三ノ怪:くねくね 中編
2025年8月3日
世間一般は夏休みという俺にはまったくと言って良いほど無関係な行事に入り、キャンパス内はいつもに比べて静かである
「先生、こちらが例の物です」
俺の助手兼ゼミ生の鬼一瞳はさも当然かのように俺の研究室におり、バッグから何かを取り出し、テーブルの上に置く
「例の物?」
「伊勢神宮の御塩殿より作られた御塩でございます」
三週間前、俺の数少ない友人の一人、牛沢が怪異により殺された事件。
その際、鬼一に御塩をお粥にかけて食べたと伝えていたのを忘れていた
「忘れてた」
「先生、御塩はそんな馬鹿みたいに手に入る物ではありません。なので、食べ物にかけて食べるといったふざけたことは二度とお止めください。良いですね?」
「は、はい。二度とお粥にかけて食べません」
俺と鬼一、他のゼミ生がいる時はこうではないのだが、二人きりになると何故か立場が変わる
「それでさ、何で鬼一がここにいるの?今、夏休みだぞ?友達と何処かに行くとかしないのか?」
「先生、喧嘩を売っているのですか?」
「あ、ごめん。どこかに遊びに行くような友達とかいなかったな」
鬼一はお家柄というか、雰囲気というか、とにかく人付き合いが悪く、俺が出会った頃から今の今まで仲のいい友達がいた試しがない
「わかりました、喧嘩ですね」
鬼一は無表情ながらも髪に刺してある二本挿し簪を抜き、握りしめている。
顔には現れないがかなりのお冠だということらしい
「じょ、冗談だって!冗談だから、その綺麗な簪を下ろせ!ってか、それって鼈甲の簪だろ?そんな高級な簪をそんな雑に扱うなよ!!」
「驚きです。オシャレとはかけ離れている先生が簪に詳しいとは」
「一応、これでも民俗学専門なんだが?」
「それでは先生にはこの簪が何鼈甲の簪かお分かりなのですね?」
「・・・・二択だ」
鼈甲の特産地は二ヶ所ある。
"長崎鼈甲"と"江戸鼈甲"、つまり長崎と東京のどちらかである
「手に取って見たいのだが良いか?」
「どうぞ」
鬼一から二本挿し簪を受け取り、まじまじと観察する。
"長崎鼈甲の簪"の特徴は、オランダや中国の文化が混ざり合っており、緻密で複雑な立体彫刻を施した、非常に煌びやかで豪華絢爛なデザインで、簪の扇部分に立体的な花鳥風月や、縁起の良い宝尽くしの模様などが厚みを持って贅沢に彫り込まれているのが特徴だ。
"江戸鼈甲の簪"の特徴は、派手さよりも、シンプルですっきりとした美しさが好まれており、刀身の流れるような滑らかな曲線美や、平面的でありながら光を美しく通す『透かし彫り』が多用され、着物や髪型にスッと馴染む、日常の装いに合わせた実用性の高いデザインが特徴だ
「・・・このシンプルな美しさ、江戸鼈甲だな?」
「流石です」
「よし。民俗学の教授としてのプライドは守られた!!」
俺は鬼一に"江戸鼈甲の簪"を返し、プライドを守れたことを喜ぶ
コンッ コンッ コンッ
プライドを守れたことに喜んでいると、研究室のドアがノックされた
「どうぞ?」
「失礼します」
ドアが開かれると、背がまあまあ高い男子学生が立っており、姿勢正しく入室するが、ある点で俺と鬼一は顔を顰める
「あれ?君は確か、どこかで見たような?」
「虎井です。虎井龍太、教授の講義は何回も受けています」
「虎井?いたようなないような。悪いな、俺って人の顔を覚えるのが苦手なんだ。気を悪くしないでくれ。」
「大丈夫です。それより、急な来訪、申し訳ありません。お時間大丈夫でしたか?」
「ああ、大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
「おっと、悪いけどタバコを吸っても良いだろうか?」
「自分は大丈夫です。でも、教授が吸うとは思わなかったです」
「吸うのは時と場合かな」
俺は自身のバッグからパイプ煙草を取り出し、火をつける
「パイプ煙草ですか?初めて見ました」
「以前、骨董屋で購入してね。っと、失礼」
俺はパイプ煙草に口をつけ、肺に煙が行かないよう注意しつつ、深く吸い込み、研究室全体に行き届くよう煙を吐き、不快にならない程度に虎井君へ煙を吹きかけ、部屋中に煙が行き届いたのを感じた俺はパイプ煙草の火を消し、来客である虎井君へ椅子に座るよう促す
「もうよろしいのですか?」
「ああ、これで充分だ」
「先生、虎井さん、パナマ・ゲイシャのアイスコーヒーですが、どうぞ」
機を見計らったように虎井君が椅子に座った瞬間、アイスコーヒーを出してくれる鬼一の言葉に危うく咽せそうになる
「ありがとうございます」
「鬼一、今、パナマ・ゲイシャって聞こえたけど、聞き間違いだよな?」
「いえ、パナマ・ゲイシャのアイスコーヒーと言いました」
聞き間違いであって欲しかった。
俺はただただ頭を抱えるしかなかった
「あの京坂教授?」
パナマ・ゲイシャのアイスコーヒーを美味しそうに飲む虎井君を見て、無知とは恐ろしいものだと改めて痛感する
「虎井君、パナマ・ゲイシャを知っているかい?」
「申し訳ありません。私、コーヒーにはあまり詳しくなくて。でも、凄く美味しいです」
「だろうな」
俺はパナマ・ゲイシャのアイスコーヒーを口に含むが本当に美味しい
「鬼一、一応聞くけど、このパイプ・ゲイシャのランクは?エントリーかスタンダードか?」
「先生にお出しする物をエントリーかスタンダードにする訳がありません」
「コンペティションクラスか?」
「勿論です」
「はあ、鬼一、お前馬鹿だろ?」
「先生はいらないようなので、下げますね?」
「ごめんなさい!飲みます!飲ませてください!!」
俺の飲みかけのアイスコーヒーを本当に片付けようとする鬼一に慌てて謝る
「教授・・・」
「虎井君、そんな目で俺を見るな。君も理由がわかれば俺の言動もわかるはずだぞ!!」
「ええと・・・」
「仕方がない。虎井君、君にこのパナマ・ゲイシャのコンペティションクラスの値段を教えてあげよう。価格相場、100gあたり数万円から5万円以上。最近は中国や中東のバイヤーとの買い付け競争でオークションでの落札価格が1キロあたり約460万円にまで爆発的に高騰した最高級のコーヒーだぞ!!」
「1キロあたり460万円?」
「そうだ!!」
虎井君は今、自分が何を飲んでいるのか、俺が何を言っているのか、理解を超えてしまいオーバーヒート状態に陥った
「え?う、嘘ですよね?」
虎井君は俺が嘘をついていると思っているのか、鬼一へ視線を向ける
「たかが460万円ですよ?」
「ひいっ!!」
鬼一の言葉を聞いた虎井君の表情が恐怖に変わる
「な、なんてものを出すんですか!!もう半分は飲んでしまいましたよ!」
「ほらな、虎井君、今の君の顔、恐らく先程までの俺の表情と同じだろう」
「意味がわかりません!教授、私は意味がわかりません!!何故、客人にこんな高級な物を出すのですか!!」
「俺もわからない。ただ、言えることはある。虎井君、ここで何を飲んだかは忘れるんだ。もし、言いふらすようなことがあれば、わかるね?」
「は、はい・・・」
「さてと、それで虎井君。今は夏休みなのに今日はどうしたんだい?何かお困り事かな?」
「え?この状況で話を進めるんですか!?」
「時間は有限。君が一番、理解していると思うが?」
俺の言葉を聞いた虎井君は一度、動きが止まり、顔を真っ青にさせる。
俺の言葉の意味を理解しているようだ
「京坂教授は都市伝説についてどう思いますか?」
「都市伝説?」
「やはり都市伝説は専門外でしたか?」
「ふむ、都市伝説か。鬼一、君の意見を聞かせてほしい」
「都市伝説と言えば、『トイレの花子さん』や『口裂け女』『てけてけ』『八尺様』が有名ですね」
「そうだね。昭和で有名となったのは『トイレの花子さん』や『口裂け女』『てけてけ』などがある。これの理由としては、急速な都市化、マスメディア(週刊誌やテレビ)の発達などによって、身近な場所の都市伝説が多く誕生した。それに対し、平成の都市伝説となると、『八尺様』や『きさらぎ駅』『くねくね』などが有名となった。これらが噂されるようになった要因はわかるか?」
俺の口から『くねくね』の名前が出た瞬間、虎井君の表情が緊張で強張るのを俺は見逃していない
「インターネットの普及や携帯電話・スマホの一般化ですね?」
「そうだ。インターネットが普及し、国民のほぼ全員が携帯電話などの通信機器を持つようになった。それにより、身近ではないどこか遠くの場所が舞台となった。その証拠に、昭和の都市伝説は学校や通学路といったほぼ毎日通っている場所が舞台となり、平成の都市伝説は田舎や別の世界が舞台となっている。それで虎井君、君が知りたいのは『くねくね』についてだね?」
虎井君は自身が知りたがっていることを俺に見破られ、先程までの不安そうな表情から驚きと困惑の表情へと切り替わっている
「な、何故、わかったのですか!?」
「『くねくね』の名前を出した瞬間の君の顔を見れば、誰だってわかるさ」
常日頃から仮面のように無表情な助手と同じ空間にいるためか、相手の表情を読み取るのが得意になってしまった
「何ですか?」
「いや、何も」
今のこの瞬間も鬼一は俺を睨んでいるが、側から見ればわからないだろう。
だが、確実に睨んでいるのがわかってしまう。
鬼一の目をよくよく観察すると、目の周りの筋肉が若干だが強張っている。
そういう顔の筋肉一つから表情を読み取れるようになったのは嬉しいことか悲しいことか
「・・・教授、『くねくね』とは、どんな都市伝説なのですか?」
虎井君は何か意を決したように、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる
「『くねくね』とは、田や川向こうなどに見える白色または黒色のくねくね動く存在で、その正体を見た者は精神に異常をきたすと言われている。インターネット上では、くねくねの正体は島根県の山間部に伝わる『タンモノ様』や九州に伝わる『一反木綿』説、ドッペルゲンガーの一種とする説、熱中症による幻覚説など、様々な説が挙げられているよ」
「もし、もし『くねくね』を見てしまったら、どうなるのですか?精神に異常をきたすと言っていましたが、死ぬんですか?」
虎井君のこの反応、虎井君の身近な人が『くねくね』を見てしまったのだろう
「場合による」
「場合による?」
「例えば、『くねくね』を近距離で直接見てしまったのなら、もう諦めろ。だが、遠距離で直接見てしまった、鏡越しや望遠鏡越しに見たのなら死なないだろうが、狂ってしまう。だから、『くねくね』は見るなが前提だ」
「・・・・」
「虎井君、『くねくね』を見たのは、君の身近な人かい?」
「な、なんで・・・」
「君はわかりやすいからね。そして、俺の予想だと君も狙われている。違う?」
虎井君の顔色はもう真っ青どころか真っ白に血の気が引いている
「仰る通りです」
「だと思った。だから俺はタバコの煙を君に吹きかけたんだよ」
「ど、どういうことですか?」
「妖怪や怪異はタバコの臭いが大嫌い。それに俺のタバコはそれ専用にしているからな」
「ということは、教授は最初から気がついていたのですか?」
「ああ。俺も鬼一も、君が研究室に入った瞬間に気がついたよ。まあ、これに関しては、何かの怪異の影響を受けている程度しかわからなかったがな」
虎井君が研究室に入った瞬間、俺と鬼一が顔を顰めたのはこれが理由である。
俺はあの川の生臭い臭いを、鬼一は恐らく線香の臭いを感じ取っていた。
それに虎井君と会話している今も、左足のあの痣が痛む
「・・・教授、助けてください」
「え、無理だが?」
「え・・・」
予想外の切り返しを受けた虎井君の目には困惑が見受けられる
「俺は神主でも祓い屋でも陰陽師でもない。知識はあるが怪異を退治することは出来ない。もし、君の身に何かが起こっているのならお祓いに行きなさい。俺は専門外だ」
「しました!!色んな神社に行ってはお祓いをしてもらいました!でも、効いていない。現に今でも、あの白いのが毎日夢に出てくる!それに今朝、母に聞いたら智君の症状が一向に回復していないって言ってました!もう教授だけが頼りなんです!!」
智君と言っていたが、その子が『くねくね』を見てしまったのだろう。
だが、今の言い方は生きているということだ。
つまり、その智君という子供は『くねくね』を鏡か望遠鏡越しで見てしまい、狂ってしまったのだろう
「その智君は今も君の実家に?」
「は、はい。知り合いの神主さんから動かさないようにと言われているようで」
「そうか、でもなぁ」
「お願いです!どうか、どうか私と智君を助けてください!!!」
虎井君は勢いよく椅子から立ち上がると、床に頭を擦り付けるように土下座をする
「先生」
「鬼一?」
「行ってみましょう」
「・・・はあ。虎井君、頭を上げて、どこで何があったのか詳しく教えてくれ」
「は、はい!!」
頭を上げた虎井君の表情には絶望の中に希望を見出したと思わんばかりに明るくなる
「実は・・・」
虎井君の口から、いつ、どこで、誰が、何を見てしまったのか詳しく語られるが、聞いていると一つ不可解な点がある。
『くねくね』は『八尺様』とは違く、追ってくるタイプの怪異ではないはずなのに、何故、今も虎井君は狙われている
「話はわかった。今は夏休み、避暑地の長野にでも旅行に行くとするか」
「本当ですか!!」
「但し、宿泊先の予約は虎井君に任せる。俺は温泉が好きだからホテルより旅館が良い。そして朝食夕食付きのとりあえず二泊で頼む。もし飯山市に良さそうな旅館が無ければ野沢温泉が良いな。支払いは俺がするから虎井君は予約だけしてくれ」
野沢温泉は、日本で唯一、村の名前に『温泉』がつく『野沢温泉村』にある、日本屈指の歴史と文化を誇る名湯。
俺の予想だが、今回もかなり厄介なことになりそうなため、疲れきった体には野沢温泉が丁度いい
「承知しました!チェックインはいつにしましょうか?」
「明日」
「そ、そんな早く来て頂けるのですか!?」
「まあな」
「先生」
「どうした、鬼一?」
虎井君から視線を外し、鬼一の方へ視線を向けると、いつの間にかノートパソコンを開いていた
「色んな予約サイトで確認したのですが、今の先生の条件だと、明日はどこも予約が取れません」
「・・・」
「・・・」
「虎井君、今回の話はなかったことで」
「そ、そんな!!」
「やだよ?どうせ、面倒かつ厄介事で疲弊するに決まっている。それなのに温泉にも入れないなんて、俺は絶対に嫌だ」
「わかりました。では、虎井さん、宿泊先の予約は私に任せてもらって良いですか?」
「それは構いませんが・・・」
「ありがとうございます。先生、少し電話してきますので、席を外しても良いでしょうか?」
「ああ。ただ鬼一、俺は教授兼小説家で金はある方だが、限度がある。それを忘れないでくれ」
「勿論、わかっております。では、電話してきます」
鬼一はノートパソコンを閉じると、席から立ち上がり、研究室から出ていく
「不安だ」
「だ、大丈夫ですよ。多分・・・」
「鬼一は常識がありそうでないタイプの人間だ。さっきのコーヒーが良い例だ」
「・・・不安ですね」
「ああ、不安だ。おっと、それよりも虎井君も親御さんに連絡しておいたら?」
「そ、そうですね!!ちょっと自分も連絡してきます!!!」
虎井君はポケットからスマホを取り出し、彼もまた鬼一同様、研究室から出ていった
「一日で終わりそうだが、二泊目は公衆浴場を満喫しよう
二人が戻ってくるのを高級アイスコーヒーを飲みながら待っていると、先に戻ってきたのは虎井君の方だった
「親御さんはなんて?」
「心配していました。私の身に危険があるんじゃないかって。でも、専門家がいるから安全だと言っておきました」
「虎井君、安全な訳ないだろ?」
「え?」
「ぶっちゃけ、死ぬか智君だったか?その子みたいになる可能性がかなり高い。勿論、関わってしまった俺も危険だ。だから、君には東京に残っていてもらいたいのだが?」
「いいえ、私も行きます。私が教授を巻き込んだのに自分だけ安全地から高みの見物など出来ません」
この短時間で虎井君がどんな人間なのか、かなり理解できた気がする。
虎井君は本当に正義感の強い子なんだろう
「どんな結末となっても、後悔は勿論、恨むなよ?」
「はい!!」
「先生」
虎井君の覚悟を試している間に、鬼一の電話は終わったらしく、戻ってくる
「一部屋だけですが、確保することができました」
「え、本当!?なんて旅館?」
「旅館さ○やです」
鬼一の口から旅館さ○やの名前が出た瞬間、俺は驚愕せざるを得なかった。
旅館さ○やは、江戸時代から18代続く、野沢温泉を代表する憧れの老舗高級旅館で、職人の技が光る宮大工造りの伝統的な湯屋建築の大浴場があるので有名だ
「馬鹿だ。やっぱり鬼一、お前は馬鹿だ。こんな高級な旅館、泊まれる訳ないだろ。二泊でも数十万はする旅館だぞ?流石に無理だ」
「二泊で5万円、朝食夕食付きで予約取れましたが、キャンセルしましょうか?」
「よし、今日はもう帰って明日の準備をしなくては。鬼一、部屋タイプは何か聞いてる?」
あの旅館さ○やが二泊で5万円などといった低価格で宿泊できるのなら、行くに決まっている。
それに、鬼一のことだ。
実家のコネをフル活用したのだろうから、鬼一のメンツも考えてやらないといけない
「和洋室です」
「最高だね。虎井君、俺は明日の始発の新幹線で飯山駅に行く。虎井君はどうする?」
「私はこの後、実家に帰って、飯山駅に迎えに行きます。それに智君の様子も見ておきたいので」
「わかった。でも、虎井君も狙われていることを忘れるなよ?」
「勿論です。それでは教授、明日はよろしくお願い致します!!」
虎井君は実家へ帰るために嬉々として退室していき、俺も明日の準備があるため今日は解散することにした




