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 一気に流れ込んできたかと思えば、潮が引くように去っていく。砂を噛むような不味さがどっとこみ上げる。


 俺の前には勇馬が座っていた。「話の続きしていいか?」と聞いてくる。「ここまで話しちゃったら、最後まで俺もちゃんと話したい」そう切実に訴える勇馬の顔は、もう、この話を始める前の渋るような顔ではなかった。


「いつか話したよな。世の中には説明のつかないことが多い。大抵の人はそれを聞いたらあり得ないと思う。それが普通だ。でも、俺はその、あり得ない、ということを、あり得る、と自分に言い聞かせたいと思って最近は生きている。そのために、いろんな知識を頭に詰め込んだし、心理学の分野や人間のまだ知られていない未知の世界にも触れた。論文とか教授とか、気になることは片っ端からな。でも、そんなのは自己満足でしかない。大学一年の頃の俺はそれでいいと思ってたが、隆磨に出会ってから変わった。これは自分だけが満足していていい話じゃないって」

「だから病気って明確な名前を付けることで、あり得ないことを広く認知されるようにしたかったんだ」

「認知って言うなよ。親しまれるって俺は言いたい。病気はおかしいってイメージの方が強いが、それも一つの個性とも捉えられる。いじめだってそうだ。確かにいじめは辛いし、俺自身が体験したことがないから、本当に辛い経験をしてきた人たちからしたらお前に何がわかるって思われるかもしれないが、俺はいじめをいじめと思いたくない。周りの人間と違う経験をした。それは、一般の人が一生かけて積み重ねていく罪を、一気に受けたようなものだ。これから先はいいようにしか進まない素質がある。あるってだけだけどな」


 俺はまた天井を仰いだ。照明の色は白くなかった。夕日に間違えそうなくらい明るい電球。それがいくつもいくつも点々としていた。


「じゃあ、俺はどんな病気なの? 病気って名前を付けたぐらいだから、多少は定義できてるんでしょ?」


 勇馬はやんわりと頷いた。「一応定義としてはあるが、精神病とかって区別が難しいところもあってな。単なるストレスと抑うつの境とか、単なる妄想とフォリアドゥとか結構難しいんだ」


 フォリアドゥ、久々に聞いたなあと天井の白熱球に向かって呟く。フォリアドゥは確か、妄想が共有されるような精神病だったはずだ。一人の妄想が、もう一人へと伝染し、それが現実のように受け止められている二人。それが三人、四人、とどんどん広がっていって、いっそこの世界のほとんどの人に伝染してしまえればな、なんて思った。そうすれば、現実なんか関係なくて、彼らの見ている妄想が現実になって、本当の現実を見ている人たちが「フォリアドゥだ、お前はおかしい、病気だ」と揶揄される世界になる。


 くだらないな、リアルとか真実とかって。


「マッドネスフォリエの定義は一応ある。嫉妬の心が強すぎて、その対象が自分の中に伝染する。そう俺は進言したんだが、ちょっとな」

「ちょっとって何?」

「定義が弱すぎるって言うんだ。ほら、新しく病気の名前作るぐらいなら、話題性とかいるだろう? もっと画期的な大発見、みたいに仕立て上げたいんだろうな」


 勇馬は少し寂しげだった。


 お前は病気だ、と言われたときは正直頭に血が上った。普通に生きている俺が何で病気なんだ。そう思ったが、今はそれを客観的に見られている。すでに自分が病気だと受け入れつつあった。個性個性、他人との差別化と嘆かれる世の中で、その個性の一つが「病気」と名付けられた。人々はどう思うだろう。天才と病気は表裏一体なのか。そのうち浸透していくだろう。「あの人すごい人なんだね」「でもあいつ病気なんでしょ?」そういう声が聞こえる気がする。


 もうすでに病気側に俺は回っているのだろう。完全に受け入れつつあるのかもしれない。そういう誰かが嘲笑う声を、そういうものだから仕方ないと思えている。妄想にとらわれていたとか、幻覚を見ているだとか、勇馬の言った通り、兄の隆貴が俺の中に伝染しているのかもしれない。


 でもそれって本当なの? とすごく口にしたくなった。究極的な『お前に俺の何がわかる』って思いだ。科学的実験を何度も何度も繰り返して立証したのかもしれない。でも、お前らに俺の今見ている景色が見えるか? 誰も俺と同じ目ん玉付けられないのに、どうしてわかるんだ? ってすごく言いたくなった。どれだけ物理的に合致していたとしても、疑いたくなる。俺は病気じゃねえよ、普通じゃんかって。

普通普通ってなんだよもう。


「勇馬は俺のこと、病を患った人間として見てるってこと?」

「さっき言っただろう。俺は当たり前じゃないことを当たり前にしたいだけだ。言い換えれば、普通じゃないことを普通にしたい。自分をだますとかじゃなくて、当たり前のように普通と思っていたい、というか思ってる。だから隆磨が俺の友達ってことは、病気だって誰かから言われても出会ったときとなんら変わらないし、これからも変わらないよ」

「優しいな、勇馬は」

「優しいとかじゃないんだよ。その優しさは、今隆磨が飲んでるそこのカフェオレと、同じくらい日常的なものなんだよ」


 何かを諭させるように、何かから抜け出せと言うかのように、勇馬の眼は訴えていた。


 以前会ったときに勇馬が言ったこと。病気っていう悪いイメージよりも救いたい人がいる。それは単に勇馬が俺のことを救いたかっただけではないようだった。そもそも勇馬にとって病気というものの解釈が、そこらへんに生えてる草と同じようなものなのだ。だからきっと、その言葉は勇馬の言葉ではない。他の人が言うだろう言葉を借りただけなんだろう。勇馬の心を言語化するとしたら、そんなもん顔の黒子(ほくろ)と一緒だろ、なんて言ってくれる気がした。


 店内は、人がそれなりに入って来ていた。いつの間にこんなに人が入ったんだ? と思ったら、俺が口にするよりも先に、「居心地が悪くなってきたな」と勇馬が俺の心情を代弁してくれた。


「勇馬って人多いとこ苦手なの?」

「場所による。学食なら全然オーケー」


 そう言って、右の人差し指と親指をくっつけて丸く保つ手ぶりは、ひどく滑稽に見えた。不釣り合いだった。


「出るか」


 勇馬が席を立ったのを見て、俺は後に続いた。




 駅の改札前で立ち止まる。「俺、午後から仕事あるから」と勇馬は手を振って駅の構内に入っていこうとする。でも改札口に電子マネーを当てる直前で振り返って、戻ってきた。


「何? なんか言い忘れたことでもあるの?」


 俺がそう言うと、にかっと今まで見たこともないような顔で勇馬は笑った。さっきのオーケーサインと同じくらい似合わないその笑顔は、笑顔というよりも顔芸そのもののようだった。


 耐え切れず俺が噴き出しても、彼はその笑顔をやめなかった。やめないどころか顔を左右にひねらせて「ウーパールーパー」なんて言うから笑いは止まらない。でも急にその似合わない笑顔をやめて、凛とした表情で俺と向き合った。


「俺は隆磨の友達でいられたかな」

「なんだよ急に」

「いや」

「なになに、勇馬泣きそうな顔してんじゃん。全然大丈夫だよ。別に俺、病気とか誰かから言われても大丈夫だよ。そんなにメンタル弱くないって。寧ろありがとうって感じだし。俺そんなに友達いないから素直に嬉しいよ。こんなに俺のこと見てくれてたんだーって」


 そう言ったのが悪かったんだろう。見る見るうちに勇馬の目はうるみ始め、どこからかの光に反射する水滴が、涙袋の上を覆っていた。


「ええ、嘘。なになにー。勇馬はそういうキャラじゃないだろー。どうしたんだよいきなり」俺は勇馬の肩に手を置くが、勇馬は顔を手で覆っていた。

「最近さ、よく聞く曲があるんだけどさ」

「何?」

「誰もいない台所って歌なんだけど、隆磨は多分知らないよな」


 そう言うと、目頭を人差し指の腹で何度かなぞり、背筋を伸ばして勇馬は改札へと歩いていった。俺は勇馬の背中が見えなくなるまで見送った。勇馬が右に進行方向を変えて、構内の壁に隠れてしまってから数秒立ち尽くす。


「知ってるよ」


 丸く、丸く、舌を下げる。


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