16
朝起きると、なんて事のない日差しがカーテンに透けていた。体が感じ取った布団の柔らかさは、酔って玄関の床で寝てしまった大学時代を思い出させる。
床で寝るからいいと言ったが、春海は優しい人間だった。一緒のベッドに入れてくれて、そのまま眠りについた。起きてみれば、その春海の姿はなく、台所の方で物音が聞こえた。
「起きた?」
部屋に入ってきてカーテンを開けてくれた。すでに着替えは終わっているようで、見慣れたジャージ姿になっていた。
「朝ご飯、味噌汁だけ作ったけど食べてく?」
俺は素直に頷いた。
朝ご飯を食べて、シャワーを浴びてと、支度をしていると、春海と長野でテニスするときはいつもこんな感じだったなーと思い出した。家と場所が変わっただけで、何ら変わりない。いる人が同じなら、そんなに変りなないと人間の脳は騙されるのだろう。
「じゃあそろそろ行こう? 電車送れちゃったら元も子もないし」
二人ともラケットバックを持って家を出ようとする。春海が先に玄関の方へ行った。俺は、忘れ物がないか今一度バッグの中身を確認した。
確認し終えて、玄関へ行った。靴を履きながら手に持っていたバッグを背負おうとすると、ヒュッっと息が入ってきた。一瞬、喉に詰まる。
俺は背後を振り返った。首が動き、目線が追いつく。今さっきまでいた部屋が見える。台所が見える。
そこにはもう、誰もいなかった。
「早くしてよー」と痺れを切らした春海が玄関のドアを開けて覗いてくる。
「おう」
俺は靴を履いて急いで外に出た。
「忠くんと藍佳とは駅で待ち合わせてるから」
「二人も大会に出るの?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
俺と春海は電車に乗った。大会のコートがある場所の最寄り駅で降りると、改札口の近くに二人はいた。
一緒に歩いた。
忠がいた。
藍佳がいた。
忠の格好は、スポーツマンそのものだった。背が高いのもそのせいだろう。優しさが身体からにじみ出ている。
藍佳の格好も、この間練習の時に見た格好とそれほど変わりはない。上下スポーツブランドのジャージ。ラケットバッグを背負っていた。
じゃあ行こうと春海が言った。駅を抜けて、大会のあるコートへと歩いた。駅からそんなに遠くはないと聞いていた。歩いて十五分程度だった。
歩き出してすぐ、春海は忠と話し出していた。俺と一緒に居るのがきつかったのかもしれない。
残された俺と藍佳は、自然と会話する形となった。「この間はありがとう」「もう大丈夫?」「ああ、全然」と話は順調に進んでいった。
横断歩道を渡った。渡り切ったらもうあとはまっすぐ歩くだけだと藍佳が言った。
沿道に植林された木々が連なっていた。樹か、と思った。二酸化炭素を吸うんだよなと。
樹にしか吸われない二酸化炭素。今の俺にはすごく響くワードだった。二酸化炭素はのけものだ。自分が同じように思えた。人には理解してもらえない感情が胸のここにあって、人には言えないことが胸の中に張り巡らされている。そんな二酸化炭素の俺。でも、俺には樹というのけものを受け止めてくれる対象がない。でも誰かにはある。きっと藍佳だっているはずだ。この年の女性なら、好きな男性の一人くらいいそうなものだ。樹という、人を取捨せず誰にでも優しく接して、心地よさを提供してくれる対象が。
そんな木々の中を、反対側の沿道で車椅子に乗る人が歩いていた。
ああ、車椅子か。
車椅子に乗った人が風に揺られている。
車椅子も樹と同じなんだろう。誰にでも優しく接してくれる。
あるはずのものがなくなる。その恋しさや虚しさ屈辱感は、いつだって人の喜怒哀楽を創り出す。気の利いた言葉なんかじゃなくて罪滅ぼしだ。何かないから同情されるのか?
俺も同情されたのか?
「隆磨くん?」
藍佳が俺の顔を見ていた。
「なんかおかしかった?」と問いかけると、藍佳は、「全然」と言いかけて、
「隆磨くんらしいなって」と目を細くして笑った。
それがすべてだった。
俺は最後に笑ったんだと思う。沿道から見える車が横を次々に去っていく。そのスピードにのった車が、箒星にでも見えたんだと思う。どこか遠くで落ちた隕石は、落ちた場所では存外な被害だろうが、遠くから見れば綺麗なものだ。遠くに飛んだミサイルを、箒星だと思って願い事を唱える。「――ください。――ください。――ください」と三回唱える。
はあ綺麗だ、と、近づく箒星が手の届く位置に来そうだ。
「これは箒星じゃない。ミサイルだ!」と誰かがそう言っても、子どもの耳には届かない。
星をこの手で掴んでみたい。そういう優しい温かい欲を一番最初に教えてくれるのは、母親だから。そう思っていたいから。
恋蛍が弾け散った。




