは難しい。隆貴は何を追いかけていったのか。国道の向こう側に幸せが垣間見えたのか。母親と息子が手を繋ぎながら笑いあっている姿を見てしまったのか。


 右腕をまっすぐ前に伸ばして、子どもが興味の対象へと向かって真っすぐ駆けるように、トコトコと無邪気に中央分離帯を横切った。


 隆貴は、子どもになれなかった。


 隆貴を轢いた運転手も、どちらかというと罪を感じていないような淡白な心境だったという。事情聴取で、「今でも本当に人を轢いたのかわからない。轢いた感覚がなかった。なんかおかしいなと思って車を路肩に寄せて降りたら、うずくまる人がいた。でも、不思議と心配にはならなかったんです。とりあえず大丈夫かと聞くと、黙って立ち上がって歩道に消えていった。追いかける必要もないと思った。当時は確かにそう思ったが、今ではとんでもない態度だったと省みている」そんなことを語った。



 隆貴はその後いなくなった。生きているか死んでいるかもわからない。たまに手紙が届いた。差出人の名前はない。でもきっと隆貴なのだろうと思ったに違いない。母親は封を開けずにごみ箱へと捨てていた。


 隆貴がいなくなってからも家庭の生活環境は変わらなかった。母親は今まで通りで、父親は単身赴任という体で帰ってくることもなかった。それこそ父親も死んでいるのではないと訝れるぐらいに、隆磨はどうかしてしまいそうだった。嫉妬の対象がいなくなったのだ。それは、自分が恋心を寄せる女性と親しかった男性が、いなくなったようなものだ。いわばライバルが消えたのだ。これからは俺の時代だ。ライバルはいない。張り切っていこう! そう思えるはずなのに、はらわたが煮え切らなかった。


 隆磨がなりたかったのは、言わずもがな兄の隆貴だった。不遇の環境を言い訳にしない隆貴。そんな場所でも咲いてしまうのかお前みたいな花は。俺も欲しい。隆貴が欲しい。お前みたいになりたい。お前みたいになりたかった。


 でも、お前はもういない。永遠に解消することのできない疎ましさとなった。


 次第に隆磨の心には、隆貴の塵だけが積もっていった。母親も異変に気がついた。なんかこの子最近変。なんかちょっと見ているだけでイライラする。今までそんなことなかったのに。そんなことを隆磨の前でこぼすこともしばしばでてきた。


 塵が積もって山になる頃には、隆磨は高校を卒業していた。東京の大学の試験も受かり、これから新しい生活が始まる。この頃の母親の隆磨への態度は、いつかの誰かを見るように、冷徹で、知らない誰か、もういるはずのない透明人間と比べるように贔屓染みていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ