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「私って間違って生まれちゃった子なんだよね」
笑いながらそう言う彼女を見て、僕は本当の自分を思い出した。
ずっと焦がれていた。ずっと嫉妬していた。いくら勉強ができても、いくらソフトテニスが上手かろうと、いくら人望があって誰かから慕われようとも、満たされない何かが僕にはあった。それを最近知った。
道端で拾った猫のような彼女は、まさに猫の権化かというように僕の心を安らがせた。勝手に僕が安らいだってのもある。この感情は何か大切なものを意味している気がする。
昔、弟がいた。一緒に暮らしていて、優しい弟だったと思う。僕が母親から嫌われているのを知っていても、学校ではよく話してくれたし、今でも一番の理解者だと思っている。
ある時、学校と家での弟の表情が違うことに気づいた。だから、よく観察してみた。そうしていると、だんだんと弟の心情が見えてくるような気がした。家にいるときは、僕と弟が話すと母親がいい顔をしない。多少なりとも母親を悲しませたくないという感情があったんだと思う。母親に少し反発している声を二階から聞くと、少し心が熱くなった。でも同時に、喧嘩はやめようよ、と子ども染みた言葉をかけたくもなった。自分のために弟が母親に反発していることはすごく嬉しい。でも、弟と母親が喧嘩しているということを想像すると、その温かくなった心は少しずつ嫌な感情が蝕んでいくようだった。
そんな僕は、母親と喧嘩すらできない臆病者なのか、と少なからず思ったりした。だから、喧嘩する弟のことが少し羨ましくも思えた。少し、嫉妬した。
学校に行けば確かに安泰だ。友達がいる。僕が普段からみんなの話を食い入るように聞いていたせいか、「隆貴はどうなんだよ」とみんな僕の話を聞いてくれた。
部活だってそうだ。部長という役職に就いて部員をまとめることも多かったが、あまり難しくなかった。僕が言わずもついてきてくれるようないい部員たちだった。女子部員達からも相談を受けることもあった。そんないい人たちに囲まれて、インターハイにも出られていい思い出になった。
でもなんか根本的に違うなって思っていた。みんな優しいけど、どこまで優しいかがわからなかった。素性が見えないというか、絶対的な信頼を寄せることができないというか。愛情とか、愛着とか、そういう言葉を聞くたびに、僕は弟に嫉妬していた。
でもそんなことを弟に言ったら、「お前は勉強もできてテニスもできて人望もあっていいよな」と蔑まれてしまうかもしれない。僕にはそういう恵まれた面もあるんだから、家庭内の待遇ぐらいは我慢しろよ、そう耳元でささやかれる弟の声がつらい時期もあった。そういうときに弟と母親の喧嘩を見ると心が温かくなった。それがもはや生きがいですらあった。学校の優しい友達なんかよりも。
でもそんなのは一瞬の仮初めだ。結局長引く二人の喧嘩を二階から聞いていると、怒鳴り声も散ったりする。なんか嫌だなあ。もっとみんな人に優しくなればいいのに。
そんなこんなで、僕は争いごとを嫌うようになった。自分が我慢すれば済む話だったら、嫌われたって平和を求める。そんな自己主張のない人間になった。
僕の膝の上に頭をのせる猫は、すやすやと眠っていた。よくもまあこんな不安定な枕で快眠できるものだ。最初はそう思ったが、立場が逆転すれば僕も同じ状態に陥るだろう。猫の膝の上で寝られるなんて、この上なく愛おしい。彼女なら僕のことをわかってくれる。そんな人間の絶対的な愛情なんて感じたことある? 「私はどこにも行かない」って言語化しなくても伝わってくる。そんな人間と出会ったことがある? 出会ったことのない人には嘘に聞こえるだろうが、これがあるんだよ。人間って不思議だね。
最近腹違いの父親からこんな連絡があった。
「お前の弟、自殺未遂したみたいだぞ」
たったそれ一行。何の前触れもなく、音沙汰がなかったのに唐突に。父親と会話するということにはあまり意識が行かなかった。弟。弟が自殺未遂。それは大変だ。
すぐにネットで調べた。パソコンを開くが、僕の膝の上には猫が頭をのせて寝ている。起こさないようにと、少しずつテーブルの前に移動した。
事件は、なんでも、ソフトテニスの大会に行く途中に起こったそうだ。ミックスダブルスの試合で、ペアの女性やテニス仲間と歩いているときに起こったらしい。今まで楽しそうに会話してたのに、弟は突然道端に駆け出したようだ。そのまま突っ込んできた乗用車にはねられる。
その車に乗っていた運転手の証言によると、「轢いた感覚がなかった。なんか嫌な予感がして路肩に車を寄せたら、うずくまる人が見えた。ドアを開けて大丈夫かと声をかけたが、何にも言わずに立ち上がってそのまま走っていってしまった」ということらしい。
その事件の際、一緒に居た若い女性は、弟と仲が良かったということが周りの証言から分かったという。事情聴取で、「あなたは被害者の桜田隆磨と恋人だったんですか?」という問いに、「そういう仲ではなかったと思うんです。というか今もふわふわした感じで。なんでこんな人と一緒に居たんだっけ、って思っちゃうくらいで」と、謎めくような奥ゆかしい発言をしているという。
伝染したのか。男の言葉が思い出される。
弟はとちくるってしまったのだろうかと思った。家庭環境があんなんだったからしょうがないと言えばしょうがないのかもしれないが、弟だけはやっぱり心配だった。
昔の僕だったら。
今の僕は少し変わってしまったのかもしれない。弟と一緒に暮らしていたころは、思い悩むことも多かった。母親と弟が喧嘩しているのを見るのは、虐待しているのを見せられているのと同じくらい辛いし、でもそんな弟への嫉妬は後をやまないし。
家を出てからは、それも変わった。確かに、今みたいに昔のことを思い出すことはたびたびある。でも、今は弟に嫉妬なんかしたりしない。もう何年も弟の顔なんて見ていない。会ってすらいない。
そんな嫉妬の対象と離れてしまったから、嫉妬なんかしなくなったんだろう。当たり前のことだ。
でも、ちょっとこの事件に関しては気になった。自殺未遂ともなると、命にもかかわってくる。連絡先など知らないが、どこかの探偵にでも調べてもらえば、それほど時間もかからずにわかることだろう。
弟に電話したらなんて言うだろうなあと、弟の顔や想像を膨らました。「久しぶり!」「会いたかった!」なんて言われるかもしれない。
想像した瞬間、唐突な心臓の高鳴りを覚える。ドクッと一回、もう一回。心臓が跳ね上がっているのがわかるほどの鼓動だ。なんだこの寒気は。寒くもないのに全身に鳥肌が走っている。おぞましい、何だこの空気は。嫌な予感がする。ここに居たたまりたくない。ずるい、ずるい、なんでお前だけ、という感情がゴポゴポと溢れ出す。
顔を大きく横に振った。はっはっと息が乱れている。いけないと思った。また嫉妬の対象が出てきてしまった。この病気は強い嫉妬の対象が自分に伝染するのだ。このままでは弟が僕に伝染して、僕も自殺未遂をしかねない。今はそんなことできないのだ。
膝の上では、何度か揺れたにもかかわらず猫がまだ眠っていた。この顔。この顔だけ見ていればいいんだ。弟なんか忘れろ。弟の顔なんか思い出してはいけない。弟なんかよりも、猫の顔を見てればいいじゃないか。彼女は絶対に裏切らない。彼女は不遇の環境に生まれた。僕と一緒だ。僕とつながっている。僕の気持ちをわかってくれる。僕だって彼女の気持ちが、言葉を交わさずともわかる。
耳を下にしていた猫が、寝返りを打った。薄っすらと瞼が開く。
「結構寝ちゃってた?」
「うん。僕の膝の上でぐっすり」
「なんか、隆貴君の膝の上って寝やすいんだよね。なんか優しいお母さんみたいで」
咄嗟に、ヒュっと息が吸い込まれた。
この間訪れてきた男のことが思い出される。
「あなたの病気は今のところ完治する見込みはありません。今の医術では、薬で治ることは絶対にないと言い切れます。でも、先延ばしにすることはできます。自分と同等の人間を見つけて愛し合ってください。異常な嫉妬心から生まれるこの病気には、それと同じくらい異常な誰かとの関係性が必要です。共依存まではいかなくても、それに近い関係性で結ばれることで、あなたの自我を保つことができます。でも何かの拍子にまた症状が戻ってしまうこともありかねません。ただ、人間の脳は未知数です。あり得ないこともあります。突然あなたの病気が治ることだってあり得ます。だからこれだけは信じてください」
僕の前に現れた見知らぬ男性。男は僕の過去を知っていた。弟のことも知っていた。「隆磨とは友達です」と言っていた。「なんで僕にそのことを?」と聞けば、「もっと違う方法もあったのかなと省みたんです」と訳の分からないことを言っていた。そして最後に、また意味のわからない言葉を捨てていった。
「あなたは病気ではありません」と。
面白いことを言う男だった。病気だと教えてくれたのに、あなたは病気ではないと何を矛盾した発言をしているのだと。
でも、なんとなく気づいてはいた。自分が普通ではないことに。
だからと言って、簡単にこの命をくれてやるつもりもない。生きて生きて生き抜いて、最後は笑って死ぬ。この猫と一緒に最後まで生き抜く。一緒に寄り添ってどこまでも愛し合って、熱狂しきるまで僕は何度でも生きる。何度だって生きられる。そんな気がした。
逆を返せばこういうこと。
「何度でも死ねるんですよ。あなた方の病気は」
男の声は、四畳半のアパートに染み付いていた。




