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海斗くんを部屋へ送ったあと、連絡通りに瑞葉さんは外出してしまい、ティータイムを一緒にすることはなかった。
私は大福を一つ、二つ、三つと食べて、二つを残す。
いつもならすぐ完食してしまうのに、もったいなくて食べきれない。あと何度食べられるのか、などと推測してはかき消す。
アクアマリンが夜を迎えると、海斗くんたちは部屋へ戻り、リビングに静寂が訪れた。私は彼らが部屋へ戻ったのを確認してから、夜のリビングに下りる。
大きな硝子窓の向こうの真っ暗な夜の海を眺め、瑞葉さんの帰りを待ちながらリビングのソファに寝転んでいた。暗い海にうんざりして本を読み始めると、ソファの裏から声をかけられる。
「七瀬さん、今日は晴真くんを助けていただいたみたいで、ありがとうございました」
進みの悪い展開にイライラしていた本から顔を上げると、寝転んだ視界に心くんがいた。私はゆっくりと座り直す。
「何もしていませんよ。晴真くんはきちんと対応していました」
ソファの縁を挟んで心くんに言うと、彼は夜に似合う静かな笑みを浮かべる。
「晴真くんが対応するまで、七瀬さんがお子さんを引き止めてくれていた。だから大事にいたらなかったと、報告を受けています。事故にならなくて良かったです」
うっかりな晴真くんは、大事なことの報告を忘れている。
「私は子どもを泣かせただけですよ」
「七瀬さんはそう思うかもしれませんが、僕は助かったと思っていますので感謝しています。良ければ何かお礼をさせてください」
心くんがどうぞと言うので、ちらりと受付を見る。
受付には「謎解き、ご用意します。」の看板がある。
彼の謎解きは一風変わっている。ココロの謎を解いてみせるものだ。
悩みの中にいる私だが、あれをミステリー作家が注文するのもなにか違う気がする。それに、心を晒すのは覚悟がいることだ。
長考している間、心くんはやや口の端を上げた穏やかな表情で待っていた。急かされる気がしない。彼は知性があり、人を追い立てることをせず、気づけば側に立っている。月みたいだ。私はやっと口を開く。
「チェスを、したことがありますか」
「チェスですか?」
「本に飽きてきたので、遊び相手が欲しかったのです」
瑞葉さんが帰ってくるまで、何も手につかない。瑞葉さんが帰ってきてもまた、どうせ手につかないが。
「七瀬さん、チェスをなさるんですね。僕も昔はよくやっていて、チェス盤もありますよ。やりましょうか」
「仕事は大丈夫ですか」
「夜勤は特に何もなければ待機しているだけなので。それにしても」
彼はまじまじと私を見つめる。
「やる前から七瀬さんはチェスが強そうなのがわかるので、僕で相手になるか心配ですが」
「なんでもいいです。ただ駒を触りたいだけなので」
「なら構いませんが」
心くんは受付の後ろの棚から折り畳み式のチェス盤と、駒を持って戻ってきた。檜の一枚板でできたテーブルを挟んで向かい合って座り、チェス盤の上に駒を並べていく。手持ちぶさたが続いていたので、少しわくわくする。私はふと思いついた。
「余っている大福、食べますか」
「いいんですか? 大事な大福」
心くんが面白そうに言った。私が大福に執着していることを彼は把握している。
「二人でいるのに一人で食べるなと、昔、親友によく叱られましたので。分けたくなくても、礼儀として分けるべきだと知っています」
心くんがくすりと笑う。
「遠慮したほうがいいのかもしれません。でも、七瀬さんの礼儀正しさが嬉しいので、いただきます」
「そうしてください」
「じゃあ僕がお茶を淹れますね。七瀬さんは紅茶がお好きでしたよね」
心くんにお茶を淹れてもらったことはないのだが、彼は私が大福と紅茶を嗜むことを知っている。彼の観察眼は細やかだ。
テーブルにチェス盤と、紅茶の入ったカップと、大福を並べる。私は底へ底へと考える癖があるが、テーブルの上に好きなものが並ぶと底から少し浮上できた。
「いただきます」
私はそう言って、昼には一人で食べた大福をぱくりとかじる。
今日は「かぼちゃクリームチーズ大福」だ。
瑞葉さんは季節感を大事にするので、大福には常に季節がある。
かぼちゃ餡の中にクリームチーズが入った意欲作。
ほろっとした甘さにチーズの酸味がよく合っていた。クリームチーズを好む私のための作品のような気がして、またほっとする。心くんは大福を一口で飲み込むように食べてしまった。もう少し味わってくれてもよかったのだが。
「大福にクリームチーズなんて初めて食べました。瑞葉さんの大福、うちのウェルカムスイーツとして仕入れたいくらいおいしいです」
瑞葉さんの大福は私が買い占めているのでお断りします、と言いたいところだ。だが、彼女の副業は禁止していない。
「瑞葉さんに聞いてみてください。大福は冷凍できるので、イギリスからでも仕入れられますよ」
「聞いてみます」
心くんは私に合わせて入れた紅茶を一口飲んで、ぱっと目を見開く。
「大福に紅茶はどうかと思いましたが、意外と合いますね」
「紅茶に合うように瑞葉さんが餡の甘さを調整してくれているんです。今日はクリームチーズ入りなので特に合うでしょうね」
「よく知っているんですね」
私は残りの大福を大切に口に運んだ。
「大福に込められた彼女の気遣いだけは、すぐにわかりますが……彼女のことは、よくわかりません」
大福と紅茶でつい緩んだのか、言わなくていいことを言ってしまう。
心くんは少し困ったように微笑みながら、チェスを開始した。
「七瀬さんみたいになんでも見抜く人が、そんなことを言うなんて。ちょっとしっくりきませんね。よくわからない、フリをしているだけなんじゃないですか」
しばらくチェスの攻防が続いてから、私はようやく言葉を返す。
「……なかなか、手痛いことを言います」
心くんは盤面を見つめたままだ。
「七瀬さんも、こんなチェス素人に容赦ないです」
「心くん、ただの素人ということはないでしょう?」
彼が駒を進め、私も迎え撃つ。コツ、コツとチェスの駒が盤を突く音だけがリビングに響く。心くんは嗜んだだけと言っていたが、それなりの実力者だ。
「小学生のときですが、日本のジュニア全国大会に出たことがあります」
「でしょうね」
「しかし、七瀬さんは強すぎます。これはもう指導ですよね」
「バレましたか」
「彼」には及ばないが、心くんは良い遊び相手になってくれそうだ。私が次の手を考えているうちに、心くんが問いかける。
「瑞葉さんと一緒にいるところを見かけませんが、ケンカでもしたんですか」




