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「瑞葉さんと一緒にいるところを見かけませんが、ケンカでもしたんですか」
「していません。ですが、いつもお喋りな彼女の沈黙や、外出の頻度に……」
頭ではチェスの勝ち筋を考えているせいか、口が妙に素直なことを言い出してしまう。
「私より話したい相手が他にいるのでは、と邪推してしまいます」
心くんは話し方、声、言葉の選び方、視線、すべてを用いて人の心を晒させるような空気をつくる。乗せられているようだ。
「瑞葉さんは、七瀬さんを選んでいるんですよ? 言うとあれですが、男性の趣味はわりと変わった方だと思います」
「なかなか酷いことを言います」
心くんは茶目っ気をもって笑いながら、刺すようなことを言う。
彼は女性や子どもにとても優しい。だが、男には少し雑なところがある。晴真くんと話しているときの心くんは、男性特有の明るいノリもある。
しかし彼の言う通りだろう。
生まれてこのかた、友だちが一人しかできなかったような私は当然、偏屈な変わり者だ。
小学生の頃、クラスで育てていたチューリップのいくつかが生育不良で茎が出ず、葉だけが発芽した。
チューリップは茎がないともう花が咲かない。その葉っぱは生まれても無意味なのだ。
私はその葉をかわいそうに思って、間引いてやった。
するとクラスメイトたちから命を刈ったと強く責められ、私の思考が変わっていることを指摘された。
普段から意思疎通がズレやすい私に対して溜まっていた鬱憤が、その事件を機に弾けたのだろう。
そのとき、私は自分が普通とは違うのだと気づいた。
私には仕事も資産もある。
だが、人との関わりにおいては何もかも足りない自覚がある。
私が一手指すと、心くんはすぐ一手返した。
「そんな瑞葉さんの心を動かすような相手は、そうそういないでしょう。まさか、心当たりでもあるんですか?」
「チェックメイトです」
心くんはぺこりと頭を下げて笑う。
「知っていました。負けました。さすがにお強いですね」
負けがわかっていながら突き進んでいたのはおそらく、私の話を引き延ばすためだ。
盤上では私が勝ったが、ココロの盤面では彼が上手。それでいて、嫌な気分にさせないのだから、彼には人徳がある。
心くんはもう一戦するつもりか、駒を戻していく。
私は戻る駒を見ながら、ぼそりと言う。
「先ほどの話ですが、瑞葉さんのお相手に心当たりがあります」
心くんの手が止まる。
「まさか、晴真くんとか言い出しませんよね?」
「さすがにそんなことは思いません。瑞葉さんを見ていればわかります」
私はナイトの駒を手に取ってじっくり眺める。
「実は瑞葉さんのそばには……私よりずっとチェスが強くて、人当たりが良くて、優しい男がいるんですよ」
駒を整列させた心くんは、きょとんと首を傾げる。
「七瀬さんにそこまで言わせるなんて、相当ですね。その人はチェスのプロですか?」
「もう二十年前になりますが、当時十五歳でイギリスの大会で常勝していた人物です」
「チェスの本場ですごいですね。そんな人が瑞葉さんのそばに? よく会いに行っているのですか?」
心くんがまた一手打ち、二試合目が始まる。私は持っていたナイトを盤上に置いた。
「彼はナイトのように、ずっと瑞葉さんそばにいるのですよ」
「ずっと、とは?」
「彼は私の親友で、テトといいます。彼は十六歳ですでに、病気で亡くなっていて……今は幽霊です」
心くんは自分のナイトを持ったまま手を止めて、信じられないものを見る目で私を見た。
「……え? ど、どういうことでしょうか? 冗談ですか?」
私も、自分がどれほど不思議なことを言っているのかわかっている。
けれど、私と瑞葉さんの間で、これは事実なのだ。
「瑞葉さんは、幽霊が見えるんです」
心くんの喉が息を飲んだように動いて、どう受け止めるべきか悩んでいるのがわかる。普通はそう反応する。私も最初はそう思ったので、外では極力この話はしない。
けれど、ここに滞在して半月、心くんを見ていて彼なら話しても大丈夫だと確信している。彼は誰にも言わない。
だからゆるんだ心が少しずつ、溜まった澱みをこぼしてしまう。
「な、七瀬さんのように理詰めの方が、幽霊を信じるんですか?」
心くんの瞬きが早くなり、動揺が見える。
大福係として瑞葉さんを雇ってしばらくたったころ、彼女が、私にテトが憑いていると教えてくれた。
彼女が言うには、死者は大事に思う人が心配だと戻ってきて、幽霊になって憑いてしまうらしい。俗にいう悪霊というものはおらず、幽霊はみんな良い人だという。
私は心くんに向かって、首を横に振る。
「私はテトが見えませんし、幽霊の存在も信じがたい。けれど、瑞葉さんがそう言うのだから、テトはいるのでしょう」
「幽霊は信じていないけれど、瑞葉さんを信じているということですか」
「そういうことです」
心くんは細かく頷いて呟いた。
「……瑞葉さんが七瀬さんを選ぶ理由に納得しました。なかなかできませんよ、それは」
そうだろうか。
瑞葉さんを恋人にしたい男なら、当然そうする。特別なことではない。私は話を続ける。
「瑞葉さんはテトと話せるそうです。テトは私に憑いている霊だそうですが、瑞葉さんに懐いていて、ついてくると聞いています」
心くんはついに駒を置いて腕を組んで首を捻った。
「そのテトくんに、瑞葉さんが心移りするかもって、本気で心配していると?」
「テトは十六歳の姿だそうです。瑞葉さんがそんな少年に心移りすると思っていません。けれど、彼女が私よりテトに信頼を寄せても、おかしくないとは思っています」
「これは信頼の話……でしたか」
心くんは冷めた紅茶を飲み切って、リビングの吹き抜けを見上げてしまった。
私の話が濃くて重いのだろう。
自分でもわかっている。私も紅茶を一口飲んだ。
「テトは、私の唯一の友だちでした」
ひねくれた思考の私は当然のことながら、チューリップ事件のあと、同級生の輪に馴染めないでいた。その頃はもう、同い年の子たちがチンパンジーのようだと思うことで、一人の寂しさを紛らわせていた記憶がある。
しかしテトは、教室でひとりきりでいる私をチェスに誘ってくれた。
そして私を徹底的に負かして「強いじゃん! また明日もやろう!」と言ってくれたのだ。それからテトは亡くなる間際までずっと、私をチェスに誘ってくれた。
「彼が誰よりいい男なのは、私が一番、よく知っています。湿った私より、彼と語り合うほうが、人生は有意義でしょうね」
心くんが痛ましそうな顔をする。
「七瀬さん……瑞葉さんとゆっくり話をしたほうが」
彼の言い分はすこぶる正しい。チェスの途中だが、私は立ち上がる。
「私もそう思います。チェスに付き合っていただき、ありがとうございました。楽しかったです」
「あ、七瀬さん」
引き止める心くんの声を聞こえないふりをして、私は螺旋階段を上って部屋へ戻った。
瑞葉さんに「今のあなたが一番話したいのは、テトですか」と素直に聞けるような男なら、見えないテトに負けはしないだろう。
瑞葉さんが壁の向こうに早く帰ってきてくれることを願いながら、201のほうを向いてベッドに寝転んだ。またベッドでボールペンを握って、重いものをノートに吐き出すように文字で真っ黒に埋める。
文字を書いて寝転んでいるうちにまどろみ始めた私の耳に、少し開けた窓の外から、さざ波の音が聞こえた。
波音はまるで瑞葉さんが誰かとお喋りしている声のように優しくて、彼女の声が聞きたくなった。




