1
『七瀬さん、私、今日もお昼から出かけます』
スマホに届いた彼女からの文面を何度見ても内容は変わらない。なのに、確認してはため息をついている。
私のようなものに、彼女のような恋人ができたことは、本当に奇跡だ。
だからこれは、順当な結果なのかもしれない。
昼過ぎのチェックイン時間になると、アクアマリンには新しい宿泊客がやってくる。
本を読むのをやめ、部屋を出て、螺旋階段の上から呼び出し鈴が鳴ったリビングを見下ろす。今日は誰が来たのか確認するのが、一ヶ月滞在するこのゲストハウスでの習慣だ。
「ようこそ、アクアマリンへー!」
キッチンの奥から小走りにやって来た彼は、張りのある声で今日の客を迎えた。居酒屋の出迎えの挨拶のような勢いだ。
彼を見て、私は独りごちる。
「今日は晴真くんのシフトでしたか」
受付で幼い子を連れた三人家族を出迎えているのはオーナーの心くんではなく、アルバイト従業員の晴真くんだ。
薄茶色の爽やかな短髪の彼は現役の大学生で、心くんと交代でシフトに入っている。まぶしい光のような子で、私は彼に近づくと彼の明るさで焼け焦げてしまいそうな気になる。
「お子さんのお名前は海斗くんですね。すっごく可愛い~!」
三歳くらいの男児、海斗くんの前に膝をついて屈んだ晴真くんが、明るい笑顔で語りかける。海斗くんのご両親も彼の人懐っこい接客に安心したのか、嬉しそうに話し始める。彼は心くんとはまた違った距離の詰め方をする青年だ。
「今日来るのは一組と聞いているので、彼らの部屋は205ですね」
彼らが部屋に案内される前に、私は自分の部屋に戻った。
私の部屋は202。
隣の角部屋201は、瑞葉さん。
新しく来た彼らは三人だが、まだ子どもが小さいのでベッドはツインだろう。
203はツインベッドの部屋。だが、部屋に余裕があるとき、心くんは私の隣、203を空き部屋にする。204はなく、205は角部屋。子どもがいるなら騒がしくなる。なおさら一部屋、間を空け、私に静寂を、あの家族に角部屋の安心感を与えるだろう。
心くんらしい配慮だ。
部屋に戻った私は、201のほうを向いてベッドに寝転んだ。英字のぶ厚いミステリー本を広げる気にならず、紺碧の壁の向こう側を意識して見つめる。
「瑞葉さん……」
私の声が、アクアマリンの窓から入る爽やかな風を湿らせてしまう。
私はイギリス在住の日系イギリス人で、仕事はミステリー作家。
恋人である瑞葉さんは、私の大福係だ。
純日本人の彼女は私の家に住み込みで、私の身の回りの世話をしてくれている。
「七瀬さん、ちゃんとしたご飯を食べないとダメですよ!」
そんな彼女の定型句を、今すぐ聞きたい。
私の世話の九割は大福を作って、私に食べさせることである。
あとの一割は私にまともな夕食を食べさせるために外食に引っ張り出すことだ。
彼女に大福以外の調理は依頼していない。
彼女は家事従事者ではなく、専門性を持った大福職人なのだ。
彼女は以前、企業で働きながら副業で大福の通販をやっていた。彼女の大福のファンだった私は、彼女の事情を知り、大福係としてスカウトした。
「瑞葉さんの職場はブラックなようなので、イギリスで大福係に転職しませんか?」
「大福係? なんですかそれは?!」
「企業はあなたの代わりを探せます。しかし私は他の誰でもない、あなたの作る大福がないと困ります。あなたに健やかでいてもらえるように、上質な福利厚生を約束しますよ」
私の申し出に、とんでもなく驚いた彼女の顔が懐かしい。
私はイギリスでそこそこ売れている作家であり、しかも代々の資産持ちなので彼女を高給で雇うことに成功した。
イギリスへ来てもらい、大福係を勤めてもらっているうちに、彼女は変わり者の私になぜか絆されてくれて。
「あの、その……なりたいです、七瀬さんの彼女」
照れた彼女の桃色に染まった頬の瑞々しさを、私は忘れられない。
そうやって、恋人の地位をもらった。
この一ヶ月は彼女の母国である日本でバカンス中だ。
私は深夜に活動することが多く、彼女は早寝。だから、部屋が別々であることに不満はない。
だが、六日前から、彼女に避けられている。
「……ティータイムは、また、私一人ですか」
何事もなければ、瑞葉さんが作った大福と彼女が淹れてくれた紅茶でティータイムをする。けれど、ここ六日、大福を作り置きした彼女は、一緒にティータイムをしてくれていない。
「七瀬さん、バカンス中なのでお昼間も外出してきていいですか?」
そう言われれば頷くしかなく、それ以後はスマホの連絡一本で出かけていってしまう。
ケンカをしたつもりはない。
最後に一緒に過ごしたあの日は、部屋で一緒にイギリス映画を見て、内容が良かったと二人で話した。
「私はイギリスの風土でこそ、ミステリーを書けるのだと思います」
そう言った。何度思い出しても、私たちの間に諍いはなかった。
しかし、私のことだ。
きっと、何か失敗してしまっているのだろう。
私は常に最悪を想定し、それを採用する。
そうしておけば、どんな場面でも最悪より悪くはならないからだ。けれど今回は、私の不備が思い当たらない。
ベッドに寝転びながら、私はボールペンを握りノートに胸のもやを書き殴る。頭は思考が速すぎる。ペンを通して文字にすることで多少なりとも思考を引き止め、頭の中を掃除できる。ノートに英字が詰まっていき、真っ黒になってしまう。
これは誰も読まなくていい、私の心の澱みだ。
「時間ですね」
字を書き続けているうちに、ティータイムの時間になってしまった。
ドアを開けて部屋を出ると、廊下に、幼児がいた。
小豆のような目と目が合う。
ヒッと小さな声が聞こえた。
「危ないですよ。あなたの部屋は205です。帰ったほうがいいです」
螺旋階段前で下を覗き込む海斗くんに助言する。彼は今にも階段から落ちそうだ。目の前で子どもが血だらけになるのは、さすがに見たくない。
それにこんな近くで事件が起きたら、瑞葉さんも悲しむだろう。彼が落ちないように、彼の首元の服をぎゅっと掴む。
「ぎゃああー! ママ! ママぁあ!」
海斗くんが振り返り、いきなりショットガンのような泣き声を上げる。耳が痛くてふらつきそうだった。
泣き声に驚いて、キッチンから瑞葉さんと晴真くんが飛び出しきた。階段を大慌てで上ってくる。子どもの首根っこを掴んできる私を見て、晴真くんが目を丸くした。
「ちょっと、七瀬さん! 誘拐はヤバいですって!」
瑞葉さんがぎょっとする。
「じょ、冗談でもそういうこと言うのやめてよ、晴真くん! 七瀬さんは目つきが悪いんだから、海斗くんのご両親がびっくりするでしょう!」
二人が私を悪い目で見ていないことはわかる。だが、どうにも容疑をかけられやすい性質であるとは、思っているようだ。
「ママぁ!」
泣き叫ぶ海斗くんの前で、晴真くんが先ほどのように膝を折る。
「海斗くん、迷子かな? お部屋まで連れていってあげるね」
瑞葉さんも同じように彼の前にしゃがむ。
「大丈夫だよ~、泣かないで泣かないで」
彼女がやさしく海斗くんの頭を撫でると、つんざくようだった泣き声が落ち着いていく。彼女が私のほうに手を向けて言う。
「このお兄さん、七瀬さんは、悪い人じゃないから。きっと階段から落ちそうなのを守ってくれたんだよ。そうですよね、七瀬さん?」
「はい」
海斗くんの服を掴んでいた手をパッと離し、彼らの横を通り過ぎて階段を下り始める。瑞葉さんが私のことをよく知っていてくれていて、ほっとした。
顔がゆるむのを見られないように背を向ける。
階段を下りて振り返ると、海斗くんを自然な仕草で抱きあげた晴真くんと、寄り添ってあやす瑞葉さんが目に入る。
「……私には向いてないですね」
子どもを抱き上げて嬉しそうに笑う晴真くんのように、私がなれるとは思えない。
そんな話を、彼女としたことはない。
けれど、瑞葉さんが海斗くんを見る目は優しく、彼女は将来的に母親になりたいのだろうと想像する。
「お似合いですね、子どもを挟んだお二人が」
喉の奥に苦い味がした私は、瑞葉さんが用意しているだろう甘い大福を食べるために、キッチンへ向かった。




