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勇馬は東京で就職したようだった。俺が就職した後、大学院に進み、臨床心理技士の資格を取ったみたいで、今もそれ関連の職場で働いているみたいだった。
待ち合わせに約束したのは、居酒屋でもファミレスでもなく、かつて俺と勇馬が通っていた大学の学食だった。
早番で、定時に抜けてこられるみたいで、時間は十八時には着くということだった。俺はそれに間に合うように、新幹線に乗って東京に来ていた。昨日も来たので、なんだか新鮮味がなかった。旅行感というか。
俺がかつて通っていた大学に着くと、懐かしい、とは思わなかった。それはきっと、俺が当時、大して思い入れがあって大学に通っていた訳ではないということだろう。形あるものは日々を重ねるごとに退化していく。俺の前に見える大そうな校門、奥に見える校舎は、対価など微塵も感じられなかった。キャンパス内を歩く生徒たちは、当時も今も変わらずそこにあった。
学食なんて、勇馬としか行ったことがなかった。広くて、どこかの社員食堂みたいに賑わっていて、そこかしこから話声が聞こえる。机に肘をついて話す目。身振り手振りで伝えようとする相手。机の真ん中で必死に食べる生徒。弾かれたように壁に向かっているカウンター席の数名。
あの頃の自分は何を思ってここへ来ていただろうか。親バカはだんだんと子離れに。誰にも注がれなくなった愛情は、俺をここへと誘った。居場所がなかった訳じゃない。寧ろあったはずだ。俺なんかよりも、隆貴の方が……。
隆貴?
「よう」
顔を上げれば、勇馬がいた。
「久しぶりだな。大学以来?」
「そうかも」
仕事を終えてここに来ただろう勇馬は、てっきりスーツでも着ているのかと思ったが違った。ジーンズに無地のシャツ、パーカー。どこにでも売っているような大量生産された洋服だった。
「着替えてきたの?」俺がそう聞くと、「ん? いつもこんな格好の上にたまに白衣着るぐらいだからね。意外と身動きは手軽なんだ、俺の仕事」そう言ってパーカーの裾を引っ張って見せてきた。
「それよりなんか食った? 頼もうよ」
俺も立ち上がり、食券を買いに行った。
「よく食ったよなー、かつ丼。でもここのかつ丼ハムみたいにうっすいからな」
「まあ学食だからね。それに安いし」
それもそうか、と勇馬はボタンを押していた。
貰いに行く時も、「ああー懐かしいな」としきりに話していた。こんなことがあったなとか、あんなことがあったなと懐かしんで話す。過去は未来に懐かしんで話すためにあるようなものだ、そんなことを気持ちよく言っているかのように思えるぐらい、気分がよさそうだった。
席に座って食事を始めてからも、何を話そうかと話題を探すような感じにはならず、話したいことを話したいだけ話していた。ウォーターサーバーに水を取りに行くときでさえ話は絶えない。久々に会うと、近況を報告して、大学時代を懐かしんで、それだけで話題は絶えず、おつりがくるくらいだった。
「隆磨は今何の仕事してるんだ?」
「介護士を。デイサービスみたいな」
「へえ、大学時代からは考えられないな。もっとこじんまりしたとこで働いてるのかと思った」
「十分こじんまりしてるよ。田舎のちっちゃい施設だし」
そんな話の流れで、結局俺も近況を報告することになる。有休をとった。そういえば、ベトナム人の女性が来たんだ。この人が面白くてさ、なんて気づいたら自分だって陽気に話しかけている。毎日会っていたら、こんなことにはならないのだろうけど。
「でも、変わらないな、隆磨は」
「ええ? そんなことないでしょ。時間が経てば少なからず人は変わるよ」
「いや、そういうことじゃなくてさ、なんか雰囲気が変わらないんだよ。会った当初と」勇馬は何かを思い出すように食堂の天井を見上げていた。
勇馬と初めて会ったのは図書館だった。当時、偶々文芸誌に嵌まっていた俺は、毎月毎月図書館に通っていくつかの文芸誌を読み漁っていた。その文芸誌の置いてある場所が、心理学系の論文の隣だった。
勇馬は心理学を専攻していた。最初に話しかけられたのも、そんな話題だった。
「フォリアドゥって不気味だよな」
俺が文芸誌を立ち読みしている隣で、彼は何かの論文を探しているようだった。探しながら、「俺もさっき気分転換にそれ読んでたんだけどさ、結構小説も面白いな。硬い文ばっか読んでるとたまにそういう小説読みたくなる」
俺にとっては、いきなりそんな話題を吹っかけてくるお前の方が不気味だ、と思ったが、でも実際小説を読んでいて自分も気になっていた。この話に出てくるフォリアドゥって何だろうと。二人同時に狂っている、と簡単に説明こそされていたものの、実際にあり得ることなのだろうかと不思議と引き込まれていた。
「フォリアドゥってさ、あんまり俺も知らないんだけど、一般には二人狂いって言って妄想と妄想が共有されるような精神障害みたいなんだ。だから、その小説で出てきた二人の兄妹はさ、どう考えても狂ってるだろ? でも彼らにとってはそれが狂ってるとは思えていない。彼ら二人だけが見ている景色は、俺たちの見ている景色と同じなんだよ。お前らが私たちのことを狂ってるって言うなら、お前たちの方が狂ってる。自分たち兄妹の方が正常だって」
勇馬は棚から分厚い冊子を取り出してはまた、棚に戻していた。表紙を見て、ぺらぺらとページをめくって、これは違うなとでもいうように棚に戻す。その棚から取り出してからまた戻すまでの速さは一定で、次々に漁っては戻してと繰り返していた。
「俺そういう系のこと学んでんだ。最初は適応障害のことに興味があって勉強してたんだけど、心理学って分野が広くて学んでいくうちにいろんなことに興味がわいてきた。共依存とかストックホルム症候群リマ症候群。こういうのを知っていくとさ、人間って普段俺たちが見ているものだけじゃないんだって思えてくるよ」
「例えば?」
「例えば?」そう勇馬が俺の質問を繰り返した時、初めて俺と勇馬は顔を見合わせた。どこにでもいる青年で、眼鏡をかけていればきっともっと賢くてジーニアスなイメージがついた。でも違った。彼はどこにでもいるような大学生だった。
「例えばそうだなあ」と勇馬は斜め上の方を見上げていた。「いい例が思いつかないけど、簡単に言えばドラマとか少女漫画の世界ってやっぱりそういう目でしか見れないじゃん? でも、現実であるんだよ。極端に言っちゃえば、SF染みたあり得ないことが人間にはある」
「でもそれって単に自分が知らなかっただけって話じゃ……」
「的を射てるね。そういうことだよ。俺たちの知ってる人間じゃない人間が、学びの奥にはある。でも俺たちは、人間を知った気になってる。自分が人間なわけだし、大人だったら、二十年も生きてくればそれなりの他の人間とかかわって生きて来てるわけなんだから、なんとなく人間のことを分かった気でいるんだよ。でも、世の中には説明できないことも多い。そういうことを知って、掘り下げていって、説明ができない事象を『あり得ない』と思えなくなる瞬間が、俺はこの上なく楽しい。今までだったらあり得ないと思ってたことが、学んだ後でそういうこともあるんだってなる瞬間だよ。惚れ惚れする」
そんなことを初対面の人間に話せるような、一風変わった奴だった。その話以降から、たびたび大学内で会うことが多くなっていった。
勇馬から「違うな、変だ」と言われたのも、初めて会ってから間もない頃だった。多分、普段から心理学を学んでいる人は、人間を見る目が常人を卓越しているのだ。自分と違う人間が現れると、おかしいと思うに違いない。「まるで多重人格みたいに見えるんだけど、それとは違う。まだまだ俺も勉強が足りないな」と頭を悩ませていた。まるで俺は普通の人間と違って、何かの病気にでもかかっているみたいな言い草だった。その病気が勇馬の知識外のもの。だからこれからもたびたび飲みに誘うよ。そんな理由で誘われる身にもなってほしいものだった。
でも、楽しくなかったわけじゃない。普通にくだらない話のことが多かったし、単純に楽しかった。勇馬は、そういうくだらない話に隠れて俺の顔色や心情を窺っていたのかもしれないが、俺にとってそんなことはどうでもよかった。楽しかったから。現に今も、またこうして大学の食堂で一緒に会えているわけだし。
だから久々だったのだ。勇馬が隆磨という人間に対しての話題を挙げたのは。久々に会ったからだろうか。まるで、遠距離恋愛していた恋人同士が久々に会って、「好き」と伝えているみたいなもの。毎日毎日「好きだ」と言っていてもありがたみがなくなってしまいそうだからと、敢えて今までは言わずにいた。でも今日は久々だし、ちょっと言ってみようか。そんな軽いノリだったんだと思う。
「俺今さ、新しい病気作ってんだ」
「え?」と驚いてしまう。何か最悪なウィルスでも開発しているのか。そう思ったが、それは次の勇馬の言葉で訂正される。「あ、テロみたいなやつじゃないよ。病気を作ってるっていうか、まだ立証されてない病気に病名をつけるみたいな。ごめん、言い方が悪かった」
「そうなんだ。学生の頃からそういうことに興味あったみたいだから、社会人になってからも楽しいんじゃない?」
そう思って俺は問いかけるのだが、「全然」と勇馬は手を横に振る。
「未知の世界って大変なんだよ。何度も何度も試行錯誤して完璧に立証しなきゃならないんだ。それが本当に根気がいるし怠くてね。でもさ、今まで病気だと思われてなかったことがさ、病気だって言われることで救われる人もいると思わない? 今までさんざんなこともあったけど、自分は病気だったんだ。悪いのは自分じゃなくて、病気のせいだったんだ。そう思うことで安心する人もいると思わない?」
勇馬の熱意は言葉からも身体からも伝わってきた。考え方には同意できた。今までずっと生きてくる間に抱えていた厭わしさの正体は、病気によるものだったのか。そう安心する人も少なからずいるだろう。そうすれば、周囲だって「あなたは病気だから」という目で見てくれる。配慮もしてくれる。そんな反面、「お前は病気なんだ」と卑下したり蔑む人も中にはいるだろう。当人だって周囲が優しくしたとしても皮肉られているように感じるかもしれない。そう思うとどっちもどっちだなと思った。
「でも病気ってなんかイメージ悪いし、病気って言われると病気を患った本人もどうなんだろう」
「それは思う。でも今の俺にはそんな病気ってイメージよりも救いたい人がいる」
「誰?」
「秘密」
恋人に顔を近づけて、キスする寸前で唇と唇の間に人差し指を入れる。溜めるだけ溜めて、寸止めする彼氏。勇馬の仕草は、それを見ているようだった。今に見てろ、そのうち俺の夢を叶えてやるから見とけ。そう言うかのように。
夜のキャンパスは、昼間の人気を消し去って、全部陰にしてしまったかのようだった。学生が歩いた足跡は、全部昼間の太陽に吸い取られて、学生の足跡も過ごした一日の痕跡もなくなったキャンパスを夜の月が照らす。月がすべてを吸い取ってしまったように見えるが、実は太陽が吸い取ってしまった、そう疑うくらいには満月の輝きが昼間の太陽と同じくらい明るく意識された。
勇馬は「楽しかった」と言った。加えて、「そのうちまた会おうよ」とも。そう去り際に言う勇馬の姿が、学生時代の勇馬と重なった。未知の世界を知りたい。知ることでそれを当たり前にしたい。学生の頃勇馬が追い求めていたものを、彼はもうすぐ手に入れようとしている。勇馬が俺のことを気にしたように、俺は今、勇馬のことを気にしている。もうすぐ彼は何か成し遂げそうだ。そんな気がしてならない。
少しずつ遠くなっていく勇馬の背中。明るい月が照らす。昼間の太陽は勇馬の痕跡を消さず、月は彼の背中を大きく照らしていた。彼にはもうすぐ何かあると、そう俺に促す伏線かのように。




