15
今この瞬間どこかで命が消えた。俺が歩いている今も、便所に行っている間も、飯を食っている間も、誰かと笑い合う今も、何かに夢中になっていて時の経過が早く感じている時にも、世界のどこかでは涙が零れている。
その涙が枯れ切ってもうこれ以上は涙なんか出ない、そういう状態になったときに人は死んでしまうのだろう。涙なんかそうそう枯れ切らない。いつかは立ち直って生きて行かなくてはならない。酒を飲めば忘れる。誰かに話を聞いてもらえば納得したように感じる。でもそんなのは詭弁で、そのうちまた何かの拍子に思い出す。
心臓が動く限りは生き抜いていかなければならない。当事者にしかわからない気持ちをどこかのシンガーソングライターが皮肉っている。皮肉った歌の歌詞は、当事者身辺の残された人々の涙を充足させていく。皮肉が皮肉でなくなるその瞬間。そここそが誰かのためにも自分のためにも生きられる人間である証拠。
皮肉、なんて言葉を操る奴は、味噌汁のお椀の底に沈む麹のようなものだ。誰かにかき混ぜられなきゃ一人で生きていけないような奴らだ。そんな奴らに、一個人の思った感情なんてわかると思うか?
どうか教えてほしい。誰かの心情を明確に。
勇馬と別れた後、俺はまだ駅の改札口を離れられないでいた。誰かと待ち合わせなどしているわけでもないのに、駅の壁に寄りかかって一人何かに思い悩む。何に悩んでいるのか。それすらも曖昧なのに、悩んだ先に、ぱあっと開けた未来など来るはずもなかろう。それでも悩むことをやめられないのは、きっともう少しでたどり着きそうだと思うからだ。もう少しでたどり着ける。もう少しで本物とか偽物とか関係なく、悩んでいる対象を確立できる。無意識にそう思ってしまうからだ。
冷静に考えてみると、勇馬から言われたことはすぐに納得できるような問題ではなかった。俺は病気。兄の隆貴の視界そのものが伝染している。要するに、俺は隆貴として生きてるのと変わりないんだろう。そんなよくわからない病気。普通は信じられない。
なんで今更そんなことを自覚し始めているのだろうか。自覚のきっかけは、二十数年も生きてくればそこら中に転がっていたはずなのに。予兆だってあったはずなのに。
勇馬は俺や隆貴の過去を調べていたようだった。それを勇馬から聞くまで、俺は自分の過去なんてこれっぽっちも思い出せなかったと思う。誰かに、「中学時代どうだったの?」とか「高校時代は?」なんて聞かれても、当たり前のように妄想の過去を話したりごまかしていたのだろう。
誰かに諭されなければ、一生気づかないで終わる話だったのだ。病気だと言われなきゃ、俺は精神障害者ではないと思ってこれからも生きていっただろう。でも、勇馬が俺に「お前はおかしい」とはっきり伝えることで、俺は納得しかけている。今まで思いもしなかった自分の過去が、当たり前のように正解だと言い張れるくらい、鮮明だった。
それだけじゃない。春海たちとテニスをしているときの違和感だってそうだ。以前だったらそんな違和感なんてなかった。なのに割と最近になって感じ始めて来ていた。
一瞬、昔の自分の虚像が浮かび上がった。兄に嫉妬している自分。
そんな自分に、俺は今戻りかけているということ、それがなんとなくわかってしまった。
そんな自問自答に終止符を打ったのは、スマホの呼び出し音だった。ポケットの中で鳴っているその音は、電話が来たときの音。ポケットに手を入れて取り出すと、相手は春海だった。
戸惑った。そういえば昨日俺がコートで倒れてから、一度も連絡していないということに思い至る。朝の電車内で送ろうとした文章も、結局送らずじまいだった。
「はい」
『あ、隆磨? 大丈夫だった昨日?』
「そっちも具合悪くなったみたいで」
『私は具合なんか悪くなってないよ』
「ああ、そう? で、なんか用事?」
『いや、用事ってほどでもないんだけどさ、今日泊まるところとかあるの?』
「ああー、ネカフェかカラオケにでも居座ろうかな」
『カラオケって五時までしかいられなくない?』
「ああそうだっけ」
『うち泊まりに来てもいいよ』
「ああじゃあこれから行くわ。場所ラインで送っといて」
そう言い残して電話を切った。
構内の壁に寄りかかって一つ溜息が出た。俺の人生って何だったんだろう。急にそんな感情が溢れ始めた。今まで通りに生きていれば、こんなに悩まなくても済む話だったのにと、少し勇馬のことを叱りたい気分だった。でも勇馬は勇馬で、俺を助けたいと思ってしたことなのだろうから、そこまで否めない。問題なのは、なぜ勇馬には俺のことを助けたいと見えたかってことだ。
友達、ってだけでそう思ってくれたんだったらすごく嬉しいな。
俺の母親のようにすごく愛されすぎても極端に贔屓されてもダメ。友達。その立場がすごくかけがえのないように感じられた。友達以上の関係を隠した友達。
小一時間、寄りかかっていた構内の壁から離れた。おぼつかない足で、トコトコと駅の改札を抜けた。
春海のアパートまでは、それほど時間を要さなかった。マップアプリを開いて、位置を確かめる。ここだな、と見つけたアパートは、それなりに建築年数が経っていない建物のように見えた。外観がきれいだった。学生マンションのように、入り口がオートロックになっていて、どこかのマンションの劣化版のようにも見えた。
番号を押して呼び鈴を押す。ほどなくして春海の声が聞こえた。
「今開けるね」
オートロックのドアが開き、中に入った。エレベーターがあったので、それに乗って五階まで上がった。五〇三号室。ここが春海の部屋だった。
ドア横のインターホンを押すと、すぐに春海がドアを開けた。「どうぞ上がって」すんなり中に入ることになる。
間取りはそれほど凝ったものではなかった。俺が暮らしているアパートとあんまり変わらないし、この間行った藍佳の部屋とも、間取りの向きが違うだけでほぼ似たような感じだった。カーテンも淡いベージュだし、ベッドの布団や枕もありふれた色だった。特に女の部屋に来た、という印象がなかったからかもしれない。自分のアパートに帰ってきたときと同じように居られた。
「コーヒー飲めるよね?」
「ああ、ブラックでもカフェオレでも頂けるなら」
春海は台所へ行き、水道の蛇口から電子ケトルに水を入れて沸かしていた。その姿を俺は見ていた。
台所……。誰もいない台所という言葉をさっき勇馬から聞いた。振り返ると台所があって、そこには春海の横姿が見える。恋人、そんなワードも頭に浮かんだ。それに続いて、母親、というワードが連想される。
今の俺にとって印象的なワードは、恋人よりも母親の方が強い。勇馬から聞いた自分の過去。それが今俺の頭の中では蘇っている。母親……。どんな母親だったかは、口にするまでもなく、今は鮮明に見える。
自分の母親と春海を重ね合わせているのか。ダブらせてどうしたい。勇馬から教えてほしいくらいだった。
沸いたお湯をコップに注いでいた。ティースプーンでかき混ぜている。そのスプーンを流しに置き、二つのカップを両手にこちらへと近づいてきた。
「何?」
「あ、いや特に」
床に置かれた短脚のテーブル。そこにカップを置き、長方形の長い方には俺が座っていて、短い方に春海が座る。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
そんな片言のやり取りからは、春海が自分の母親のようには思えなかった。面影を重ねたさっきの自分を戒める。全然違うじゃんか。俺の頭は騙されてる。そうやって宥めた。
部屋に二人。ぽつんと座っていくらか経った。居心地が悪いとは思わなかったが、この沈黙はどういう意味? とは思った。あれだよあれ。藍佳と一緒に帰ったときのやつ。藍佳に嫌いだと言われたあのとき、別の意味で早くその場を去りたかった。
あのときは確か、最初は、沈黙が痛くて早くその場から抜け出したいという衝動に駆られていて、嫌いと言われた後は、早く家に帰って寝たいという感情が胸でざわめいていた。
今の俺は、そのどっちの感情なんだ?
「あのさ」
春海が口を開いた。
「最近の隆磨ってなんかちょっと変じゃない?」
俺はそれを聞いて、ああ、って納得したのかもしれない。これは確実に沈黙が痛い方のやつだと。「なんか」とか「ちょっと」で曖昧に濁して、事の真実をぼかしている。
いつの日にか、そんなことを言われたことがあった。なんか、ちょっと、変。確実に違うとは言い切れない、疑っている状態。以前の良さを知っているから、今はおかしいということを信じ切れていない状態。
理解者が、母親に変わった瞬間だった。
居心地が悪い、と完全に自覚した途端、この部屋がみるみるうちに実家に変わっていった。この雰囲気。閉じ込められた密室。出ようとしても出られないジベット。家の庭に立っているポール。高く吊るされた狭い鉄籠の中から自由な人間たちを眺める。学校に行って、お前らいいなあと嫉妬する。だが、もっと嫉妬するのは家の中で閉じ込められているもう一人の自分。お前はいいなあ。閉じ込められていることにはお前も俺も変わりないが、待遇が違うじゃんか。スキルが違うじゃんか。持っているものが違うじゃんか。
民衆から石を投げつけられたりなんかはされていない。全然痛くない。腕も脚も切り取られてなんかない。全然身体なんか痛くねえよ。痛いのはさ、心だ。ずっっりいよ。心だけ痛めつけるなんて。もう一人の自分がよく目に入る身近にいることで、もう一人の自分は民衆に変わった。ジベットに石を投げつける虐待者に変わった。でもお前は俺の兄弟じゃないか。大事なんだよ。大事なのに嫉妬させられるんだよ。お前ならいいかとか思えないんだよ。嫉妬嫉妬嫉妬。お前が羨ましい。すぐそこにいるのに、同じ人間なのに、同じ家で育ったのに、別の床に居るお前が羨ましい。この溝はなんだ。溝じゃねえ溝じゃねえ。
兄弟は大事だ。お前の元から姿を消さない限り、俺の嫉妬はやまないどころかさらに増すだろう。
一番の理解者。それが兄弟。俺のことを一番知っている兄弟。一番そばにいた時間が長い兄弟。そこから離れる方法。嫉妬から逃れる方法は――。
ああ、俺の敵は母親なんかじゃなかった。いつの間にか、隆貴へと変わっていたんだ。
「私、隆磨のこと好きなんだよ」
母親はいつも俺にべったりだった。俺のことが好きで好きで仕方がないのかもしれないと思った。
「でもなんか、最近の隆磨って別人みたいで。なんか、隆磨の奥にいる人格みたいなのが好きで、もともと私が好きだったのって隆磨じゃなかったような気が最近どうしてもしちゃう。だから、顔だって全然好みじゃないし、性格を好きになったんだって思ってた。でも最近、その人格すら恋しく思えない」
「こんな私っておかしいかな?」と春海は聞いてくる。その顔。いつかの誰かの横顔に似ている。
「おかしくないよ。だって、俺が一番それを感じてるから」
カップの真っ黒なコーヒーに、湯気が立つ。その湯気の向こうに自分の顔が見える。本当の俺。隆貴じゃない俺。多分俺は今、元の自分に戻りかかっている。
勇馬は俺が「マッドネスフォリエ」という病気を患っていると言った。元の俺に戻った俺は、きっとまた嫉妬を繰り返す。忌まわしき鉄籠の中から眺める対象。それはきっとまた隆貴なのだろう。
「大丈夫?」
春海が心配そうにのぞき込んでいた。「顔色悪くない?」と聞いてくるということは、本当に顔色が悪いんだろう。
「ごめん。なんかちょっと俺って変だよね。でもわかってる。ごめんね。すっごい気まずいとは思うけどさ、今日だけはここに泊まっていい?」
「それは全然いいんだけど、本当に大丈夫?」
「……戻っちゃう気がするんだ。平凡な日常に。今ここを動いたら、勇馬の、俺のために泣いてくれた友達を裏切ることになっちゃうから」
だから今日はここに居させてくれ。俺は大丈夫だから。そう言いたかった




